(07.02.08)

高校で最初に写真をはじめた動機は、本当にはっきりとしなくて今でも不思議に思うのだが、
とりあえずは街の風景を写してみたいし、なんとなく記録をしてみたいなーと思って、
札幌市内を一日乗車券で色々撮り歩いたこともあった。
そんなことを1年半くらい続けていたが、何となく飽きてしまって、別の趣味や活動も続けていたので、
大学に入るまでそのペースはかなり落ちていた(月1本とかそういうレベル)。

それで、大学入学してしばらく、
もう一度ちゃんと写真をやってみようと思い(実は高3くらいから徐々にそんな気はしてたが)写真部に入部。
人並みのプリント技術はあったので、それなりに充実した活動をしていた。
そこで、やはり写真についての本でも読まないといけないと思い、確か大学の図書館だったと思うが、
何気なくモノクロームの写真を見たときに何だか分からないが衝撃を受けた。
タイトルは確か「東京-網目の世界」。
巻末の著者一覧を見ると(オムニバス形式だった)、「森山大道」の名前。
とにかく衝撃だったのだと思う。
モノクロ写真ってこんなに格好いいものだったのだなとか、
何気ない街角もこんなにインパクトを与えられるのだなとか、
これまで撮ってきた写真に何か符号するものがあって、
「ちゃんと写真をやってみよう」という思いを新たにして、彼の写真を可能な限り見て、
ほとんど真似のような写真ばかり撮っていた(今でもそうだが…)。
それから、いろんな写真を見て、色々な考え方に触れて、
少しずつ自分独自の考え方や写真なんかも少し出来るようになってきたかなと、最近では少し思っている。

(07.03.29)

さて、今日は僕の好きな写真のフォーマットについて。
使用するレンズは大概28mmくらいで、発表するほとんどは横位置、
使うフィルムは35ミリモノクローム、横長にトリミングすることもある。
まあ、運用上の都合というのがもともとのきっかけだが
いつも写真を撮るときは「映画のような」ひとコマを意識する、というスタイルのためである。
しかし、「意識する」という言い方も変で、この3原則は人間の視点にもっとも近いもので、
「無意識」を「意識」できるフォーマットと考えている。
もちろん縦位置で撮って焼くときもあるが、それは撮る対象と空間の広がりを明確に意識して、
切り取っているときで、それはそれで大切にしているが。

(07.10.31)

自分としては、写真を撮るときにはフラグメントとシーケンスの二つのモードがあるように思う。
カメラで風景・事物を切り取る場合と、一連の流れ・余韻を捉えようとする場合。
前者は多くが縦位置写真で、静的なものを切り取り、
後者では横位置である程度の時間の流れを記録するように意識している
行為としては、前者こそが風景をカメラに焼き付けているとするならば、
後者はムービーカメラを回しているような印象である。
もはや自分でも何を言いたいのかよく分らなくなってきたのでこの辺にするが、
この二つのモードをより強く意識した撮影・制作を行っていきたいと思っている。
また、今までの話と大きく矛盾するようではあるが、
最近は「フラット/客観的」に写真を撮っていこうという思いもある。
「客観性/主観性」については、以前このブログでも長々と書き連ねたので省略するが、
あの時よりは気楽に写真を撮って持続させることができたらなーと思っている。
そこで、最近はとみにこのブログでも掲載される機会の多いデジタルカメラで撮影された写真。
仕事用に最近一台買ったのだが、これが今後の表現のためのキーになるかなぁと思っている。
勿論、銀塩の粒子を捨てることはしないが。
デジタル写真論についてはまた今度。

(07.11.24)

いつもの仕事もしつつ、今週は割と時間が作れたので、個展に向けての作品選定を進めていた。
焼いたのは大キャビネ判で100枚超。
2,300枚あった候補から半分以上削られたわけである。
これから追加で撮影する分もあるだろうから、本番までにこれをあと4分の1くらいにしたいところである。
しかし次々削っていくと、最終的には4つくらいのパターンに単純化されてくる。
自分でも妙に感心してしまうのだが、よくもまあ同じように一定して捉えられるなぁ。
そうなってくると、絞込みも簡単に思われるかもしれないが、
この段階になってくるとどれもこれもそれなりに思い入れがあり、気に入っている写真ばかりだから、ますます苦悩は深まる。

ともあれ、できるだけ一定の品質のものを提示したいし、
そのために分母は大きければ大きいほどいいと思っているので、これからわずかな期間ではあるが、
さらに撮ってさらに焼いていきたいところである。
セレクトを他者に託すという方法もあるのだし。
何を削って、
何を残すか。
写真は彫塑のようでもある。