写真都市

Yasushi Ito Portfolio Page

2013-03-13 沖縄旅行記

 2013年2月20日から27日にかけて1週間、沖縄へ旅に出掛けた。ほとんど北海道から出ない私にとって、初めての沖縄はまるで外国旅行のようなものだ。
実際、北海道と沖縄は地理的に対極に位置し、特にこの真冬においては差異がはっきり現れる。
その他の文化なども全く違うと言っていいが、そのために見えてきた共通点のようなものも認める事ができた。

 2月20日6時30分。
まだ暗い中、地下鉄真駒内駅から空港連絡バスで千歳へ向かう。
今シーズンの異常な積雪量にうんざりしていたところなので、今回の旅行は良いタイミングであった。
1時間と少しかかって、新千歳空港へ到着。すぐにジェットスター・ジャパンのカウンターへ向かう。今回はこのLCCで関西国際空港経由で那覇まで向かうこととなる。
時期にもよるが、今回は那覇まで片道概ね7000円ほどで飛ぶことができた。インターネットでの様々な手続きが若干面倒かもしれないが、あとは普通のサービスで格安に利用することができる(ただ、座席が若干狭くて疲れる)。

 新千歳から2時間半ほどで関西国際空港へ到着する。千歳から関空へ行くのは、10年以上前の高校の修学旅行以来の2回目だ。さて、降機して関西国際空港ターミナル内で昼食としたが、次の便までまだ時間がある。元々1時間半ほどの時間が空いていたが、機材繰りの関係で更に90分遅れるとのことである。手続き等々を除けば、3時間ほどあるのでどこかで時間をつぶさないとならない。とはいえ、大阪都心までは列車で1時間少しかかるので往復するだけで終わってしまう。そこで路線図を見ながら手近な場所を検討し、空港から南海電車に20分ほど乗って「岸和田駅」で降りる。「だんじり」や岸和田城など、また近年ではNHK連続テレビ小説「カーネーション」の舞台として知られる人口20万人ほどの都市である。
 駅を降りて、何となく岸和田城の方向へ足を向ける。駅前の商店街などを抜けると、宮本町と呼ばれる界隈に木造の家屋が続く。詳しい歴史は分からないが、少なくとも戦前の建物でいかにも城下町という感じだ。岸和田城天守閣を経てから、蛸地蔵駅も訪れたが、これも大正14年建設の瀟洒な洋館風の建築でステンドグラスが印象的であった。その他、周囲の街を小一時間ほど歩き回る。気温は10℃くらいだったと思うが、海からの風が強く、北海道から着てきたコートのままでも暑いということは無かった。それでも、この段階で北海道よりは全くの別世界でもちろん雪など積っていない。
 再び南海電車で空港に戻る。(国内線ではあるが)トランスファーを利用したちょっとした散歩であったが、それなりの収穫があった。次の便は結局さらに30分遅れて、17時頃に関空を飛び立った。
 機内から沈む夕陽を見ながら、すっかり暗くなった19時頃に那覇空港に降り立つ。やはり相当暖かい。この日の最低気温が15℃だという。この日の朝には雪の深い札幌にいたのが嘘のようだ。荷物もあったし、若干くたびれてしまったので、モノレールは利用せずに、到着口から出てすぐの所に停まっているタクシーに乗って那覇都心に向かう。空港からおよそ10分、1000円ほど(初乗り500円)でモノレール壷川駅近くに取ったウィークリーマンションに到着する。空港からの片側3車線くらいの広い道を、間もなく3桁に届こうかというスピードで走るものだから、余計にリアリティのないまま那覇の懐に入ったような感じだ。すっかり暗くて街の様子はよく分からないが、車中から既に高揚するものがある。明日はどこから撮りはじめようか。
 今回選んだウィークリーマンションは築年数といい部屋の調度など、住んでいる部屋に雰囲気がよく似ていて、妙に落ち着く。7泊8日、駐車場代、清掃費など含め32,000円ほどである。1泊にすると5,000円弱でビジネスホテルなどよりは安い。キッチンもあるので簡単な料理ができるのもいいし、何よりその街の住人になったような気になれるのがいい。少し落ち着いてから、近くのスーパーマーケットへ生活用品や食材などを買いに行く。我々が沖縄名物と呼んでいるものが、普通にスーパーマーケットで買う事ができる。もちろん安価で。特に泡盛が安く買えるのが嬉しい。結局、夜はスーパーマーケットで買ったもので済ませることが多かった。

 少し飲んだところで、すっかり疲れてしまったので、早めに休んで明日に備えることにした。この日のカット数130。

 

 

 

 

 2日目
 明るくなって、6階の部屋から街を眺める。こちらの朝日は少し遅い。東京と同じか、それ以上の密度がありそうな感じである。仲通りは狭い。数字でも那覇市は東京・大阪に次ぐ人口密度という。空港や米軍基地などもあるから、実際はもっと高密度に感じられるかもしれない。この日は夕方まで那覇の街を歩き回ることにしている。

 朝食を済ませ、9時前にマンションを出る。この日の最高気温は24℃だったというが、既になかなか暖かい。昨日まで豪雪の中にいたのが嘘のようだ。長袖シャツくらいあれば十分なのだが、地元の人々はダウンジャケットなど着ていて、なんだかおかしい。やはり熱帯の街にやってきたのだ。
 マンションから坂を降りて、国場川沿いを歩いて明治橋へ。国道58号、329号、331号が交わる要衝なのだろう。頭上にはモノレール「ゆいレール」が走っている。
10年ほど前に開業した沖縄県で唯一の軌道系交通機関である。明治橋より少し北側には「那覇バスターミナル」がある。近年開業した那覇市中心部を結ぶゆいレールを除けば、沖縄県における公共交通機関の中心は路線バスである。このバスターミナルにはそのうち多くの路線の発着が行われていて、路線バスファンの間からは「聖地」とも言えそうな場所だ。ターミナル内には「仲島の大石」という大きな石灰岩の岩があり、その袂には祠が祀られているのでそういう意味でも「聖地」である(もっともこういう祠は街の中で多く見かけたが)。
 しばらくターミナルの周辺を歩く。中央の駐車場にはバスがびっしりと並んでいたが、ラッシュ時を過ぎた頃でターミナル内は閑散としている。ターミナルから少し歩くと、那覇の中心繁華街である国際通り(ただし県外からの観光客ばかりであった)である。その前に再びマンションのあたりに戻って、丘を越えて周囲を撮りながら国際通りに出る。

 事前にあまり意識していなかったが、那覇は坂の町でもある。そんな裏通りの特徴的な沖縄の建築を撮り歩く。沖縄の家やビルは、ほとんどが白いコンクリート建築で、看板のような機能は壁面に直接描かれていることが多い。いずれも颱風への対策であろう。
国際通りに出たが、恐ろしくなるほどに俗っぽい風景が続いている。東京の竹下通りや渋谷センター街とそっくりな、安売り量販店のような、観光客向けの土産物屋などがずっと続いている。これは手強いぞと思いながら、時折路上で足を止めて写真を撮っていると、タクシーが近づいてくる。その後も何度も出くわすことになるが、タクシーの大変多い沖縄では、その利用が本土より気軽で(初乗りも安い)、立っている人間がいれば手を挙げなくても車が勝手に停まるという。延々と路上を行く私のような人間はこちらではさぞ奇異に映ることだったと思う。国際通りの風景にうんうん言わなくても、一本裏に入るだけですぐに沖縄らしい密集した風景がすぐに現れる。そのコントラストも何とも面白い。
色々歩いているうちに牧志公設市場の辺りにたどり着く。沖縄の名産品が売っていて、ここも観光客が多く集まるところだが、やはり市場の光景は面白い。その他にも国際通りより南側にはいくつものアーケード街が続いている。こういった「市場」をうちなーぐち(沖縄方言)では「マチグァー」という。本土でも共通するのだろうが、ここでもこの「マチグァー」を単位に、核として街が形成されている感じがする。北海道では希薄なものかもしれない。
 商店街は「ガーブ川」の上にある店舗を中心に、しばらく観光客向けの商店が続いているが、奥に進むと徐々に地元の業務用の市場になる。「農連中央市場」のあたりに来ると、はて勝手に歩き回っても大丈夫だろうかという気すらしてくる。再び北上して、壺屋という町にある「やちむん通り」に出る。「やちむん」とは「やきもの」の事でカーブを描く坂道に沿って、食器やシーサーなどを並べる小さな店がたくさん集まっている。当然、窯元もいくつかあるようだ。

 平和通り商店街を抜けて、「桜坂」と呼ばれている町に出る。そのうち桜坂劇場はミニシアター系の映画が多く上映されていたり、地元の出版や琉球ガラスや陶器などの地元の作家の作品を集めて販売などしている。また近くには「桜坂社交街」がある。「社交街」というのも沖縄独特の言い回しであるが、細い路地にスナックなどが多く集まっている町の事で、本土でいうこところのいわゆる「特飲街」としての機能も場所によってはあったようだ。今回の旅は沖縄各地の「社交街」を巡ることにもなった。要は、いつもやっていることと殆ど同じことである。

 13時を過ぎた所だが、昼食も決めていない。どうしようかと桜坂劇場のそばにある「希望ヶ丘公園」で休憩していると、猫が階段を登ってきて、私の傍らで寝転がる。すぐにもう一匹やってくる。ここに限らず、那覇には猫が大変多くて、どこにでも転がっている。しかも、ほとんど警戒心が無いのも何とも南国らしい。その後、殆どの日程で猫達を見かける事になった。再び国際通りを中心とする牧志や久茂地の町を撮り歩いたり、デパート「りうぼう」で買物などをしながら、最初に訪れたバスターミナルに戻る。ここの2階にあった「みつ食堂」が気になっていたので、営業時間ギリギリであったが利用することにした。主にバス運転士が利用しているのだろうが(観光客の姿も見かけた)、メニューはいかにも沖縄らしいものばかり。「ゴーヤチャンプルー定食」にはラフテー(豚角煮)がゴロゴロと入って美味しかった。価格帯は全体的に安価。結局一度しか行けなかったが、何度か通っていろいろな定食を試したいと思った。

 マンションに戻ってシャワーを浴びる。札幌の初夏のような陽気ですっかり汗ばんでしまった。半袖で歩いてもいいくらいなのだが、最初に書いた通り(観光客以外は)みな冬らしい格好で歩いているのである。部屋の近くの「壷川駅」から空港に向かう。これから友人と合流して名護市まで向かうのである。モノレールの車内は下校の高校生や空港利用者などで若干混み合っている。しかし、通勤手段はあくまでも自動車でラッシュ時でもそこまでは混まないようである。空港で友人と合流。送迎車に乗ってレンタカー会社まで向かい手続きをする。レンタカーも自動車社会らしく安価に借りることができる。バスを使って回ることも考えていたが、大変時間がかかることが判明したので、結局1週間ずっと車で回ることになった。後述することになると思うが、この自動車も沖縄を語る上で欠かせない要素である。
 レンタカー会社はバイパス沿いにあって、帰宅ラッシュの時間であったが、そこまで渋滞することもなく、近傍のスーパーマーケットで買物をしてから、名嘉地インターチェンジから那覇空港自動車道、西原ジャンクションで沖縄自動車道に接続して、終点の許田インターチェンジまで向かう。一般道を結構なスピードで飛ばすのは北海道と同じだが、高速道路に入るとそれと同じくらいの速度で、つまりゆっくりとしたペースでずっと車が続いていく。それでいて、無意味な車線変更をしたりとよく分からない行動が多く、最終的にはある程度慣れたがその理由はよくわからなかった。あと、車間距離が短くてやたらと詰めてくる。北海道の半分くらいといった感じだが、なんせ雪が無くてそこまで制動距離を稼ぐ必要が無いし、こちらの道は恒常的に渋滞して道路容量が稼げないことが後には分かったので、不安感はあるがそれは最終的には慣れた。
 許田インターチェンジから国道58号に降りて名護の町に入ろうかというところに、「名護曲ファミリーレストラン」という昔の国道沿いによく見かけたスタイルのドライブインがある。ちなみに「名護曲」は「なぐまがい」と読むそうだ。ここで夕食にしたが、一通りの沖縄料理があって(変わったところではイルカ料理なども)、地元の人の利用も多いという。テビチ(豚足)汁やゴーヤの天ぷらなどを食べる。しかし、自動車利用を中心にするとアルコールが摂取できないのが辛い。友人を名護郊外にあるリゾートホテルに送り届けてから、名護市内にある「ホテル名護キャッスル」にチェックイン。このホテルは1972年、つまり沖縄本土復帰の年に開業したものである。おそらく一度も改装などされていないであろう外観と内装・設備でなかなか恐れ入ったが、なかなか面白い体験になった。

 何キロも歩き回ったり、慣れない道を運転し続けたりで疲れたので、さっさと就寝。この日のカット数461。

 

 

 

 

 

 3日目
 この日は8時前に出発。本当なら6時くらいに起きて、白いコンクリートが続く沖縄北部の地方都市たる名護の街並や、特徴的な建築で知られる名護市役所を撮りたかったがかなわなかった。8時半くらいに名護市民球場に入る。駐車場は「わ」ナンバーの小型車ばかりである。このような光景は様々な観光地で見かけることになる。

 私は野球のことはほとんど分からないのだが、友人の沖縄旅行の主目的の一つが北海道日本ハムファイターズの沖縄キャンプ見学であった。よくスポーツニュースで見かけるポジションで選手・監督を迎えて、球場をしばらく見学。野球の事は別にしても、こうして暖かい中寝転がるだけでも、大変幸福な事である。球場のすぐ裏はビーチになっていて、足くらいなら浸けられそうな温度で、すっかりピクニック気分だ。昼食は、名護の山中にある「百年古家 大家(うふやー)」で沖縄そばとする。ここは古民家を多数移築して店としたもので、食事後は園内をしばらく散歩。琉球王国時代の衣装を着て記念撮影なんてことも出来て、名護では有名な観光地になっているようだ。
 名護から北上して、今帰仁(なきじん)村にある古宇利大橋まで。この橋は屋我地島から古宇利島まで約2キロほどをひたすら直線でエメラルドグリーンの海を突っ切るという、注目の景観スポットである。その橋で古宇利島まで渡ったが、この頃には雨の降りがだいぶ強くなってきていて、島を一周しただけですぐに次の目的地に向かう事になった。
 次に訪れたのは本部町にある沖縄美ら海水族館。ここはもう説明不要であろう。名物の巨大水槽やイルカショー(ここにいるオキちゃんは今年38歳で75年海洋博の頃から現役で働いているという)を見て、雨の中を那覇に戻る。途中、道の駅などに寄ったりして、那覇まで3時間弱(高速道路利用)。

 この日も結構くたびれたので、スーパーマーケットで買ったもので簡単に済ませて(それでもテビチ煮付けなんてのを選んでしまうのだが)、すぐに寝てしまった。この日のカット数288。

 

 

 

 

 

 4日目
 引き続き沖縄観光。前日は北部の本部半島だったが、この日は主に太平洋側へ。まずは、やはり沖縄観光の中心である首里城(那覇市)へ。ここも説明不要の琉球王国の中枢である。開場直後なのであっさりと地下駐車場に駐車することができた(出る頃にはすっかりどこも満車になっていた)。城は丘の上にあって、那覇の町が見渡せる。周囲は城下町らしく、大変道幅が狭い。琉球王国のかつての栄華を感じながら、次の目的地へ。

 那覇インターチェンジから北中城インターチェンジまで高速道路に乗って勝連半島を目指す。沖縄市を通ったが、ここは基地の町とあって米軍関係者の私用車に与えられる「Yナンバー」の車が見られるようになる。訪れたのは、うるま市与那城から平安座(へんざ)島まで伸びる海中道路だ。およそ5キロ弱、海中の浅瀬をずっと進む道路である。その両面に見えるは海と平安座島の石油タンク群である。
 海中道路の途中にあるパーキングエリアに寄ってから、浜比嘉島へと渡る。この離島も橋で渡る事が出来る。島の中にある「てぃーらぶい」というやはり古民家(移築ではない)を利用した沖縄料理店で、豚のホルモンを昆布だしで煮た「中身汁」や島で考案したという豚肉の味噌炒めなどが旨かった。以前から沖縄料理は好きで札幌でもそういう店にはよく行っているが、やっぱり身体に合うのかもしれない。それにしても、この店は島の真ん中の小型車でミラーをこすらないか心配する程の細い道(Googleストリートビューの撮影専用車は入れなかったようだ)で、思わずカーナビを疑ったほどなので、事前に道順を確認しておくといいだろう。
 島の細い路地をしばらく歩き回って、浜に出る。ここも、真っ白な砂と珊瑚、それからエメラルドグリーンの海が広がっている。これこそ自分にとっては外国のような風景なのだが、何日間かずっと見ていると慣れてきてしまうのだから恐ろしい。日焼け止めはたっぷり塗っておいたが、それでも肌はヒリヒリする(雪の中でも日焼けはするが)。2月という観念はどこかに忘れてしまったようだ。
 再び海中道路を渡って、勝連半島にある勝連城跡へ。ここは世界遺産に指定されている見事な城跡であったが、時間が無かったので下から眺めるだけにした。ちなみに「城」は普通に「しろ」と読む事もあるが「グスク」と読ませることが多い。いずれも13、4世紀頃のものである。沖縄市、北中城村、中城村、西原町、与那原町、南城市と一般道を走る。基本的に幅の広い国道なので楽ではあるのだが、交通量と沖縄独特の運転スタイルにはなかなか疲れる。観光地が近づいてきて、本土流運転スタイルの「わ」ナンバーが増えてくると安心するという有様である。
 次に訪れたのは、琉球神道の聖地である「斎場御嶽(せーふぁーうたき)」。ここも世界遺産に含まれている。ここは森の中にある岩場で祈りを捧げる「拝所」があり、本土の神道ならば祠が建つべき場所であろうが、ここには岩で作られた舞台のような場所と、やはり岩で作られた燭台のようなものがあるだけである(この岩や植物にも霊性があるとされ、絶対に持ち帰ってはいけないとの注意書きがある)。無理に例えれば、本土の無縁墓のような感じだろうか。神社が無いかわりに、こういう素朴な「拝所」は町の中でも見かけることがある。私はあまり信心深いほうではないし、近年のなんでも「パワースポット」と呼ぶのが好きではないが、この場所にはただならぬ力のようなものが感じられ、とても敬虔な浄化されたような気分になった。神聖な場所には「何も無い」というのがいい。岡本太郎が写真で伝えたかったものもこういう事だったのかもしれない。ちなみに沖縄に行く前に図書館で59年と66年当時の沖縄を捉えた写真集「岡本太郎の沖縄」を何年かぶりに眺めたが、大変参考になって、また感じるものがあった。もちろん太郎にはどうやったって近づけるわけもないのだが。太郎というと絵画や造形のイメージが強いが、写真家としても天才的で特に那覇の市場の様子を撮ったものがよかった。話が拡散してしまったが、琉球神道についてはもっと学習したいところである。
 さて、斎場御嶽を出て素晴らしい景観で知られるニライ橋カナイ橋を抜けて、那覇市に向かう。ここまでずっとレンタカーにあらかじめ搭載されていたヒットソング的なものやFM放送を聴いていたが、ここでAFN(American Forces Network -米軍放送網-)に周波数を合わせる。AFNは米軍基地から送出される米軍・軍属・関係者向けのAM放送だが、放送エリア内であればもちろん誰でも聴取することができる。放送は勿論英語で音楽番組が中心であるようだが、このときはニュース番組のようであった(ちなみに英語はほとんど分からない)。前身のFEN(Far East Network)の時代から、洋楽の発信源として日本のミュージシャンに影響を与えてきたものでもあるという。子どもの頃から聴き続けていれば、もしかしたら英語に強くなれるかもしれない。

 那覇に近づくにつれ、交通量が増えてきて那覇市に入る頃には完全に渋滞になってしまった。思えば帰宅ラッシュの時間である。ラッシュ時でなくても、こちらの道路には「抜け道」や代替ルートが存在しないようで(大通り以外は狭い路地のみというパターンが多い)いつでも渋滞はしているのだが。那覇の部屋に戻って、身支度を整えてから丘を越えて国際通り周辺へ。沖縄三越裏の店で友人の誕生日を祝う。まだそんなに遅い時間でも無かったが、土産を買いたいとか何とかで話がまとまらなかったので、一人で部屋に戻って日誌をつけながら飲み直す。写真を見ていれば分かりそうなものだが、訪問地などノートにまとめておかないとすぐに忘れて、このように文書に残す事ができないので重要な作業である。この日のカット数436。

 

 

 

 

 

 5日目
 この日から一人で行動。これまでの観光モードはある程度陰を潜めて、ある意味でいつもと変わらぬ街歩きを続けることになる。目にする景色は今まで全く見た事のないものばかりだったが。昨日も若干くたびれたのと、いいだけ泡盛を飲んでいたので、この日は少し遅く10時半頃に那覇を出発。

 また沖縄道を北上して、終点の一つ前、宜野座インターチェンジで降りて、国道329号を北上する。国道沿いにこれまでのやや寂れた街の景色とはあまりにかけ離れている、巨大なビルがそびえている。門には「沖縄工業高等専門学校」とある。後で調べると2004年に県北部の振興のために開校したものだという。言うまでもなく、基地とも関係してくる問題でもあるのだろう。

 そんな高専の駐車場を借りて訪れたのは、学校の下に広がっている名護市辺野古の街だ。「辺野古」…テレビや新聞などを通して、全国民が聞いたことのある地名である。そのほとんど全部が米軍普天間飛行場移設問題に関わるものだと思う。私もそのイメージしかなかったのだが、今回「アップルタウン」という町があることを聞きつけ、歩き回り、そのイメージはまた違う方向に向かうことになった。この先も沖縄にとって「基地問題」は避けて通れないものであるが、今回の旅で自分の中の複雑さは更に深まった。そのため、深くは立ち入らないことにしようと思ったが、街歩きにもどうしてもつきまとってくるのであった。
 「アップルタウン」というと、近年できたニュータウンか、iPhoneでも売ってそうな感じがするが、その歴史は1957年と古く、その謂れは以下の看板に詳しい。

130224_003

つまりこの町は地元民と米軍のアップル大佐によって作られた米軍相手の歓楽街であるのだが、今ではその繁栄も遠い昔に過ぎ去ったような寂れた街並が続いている。「アップルタウン」は坂道も多いが、15分くらいもあれば歩き回れるような町である。しかし、そのブロック毎には風化しかかっているような飲み屋やレストランが並んでいて、1時間以上たっぷり歩き回ることになった。最後の繁栄はベトナム戦争の頃だったというから、40年ほど前に時計が止まってしまった町である。もし、新基地が辺野古にやってくるとして、それが変わるのか変わらないのか全く分からない。とにかく「兵どもが夢の跡」とでも呼びたくなるような、風化したコンクリートの壁が並んでいるだけである。

 丘の上にある「アップルタウン」から降りて、辺野古の浜辺に向かう。近くの公民館で祭りのようなことをやっているのか、道が車で埋め尽くされている。先ほどの「アップルタウン」ではほとんど人の姿を見かけなかったが、こちらにいたのだろうか。この辺野古の海にもエメラルドグリーンが広がっている。漁港の堤防の先には祠と拝所がある。大変美しい場所だが、この先が新基地の埋め立て予定地となっている。米軍であれ、民間空港であれこの海を埋め立てていいはずは無いと思うが、話はそう単純なものでもない。反対派の掲げる、多くの建設反対の横断幕が建設予定地のフェンスに巻き付けられ、風に吹かれていた。

 車を南下させて、次は金武(きん)町に向かう。ここも米軍基地(キャンプ・ハンセン)の門前町で、是非見ておくべき街並であると聞いていた。まずは町役場に車を停めて、近くの「うしなー社交街」などを撮る。ちなみに「うしなー」とは闘牛場のことらしい。
 次にキャンプ・ハンセン正面ゲート近くにある公共駐車場に停めて、「金武新開地」を歩く。ここは先ほどの辺野古とは違って、現役の歓楽街で更にアメリカナイズされたような感じである(ただし建物自体はやはり40年以上前のものである)。タコスやピザなどの商品はドルでも表示されていて、外国を歩いているようだ。いつか訪れた福生の街並のようである。
 この金武新開地の店で発祥とされているものに「タコライス」がある。タコスの具であるひき肉やレタスなどが米飯に乗ったものである。アメリカと沖縄が混じり合う「チャンプルー文化」の象徴のひとつかもしれない。発祥とされる「キングタコス」でタコスとタコライスをテイクアウトで買い求めたが、抱いていたイメージと違って大変な量である。車の中でタコスだけ食べて、タコライスは帰ってから夕食にしたが、濃厚な味付けもあって翌日まで胸焼けが残った。
 夕暮れが近づく海沿いを走りながら、那覇へと戻る。こちらの日照は北海道より30分くらいずれているので、日が長くなったような感じがする。金武湾に沈む夕陽があまりに美しかったので、パーキングエリアに車を停めて海岸に出る。海岸には米軍の家族が石などを拾って遊んでいた。

 沖縄と米国のモザイク模様を街角からも感じた一日だった。この日のカット数410。

 

 

 

 

 6日目
 ここまで連日の運転で疲れてしまったので、この日は再び那覇の街を歩く事にした。那覇も見ていないところがまだ沢山あるのだ。
 部屋から国場川沿いに出て、初日に訪れた明治橋を越えて、那覇港旅客ターミナルへと向かう。土産物屋や大きな待合室などがあるが、現在では奄美諸島と鹿児島へ向かう便があるだけで、閑散としている。そこから北上して、「西」や「辻」と呼ばれる街を歩く。特に後者は性風俗店が密集しているエリアで、まだ午前の早い時間ではあったが、客引きの姿が少し見える。時間によっては撮り歩くのも大変かもしれない。更に北へ行くと、護国寺と波上宮という本土のような寺社仏閣を見かける。とはいえ、本殿の屋根は沖縄風の屋根瓦ではあるのだが。

 波上宮は伊弉諾尊などが祀られていて、その由縁を調べると琉球古来の信仰と本土の日本神道が融合されたもののようだ。こちらの正月のスタイルなどはよく分からないが、初詣の日は大変混雑するらしい。神社の裏には終戦直前に撃沈された民間船「対馬丸」に関する記念碑や各種の慰霊碑、それからビーチがある。目の前の景色はバイパスの橋脚に塞がれているが、那覇市民の遊び場になっているようだ。看板を見ると、遊泳できるのは4月から10月まで。7、8月の限られた日数しか泳ぐ事のできない国から来た人間にはとても信じられないものだ。

 若狭の町を抜け、「泊埠頭旅客ターミナル」へとたどり着く。ここからは座間味島・渡嘉敷島・久米島など離島へと達するフェリーがいくつか出ている。この日も気温は20℃くらいまで上がっていて、なかなか暑い。前島・牧志と歩き周る。モノレール牧志駅のあたりには中華料理店が集まっていて、ちょっとした中華街のようでもある。もっとも沖縄文化自体、その歴史的背景から中国の文化を受けている部分も大きいのだが。

 近くを歩いていると、見事な石門を見かける。崇元寺(そうげんじ)という14世紀に建てられた寺院だが、大戦の戦火に遭い、石門が残っているだけである。境内だった場所にはこちらも見事なガジュマルの樹が根を下ろしている。しかし、コンクリート建築とともに、このガジュマルも見慣れたものになってしまった。

 モノレールの安里駅まで達する。日中でも浦添市方面まで続く安里バイパスは平日の午前ではあるが大変渋滞している。そうでなくても、那覇市内の大体のバイパスはどこも同じような感じである。バイパスの上を走るモノレールはいつも空いているが、それでも自動車からモノレールにシフトするという動きは進まないようである。現況では那覇の中心部のみを、それも市民の動線から微妙に外れたところを走っているので、周辺市町村まで広域化している通勤圏においては、まだまだ使いやすいものとは言えない。同じようなことは北海道、札幌でも言えるのだが、今後、路線が拡充するか、パークアンドライド、路線バスとの接続の改善があれば、この交通問題も解決に向かうかもしれない。既に数年来、このような取り組みは行われてはいるのだが。
 さて、そんな現代的な景観を呈するバイパスとモノレールとは対照的に、駅のすぐそばには、これまでの沖縄の時間の流れをずっと守っているような「社交街」と「マチグァー」の風景がある。最初に歩いたのは「栄町社交街」、このような今となっては不安感を煽るロゴマークがそれぞれの店に貼られている。おそらく放射線管理区域とかではないだろう。

130225_012

こちらの注意書きには「折半営業の禁止」とあるが、つまり何らかの怪しげな商売が行われていたということであろう。社交街にはそのための「旅館」がいくつかある。

130225_013

社交街に隣り合うように「栄町市場」がある。こちらも実に沖縄らしい雰囲気のある市場であるが、牧志の市場などと比べると完全に地元の人々のためのものという感じがある。もっともモノレールができてからは、自分のように足をのばす観光客もいるのだろうが。那覇市の中心部には大型のスーパーマーケット、ともすればコンビニエンスストアも少ない。その他に、こうした独特の流通でしか買えないであろう食材などが、沖縄の人々に根付いていて、いまだに「マチグァー」が各地に息づいている所以なんだろうと思う。

 その後は、牧志、桜坂や壺屋、国際通りなど初日に訪れた所を再び歩きながら、土産物などを買う。初日と同じく、ここまでずっと飲まず喰わずで歩き回っているわけだが、まだまだいくらでも歩けそうな感じがする。誰かといる間は3食しっかりとって、普段しない間食までするのに、随分な落差であるが、おそらくほとんど口を開かないためであろう。一日中ずっと会話をしていれば、かなりのエネルギーを使うものだ。最後に、実に特徴的な建築である那覇市役所新庁舎を訪れ、路線バスのマップをもらう。相当な路線を持つ沖縄県では重要なものだろうと思う。

 那覇の街中を一通り歩き回って、部屋に戻ったがまだまだ明るい。経度の関係で北海道よりも夕暮れが30分ほど遅い。他にも済ませたい用事があったので、車を出して空港方面へ。5時くらい糸満市方面へ帰宅の時間で渋滞が伸びつつある。場合にもよるだろうが、やはり自動車で空港に行くのは時間が読めなくて危ないかもしれない。
到着したのは豊見城市にある瀬長島。

 那覇空港の滑走路の延長線上にあって、次々と離陸する航空機を本当に間近に見る事が出来る。また、本島最西端でもあり、夕陽の名所としても知られているらしい。この時も多くの人々が島に集まりつつあった。地元の家族連れの姿も多くある。多くは三世代の5、6人くらいでビーチに点々と軽い食事などをしている。沈み行く夕陽や、それに照らされる黄金色の海も相まって、とても美しく、とても幸福な光景に見える。時期的にはちょっと早いらしいが、ちょっとした「ビーチパーリー」というものだろうか。その語源は言うまでもなく「Beach Party」で、アメリカより流入した文化であろう。彼らも沖縄の人も家族で行動する事を大切にしているのであろうということを感じた。

 思う存分夕陽を堪能してから、すっかり渋滞してしまったバイパス道路を通って那覇市中心部に向かう。昼食というかすっかり夕食の時間だが、ふと思い出して「A&W」に車を入れる。この「A&W」は国内では沖縄地区でのみ展開しているファストフード店で、その歴史はマクドナルドよりも古い。メニューはベーシックなハンバーガーなどであるが、普通のポテトフライとは明らかに別物の「カーリーフライ」や、やはり非常に個性的なテイストの清涼飲料水「ルートビア」が面白い。そんな「A&W」と適当なつまみで飲んでこの日は終わり。この日のカット数485。

 

 

 

 

 

 

 7日目
 この日は再び車を出して郵便局に寄ってから北へ向かう。何はともあれ、1週間借りておいてよかった。
 相変わらず混雑気味のバイパスを進んで、最初に訪れたのは浦添市嘉数にある「嘉数高台公園」である。ここの展望台からは米軍普天間飛行場が一望できる。よくテレビに映し出されるアングルで、すっかり見慣れたものになってしまったものだが、本当に間近に基地と市街地を望む事が出来る。基地には「オスプレイ」が数機並んでいる。このオスプレイも言うまでもなく昨今問題になっているものである。普天間飛行場移設もこの数年の政治混乱で進展が見られない。沖縄の人々が安心できるのはずっと先になってしまいそうだが、単純に「基地が無くなればいい」とか「基地が無くなると経済が成り立たない」という判断できない瞬間が、この日は何度もあった。

 この嘉数の高台は同時に沖縄戦最大の激戦地でもあった。公園内には銃撃を受けた壁や、壕(いわゆるガマ)、トーチカなどが残されている。ちょうど、自衛官の人々が慰霊と陣地の研修のために訪れていた。結局、戦跡を見るのはここだけになってしまったが、沖縄を見る上ではどうしても避けられない風景であるようにも思う。

 再び車を走らせて国道58号に出る。町を抜けて、嘉手納基地の脇はフェンスが何キロもずっと続くだけなので、快適に車を走らせることができる。基地の存在さえ意識しなければ、ロードサイドには本土にある量販店が並んでいるので、一瞬どの県を走っているのか分からなくなる。
 嘉手納町の中心地に達する。ここは「嘉手納ロータリー」という日本最大のロータリーがあったというが、現在では再開発されて、通常の交差点となり、小綺麗な建物が並んでいる。ロータリーの現在の様子は車から眺めるだけにして、次の町へ向かう。

 嘉手納基地をぐるっと囲むように走って着いたのは、沖縄県第二の都市「沖縄市」である。「沖縄市」とはいうが、沖縄県の中に県庁所在地でもないのに「沖縄市」とはしっくりこないものである。地元の人にとっては、沖縄市発足から40年以上たっても違和感は強いらしく、旧市名である「コザ」の方が通りが良い。よって、以降は「コザ」の地名を使用する。
 車を停めたのは、コザ旧市街地の中心にある「コリンザ」の駐車場である。ここは市街地活性化のために作られたショッピングモールだというが、見事に大失敗したようで、公で運営しているような特産品を扱う店の他には、キーテナントとして仕方なくハローワークが入っているという有様である。その他は店の跡地、エスカレーターは一部故障したまま打ち捨てられていた。

 「コリンザ」から「パークアベニュー通り」に出る。ここは、コザの特徴である米軍基地城下町のメインの商店街だったようだが、多くの店はシャッターを下ろしていて閑散としていた。それでも、米兵向けに英語でメニューの書かれたレストランや入れ墨の店、これはむしろ日本人向けであろうかワッペンを扱う店がある。
 その脇にはいくつかのアーケード商店街がある。なかなか小綺麗ではあるが、こちらもほとんど店が開いていない。その中に空きテナントを利用したであろう「ヒストリート」という市の資料展示室があり、いずれも米軍との関わりと記帳とするコザの歴史や文化の解説、史料や日用品などが並べられていた。また展示されている写真の多くは、報道写真家の石川文洋氏のものであった。米軍向けの歓楽街の発展やその象徴である許可証の「Aサイン」、反米闘争のひとつである「コザ暴動」「毒ガス問題」など、じっくり見るには少し時間が足りなかったので、図説と昔のコザの街並で作ったポストカードを購入した。
 再び静かな商店街を抜けて、「ゲート通り」に出る。ここはコザの現在のメインストリートという感じでいくらかの活気がある。アメリカ風の店構えはもはや沖縄ではベーシックなものであるが、電線が地中化されていて、パーキングメーターが並んでいる様子はいかにもアメリカという感じがする。まぁ、アメリカに行った事は無いのだが。
 ゲート通りを渡って、「上地」という町に入ると、こちらは日本人向けらしい「社交街」が続いている。端から端まで5,600メートルくらいあって、これまで見た中で一番の規模かもしれない。「中の町社交街」というそうだ。そんな社交街の街角に経っていた中年男性に「さっきから色々撮っているようだけど…」と声を掛けられる。面倒な事案か、と思われたがそうではなく、「古い建物がどんどん無くなっているから、今のうちに撮ってまとめておくといい」という言葉をもらった。珍しい事案である。北海道からの旅行者であるという旨を伝えて、しばらく立ち話。しばらく本土に出ていたが、コザの生まれであるということで昔の様子などを聞く事が出来た。こちらも初めて訪れた沖縄の文化や街並・建物に関する印象などを述べて、旅の総括をするような格好になった。この街にもまた来たいと思った。 また中の町社交街や、「ゴヤ市場」などを経てコリンザへ戻る。次に向かったのは、そこから数キロのところにある「プラザハウス」である。一見なんの変哲もないショッピングモールだが、ここは1954年に開業した日本(当時は米国統治下であったが)で最初のものだという。確かにアメリカのホームドラマに出てきそうな独特の雰囲気がある。またしても「A&W」でやっぱり遅い昼食にして、プラザのベンチでしばらく休憩。テラスのようなところだが大変暖かい。他に人がほとんどいないということもあって、大変落ち着く。子どもの頃から、こういったショッピングモールに慣れ親しんできたということもあるかもしれないが。こういう「郊外文化」は北海道とも共通している部分だと思う。
 西日に当たりながら那覇へと戻る。ちょうど帰宅ラッシュの時間で結局那覇市中心部まで2時間ほどかかった。旭橋駅近くのレンタカー会社に返したのが、ぴったり返却時間だった。沢山の自動車やバイクが走り抜ける国道58号を歩きながら、再び那覇バスターミナルへと向かう。最後は本当に名残惜しいものだ。そんなに沢山の街を訪れたわけではないが、那覇や沖縄ほど名残惜しいと思ったことはない。予定していて行けなかった場所もたくさんあったためでもあるが。
 日が暮れるころのバスターミナル、国道、それから最初に訪れた明治橋をカメラにおさめて部屋へ戻った。空にはどんより雲が広がってきた。この日のカット数436。

 

 

 

 

 

8日目
出発の朝。那覇を経つ日は雨であった。なかなか蒸し暑い。天気が良かったら、最後にもう一回りしたかったところであるが。簡単に部屋を掃除してからチェックアウト。荷物と傘までさして、あまり満足には撮れなかったが、それでもマンションから壷川駅、それから空港などで少しだけ撮影。正午過ぎに搭乗して、沖縄を後にした。

 正月に誘われて、それから色々下調べ、大した事前知識もないままに、沖縄に飛び込んだが、自分の写真の幅も広がったような気もして大変いい旅になった。決まった予定は無いが、また訪れたいと今は思っている。
 帰りも関西国際空港で乗換。今度はターミナル内を撮り歩く。もし日程に余裕が取れれば、一日くらい関西を見るというのもいいかもしれない。なにせ、道内の地方都市に行くよりも安く行けるようになってしまったのだから。
 夕刻、関空を離陸して新千歳に向かう。降り立った時の寒さを覚悟していたが、思ったほどでもない。空港連絡バスに乗って外の寒暖計を見ると、わずかにプラスを指している。これを暖かいと感じてしまうので、やはり1週間くらいでは身体が向こうに馴染むということはないのだろう。飛行機を降りてから、空港連絡バス、それから家までの路線バス、いずれも接続が良かったのであっという間に自宅へと着く。朝は蒸し暑い熱帯の街を歩いていたのに、夜は雪の上を歩いている。何とも不思議な感覚だが、これが日本列島の多様性なのだろう。何と面白いことか。この日のカット数103。
 計2,749枚の写真のセレクト、レタッチ、プリントはもうしばらくかかりそうである。