(11.05.26)

久しぶりにじっくり他人の写真を見たような気がする。
気になる点はたくさんあっていちいち細かく指摘したつもりだけど、結局のところ「いい写真」って何だろう、という思いになる。
「好きな写真」というのはあって、そのパターンもだいたい把握しているつもりである。
好きなジャンルのものでなくても、心を打つものとそうでないものがあるのは不思議である。
その結果「好きな写真」のパターンが増えるというのもよくある話。
結局のところ「いい写真」というのは、被写体や作品づくりに対する真摯な心がけなのかという気がする。

何か思うことがあってシャッターを押して、その中から人に見せたいと思うものを選ぶということには、
何らかの思いが強いものでないと絶対に目を引かない。
そういう意味では自分が取り組んでいる写真は、「強い思い」のようなものが希薄でさっそく前言と矛盾してしまうのだが、
ここ10年同じようなことを飽きもせず続ける謎のこだわりには、それなりに意味があるのかなという気はしている。
もっとも自分にとって面白ければそれでいいという乱暴なことも考えてしまうが、
それでは「究極の客観性」という写真の大切な機能を殺してしまうかもしれない。
でも、強い自己愛みたいなものもパワーがあって、目を引いてしまうというのもまた真理かもしれない。

結局一番気になってしまうのは街の風景でもあるし。ポートレートなんかも好きなのだが、
哀しいかな自分にはやっぱり見る目がない。
さて、それ以前の話に、テクニカルな面などで丁寧さを心がけないものは論外だと思う。
完璧きれいに見せるというのは実に難しくて、自分でもまったく出来てはいないのだけど、
以上でうだうだ言っておいて僕が気にしたいのは、
写真の内容や精神云々よりも印画紙の選び方やプリントの品質、額装の方法だったりする。
やっぱり自分の大切な写真は、最高にかっこよくして見せようとしないともったいない。
かつて自分もプリントにはかなりこだわったつもりだが(その割にはゴミとかキズを指摘されるのもしばしばでしたが…)、
それと同じくらい展示方法をどうしようとか、キャプションのフォントをどうしようとか、マットフレームや額縁は何を使おうとかを、
考えるのも同じくらい重要視していたし、また楽しかった(もっともこれを心がけたのはある程度年数が経ってからだが)。
こういう変なこだわりの強い人間に限って、どうしようもなく不器用だったりするので、その点私も大変苦労したのだが、
文明の利器(PCなど)や優秀な既製品でもある程度カバーできる。
また、他人に任せられるものについては押し付けてしまえばいいのである。
逆にプリントはとことんこだわるべきだし、いくらかのロスプリントも覚悟しないといけない。

とにかくこうした努力の形跡が見られないものは、鼻から見る気がしないし、評価しようもないものである。
長々とどうでもいい事を書いてしまったが、とにかく写真を撮って見せることへの楽しみが無いと、その行為は無意味なものになってしまう。