2014-04 「写真都市」へ(2014年版)


 

始めに、展示の冒頭に掲げた序文を引用したい。
当然写真展が始まる前に考えたものだけど、
展示を行う中で考えが変わった事もあり、
これを軸に色々考えてみたい。



この度は「写真都市 札幌 伊藤 也寸志写真展」をご覧頂き、誠にありがとうございます。
ここには2011年から2013年まで、札幌の街角で撮った風景が展示されています。
 
2011年3月、あの震災の直後にこれまで住んでいた本州(栃木・福島・東京)から札幌に戻ってきたときに、当時の社会情勢にも影響されたのでしょうが、改めて生まれ故郷である札幌の街をしっかり見つめ直し、撮り歩きたいと思うに至りました。
 
そもそも2001年に写真を撮り始めた動機も、街の様子を自分の中に留めておきたいとい
うものでした。
その頃と変わらない風景、全く変わってしまった風景、そして今まさに変わろうとしている現場を見て、改めてこの街のすがたを再認識することとなりましたし、これからも撮り続けて行く動機ともなりました。
 
変わり続けるのが都市、また全ての風景は等価であると考え、淡々と撮る中でも親しみを覚える風景というのはあって、そんな極私的なコレクションともなっています。
 
どこまでも淡々とした記録と、撮り歩いた私や、ご覧いただく皆様の心情をつなぎ構成しよ
うとした「写真都市」としての札幌をお楽しみいただければ幸いです。




今回の写真展では(相変わらず)札幌の街並を撮り続けたものを展示した。
「記録として貴重なものである」
「淡々と撮っている方法に意義がある」
「しかしその中にもフェティシズムや意思のようなものがある」などの反応を頂いた。

「記録」や「客観性」というのは近年の自分の中でも重要なキーワードになっていて、
プリントの調子やキャプションの形式にもある程度反映させたつもりである。
もちろん作品のプリントにはそれなりのこだわりはあるのだけど、
最近はタブロー(tableau:絵画における完成作品のこと。対義語はデッサン)としてよりも、
もっと普遍的な見せ方が追求できないかなと思っている。

とは言え結局のところ写真プリントは「一点モノ」であり、
かつてほどでは無いにしても相変わらずのコントラストが高めのモノクロプリントであり、
最低限のクオリティを保つために様々の技術的な工夫はしたのだけど、
それを意識させないで違和感無く見る人に入っていける写真にできないかと考えている。

それに対する答えとして(現在では普遍的な写真の表現方法である)カラーではなくモノクロというのは、
考えようによってはさっそく「客観性」とぶつかるのではないかとも捉えられ、
「なぜモノクロか」という問いも大変多かった。
理由として、モノクロフィルムから自分の写真をスタートさせていて、
デジタル化した現在もその習慣・習性からであるとも言えるのだけど、
むしろモノクロの方が一定の客観性を獲得できるのではないかという考え方をしている。

客観性とは必ずしも無味乾燥なものではなくて、
むしろ徹底的な作為によって誘導されるものかもしれない。
モノクロにすることで「昨年」とか「30年前」などといった時間の概念を一度「漂白」し、
見る人に直接訴え、様々のイメージを浮かべることができるのではないかと考えている。
そのせいか分からないが、作品を見て「懐かしい」と言って下さる方が比較的高齢の方にも多くいらして、
「全てここ3年以内に撮ったものですよ」と言っても、にわかには信じられないという場面が沢山あった。

そういう意味ではモノクロにすることで時間の概念が一度フラットにすることができるのではないか。
逆にここから未来を感じることもできるかもしれない。
これを「客観」といっていいのか分からないけど、これも「誘導」の一つ。
また、作品一つ一つにつけたキャプションは、通し番号・撮影地・地区の通称・撮影日を記した。
本当にフラットにイメージさせたいのならば、キャプションすら要らないのではと思わなくもないが、
最低限の情報を提示することで各自がイメージする助けにならないかと考えた。
もちろんタイトルも解説も無いから、意図が伝わらない・不親切であると感じる人もいたが、
「意図が伝わらない意図」というひねくれたこともやってみたかったわけで、
こうすることで見た人がそれぞれの場所にまつわる思い出や情報を語って頂いたことは、
最後にまた詳しく書きたいと思うが「写真」を通して各自の「都市」をつくりたいという目的が達成できたのではと思っている。
そういう意味でキャプションの形式も「客観」に向かう「誘導」かもしれない。


とはいえ、完全に「客観」を獲得することはできただろうか。
こんなに「客観、客観」と言っておいて、
少し見方を変えれば、作品のセレクトは古い建物・事物に傾いていて
(これは自分が必死に避けようとしている「懐古趣味」や「ノスタルジー」にも通じる)、
トリミングもしていればパースを補正していたりで、「主観性」に満ちているとも言えるかもしれない。

むろん主観を完全に排した表現などは不可能だとは思っているけど、
写真は「客観」と「主観」それぞれを表現するのに適しているメディアだと思っているので、
その辺のさじ加減は永遠のテーマとなろう。
これは記録に徹した写真にも、逆に自らの感情を全面に出した作品にも感じるものである。
この際「主観的」に開き直ってしまえば、
過ぎ去った瞬間・モノは二度と戻らず、当然撮ることもできないので、
それに対する惜別もあるし、こうして淡々と過ぎて二度と再現できない日常に対する愛おしさのようなものも持っている。

だから、自分が意識的に避けようとしている「古き良きもの」も完全に排除することは不可能だろうし、
そうするつもりもないので、それも含めて今後も「淡々と」撮っていくのだと思う。

どう考えようが写真には撮るだけで「記録」になるという性格を帯びていて、
そこも今回強く意識したテーマである。
作品そのものが都市の記録であるというのもそうなのだけど、
今回まとめた過去の作品やテキストのアーカイブを見て頂いたのもそれに沿ったものになったかと思っている。
ともあれ記録や客観・主観というテーマは今後もずっと考え続けていくものになっていくだろう。

今の段階で自分が考える「写真都市」とは、
自分の中、もしくは誰もが持っている、その都市に対するイメージ・記憶を、
あたかも地図のように作っていくための、手助けとなり、もしくは如何ようにも想起可能な大きな「器」として写真という表現を提示しようとするものである。

それは、近代写真の始祖とも言われるフランスの写真家アジェの仕事にも通じるかもしれない。
元は「画家が風景を描くための資料」としてパリの街並を撮影をしていたというが、
そこには自己表現やドキュメンタリーを越えた、一種冷徹な記録の印象さえ覚える。

もちろん自分はそこまでの境地に全く達していないし、
アジェの写真には縦位置で風景を意識的に切り取ったものや、
街角で商売をする人々への暖かみのあるコレクションも数多く残されていて、
自分が考える方向との差異もまた明らかである。

写真を撮る人間は誰でもアジェになれるとも思うし、
逆に誰もここまでの高みに登ることはできないだろうとも思っていて、
これもまたずっと考え続けていくであろうテーマの一つである。

最後に、過去の「写真都市へ」との違いと、
当時から考えが進んだ部分や今後の展望を書いてみたいと思ったが、
・プリミティブな都市への興味
・モノクローム写真の持つインパクト・イメージの解体・グラフィカルな面白さ
・しかしそこに現れた紛れも無い「記録」の認識
・数人の写真家の影響
・そして自分なりの「札幌」という土地への印象、認識の総体
と2008年当時とほとんど考えていることが変わらず、
また答えも出ていないことに気付いたので、ここに筆を置くことにしたい。

(14.04.09記)

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