
丘の上にある「アップルタウン」から降りて、辺野古の浜辺に向かう。近くの公民館で祭りのようなことをやっているのか、道が車で埋め尽くされている。先ほどの「アップルタウン」ではほとんど人の姿を見かけなかったが、こちらにいたのだろうか。この辺野古の海にもエメラルドグリーンが広がっている。漁港の堤防の先には祠と拝所がある。大変美しい場所だが、この先が新基地の埋め立て予定地となっている。米軍であれ、民間空港であれこの海を埋め立てていいはずは無いと思うが、話はそう単純なものでもない。反対派の掲げる、多くの建設反対の横断幕が建設予定地のフェンスに巻き付けられ、風に吹かれていた。
沖縄と米国のモザイク模様を街角からも感じた一日だった。この日のカット数410。
6日目
ここまで連日の運転で疲れてしまったので、この日は再び那覇の街を歩く事にした。那覇も見ていないところがまだ沢山あるのだ。
部屋から国場川沿いに出て、初日に訪れた明治橋を越えて、那覇港旅客ターミナルへと向かう。土産物屋や大きな待合室などがあるが、現在では奄美諸島と鹿児島へ向かう便があるだけで、閑散としている。そこから北上して、「西」や「辻」と呼ばれる街を歩く。特に後者は性風俗店が密集しているエリアで、まだ午前の早い時間ではあったが、客引きの姿が少し見える。時間によっては撮り歩くのも大変かもしれない。更に北へ行くと、護国寺と波上宮という本土のような寺社仏閣を見かける。とはいえ、本殿の屋根は沖縄風の屋根瓦ではあるのだが。
波上宮は伊弉諾尊などが祀られていて、その由縁を調べると琉球古来の信仰と本土の日本神道が融合されたもののようだ。こちらの正月のスタイルなどはよく分からないが、初詣の日は大変混雑するらしい。神社の裏には終戦直前に撃沈された民間船「対馬丸」に関する記念碑や各種の慰霊碑、それからビーチがある。目の前の景色はバイパスの橋脚に塞がれているが、那覇市民の遊び場になっているようだ。看板を見ると、遊泳できるのは4月から10月まで。7、8月の限られた日数しか泳ぐ事のできない国から来た人間にはとても信じられないものだ。
近くを歩いていると、見事な石門を見かける。崇元寺(そうげんじ)という14世紀に建てられた寺院だが、大戦の戦火に遭い、石門が残っているだけである。境内だった場所にはこちらも見事なガジュマルの樹が根を下ろしている。しかし、コンクリート建築とともに、このガジュマルも見慣れたものになってしまった。


その後は、牧志、桜坂や壺屋、国際通りなど初日に訪れた所を再び歩きながら、土産物などを買う。初日と同じく、ここまでずっと飲まず喰わずで歩き回っているわけだが、まだまだいくらでも歩けそうな感じがする。誰かといる間は3食しっかりとって、普段しない間食までするのに、随分な落差であるが、おそらくほとんど口を開かないためであろう。一日中ずっと会話をしていれば、かなりのエネルギーを使うものだ。最後に、実に特徴的な建築である那覇市役所新庁舎を訪れ、路線バスのマップをもらう。相当な路線を持つ沖縄県では重要なものだろうと思う。
那覇空港の滑走路の延長線上にあって、次々と離陸する航空機を本当に間近に見る事が出来る。また、本島最西端でもあり、夕陽の名所としても知られているらしい。この時も多くの人々が島に集まりつつあった。地元の家族連れの姿も多くある。多くは三世代の5、6人くらいでビーチに点々と軽い食事などをしている。沈み行く夕陽や、それに照らされる黄金色の海も相まって、とても美しく、とても幸福な光景に見える。時期的にはちょっと早いらしいが、ちょっとした「ビーチパーリー」というものだろうか。その語源は言うまでもなく「Beach Party」で、アメリカより流入した文化であろう。彼らも沖縄の人も家族で行動する事を大切にしているのであろうということを感じた。
思う存分夕陽を堪能してから、すっかり渋滞してしまったバイパス道路を通って那覇市中心部に向かう。昼食というかすっかり夕食の時間だが、ふと思い出して「A&W」に車を入れる。この「A&W」は国内では沖縄地区でのみ展開しているファストフード店で、その歴史はマクドナルドよりも古い。メニューはベーシックなハンバーガーなどであるが、普通のポテトフライとは明らかに別物の「カーリーフライ」や、やはり非常に個性的なテイストの清涼飲料水「ルートビア」が面白い。そんな「A&W」と適当なつまみで飲んでこの日は終わり。この日のカット数485。
7日目
この日は再び車を出して郵便局に寄ってから北へ向かう。何はともあれ、1週間借りておいてよかった。
相変わらず混雑気味のバイパスを進んで、最初に訪れたのは浦添市嘉数にある「嘉数高台公園」である。ここの展望台からは米軍普天間飛行場が一望できる。よくテレビに映し出されるアングルで、すっかり見慣れたものになってしまったものだが、本当に間近に基地と市街地を望む事が出来る。基地には「オスプレイ」が数機並んでいる。このオスプレイも言うまでもなく昨今問題になっているものである。普天間飛行場移設もこの数年の政治混乱で進展が見られない。沖縄の人々が安心できるのはずっと先になってしまいそうだが、単純に「基地が無くなればいい」とか「基地が無くなると経済が成り立たない」という判断できない瞬間が、この日は何度もあった。
この嘉数の高台は同時に沖縄戦最大の激戦地でもあった。公園内には銃撃を受けた壁や、壕(いわゆるガマ)、トーチカなどが残されている。ちょうど、自衛官の人々が慰霊と陣地の研修のために訪れていた。結局、戦跡を見るのはここだけになってしまったが、沖縄を見る上ではどうしても避けられない風景であるようにも思う。
嘉手納基地をぐるっと囲むように走って着いたのは、沖縄県第二の都市「沖縄市」である。「沖縄市」とはいうが、沖縄県の中に県庁所在地でもないのに「沖縄市」とはしっくりこないものである。地元の人にとっては、沖縄市発足から40年以上たっても違和感は強いらしく、旧市名である「コザ」の方が通りが良い。よって、以降は「コザ」の地名を使用する。
車を停めたのは、コザ旧市街地の中心にある「コリンザ」の駐車場である。ここは市街地活性化のために作られたショッピングモールだというが、見事に大失敗したようで、公で運営しているような特産品を扱う店の他には、キーテナントとして仕方なくハローワークが入っているという有様である。その他は店の跡地、エスカレーターは一部故障したまま打ち捨てられていた。
その脇にはいくつかのアーケード商店街がある。なかなか小綺麗ではあるが、こちらもほとんど店が開いていない。その中に空きテナントを利用したであろう「ヒストリート」という市の資料展示室があり、いずれも米軍との関わりと記帳とするコザの歴史や文化の解説、史料や日用品などが並べられていた。また展示されている写真の多くは、報道写真家の石川文洋氏のものであった。米軍向けの歓楽街の発展やその象徴である許可証の「Aサイン」、反米闘争のひとつである「コザ暴動」「毒ガス問題」など、じっくり見るには少し時間が足りなかったので、図説と昔のコザの街並で作ったポストカードを購入した。
ゲート通りを渡って、「上地」という町に入ると、こちらは日本人向けらしい「社交街」が続いている。端から端まで5,600メートルくらいあって、これまで見た中で一番の規模かもしれない。「中の町社交街」というそうだ。そんな社交街の街角に経っていた中年男性に「さっきから色々撮っているようだけど…」と声を掛けられる。面倒な事案か、と思われたがそうではなく、「古い建物がどんどん無くなっているから、今のうちに撮ってまとめておくといい」という言葉をもらった。珍しい事案である。北海道からの旅行者であるという旨を伝えて、しばらく立ち話。しばらく本土に出ていたが、コザの生まれであるということで昔の様子などを聞く事が出来た。こちらも初めて訪れた沖縄の文化や街並・建物に関する印象などを述べて、旅の総括をするような格好になった。この街にもまた来たいと思った。 また中の町社交街や、「ゴヤ市場」などを経てコリンザへ戻る。次に向かったのは、そこから数キロのところにある「プラザハウス」である。一見なんの変哲もないショッピングモールだが、ここは1954年に開業した日本(当時は米国統治下であったが)で最初のものだという。確かにアメリカのホームドラマに出てきそうな独特の雰囲気がある。またしても「A&W」でやっぱり遅い昼食にして、プラザのベンチでしばらく休憩。テラスのようなところだが大変暖かい。他に人がほとんどいないということもあって、大変落ち着く。子どもの頃から、こういったショッピングモールに慣れ親しんできたということもあるかもしれないが。こういう「郊外文化」は北海道とも共通している部分だと思う。
8日目
出発の朝。那覇を経つ日は雨であった。なかなか蒸し暑い。天気が良かったら、最後にもう一回りしたかったところであるが。簡単に部屋を掃除してからチェックアウト。荷物と傘までさして、あまり満足には撮れなかったが、それでもマンションから壷川駅、それから空港などで少しだけ撮影。正午過ぎに搭乗して、沖縄を後にした。
