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2026-02-22 Transmission (2026年2月沖縄旅行記)

24日(水) 札幌市 千歳市 小美玉市(茨城空港) 那覇市

202624日から10日にかけて沖縄を訪れた。沖縄を訪れたのは20132月以来の13年ぶりで、結果的にこの時の旅に訪れた場所の多くを再訪することになった。その時のことは以下に記してあるのでこちらも併せてご覧いただければと思う。 http://foto-metro.com/2020/03/21/okinawa-text-2013/

5時半頃に自宅を自家用車で出る。新千歳空港までは40分ほど。フライトは920分なので、もっと遅くてもいいのではと思うが、連日の大雪の影響で鉄道はダイヤが不安定、空港連絡バスは運休、さらにはその以前から空港駐車場の大幅値上げと、新千歳空港へのアクセスが以前より困難になり、これまで使っていた民間駐車場もすぐに満車になるという有り様であった。そのため、いつも使っているパーキングにオープンの6時過ぎに入って駐車枠を確保できた。おそらくあと十数台入れば満車という感じだったので、今回の行程の最初にしてもっとも気が張る箇所をクリアすることができた。かつてより旅行者は増えているのに、輸送に携わる人は不足して、天候への対応も難しくなっているとあって、改善は難しいのかもしれないが、実質的に北海道唯一の玄関口であるのは変わらないのだから何とか改善されればと思っている。

さて、チェックインなどを済ませてもフライトまでは2時間くらいある。とりあえず朝から開いているレストランで朝食にしてからしばらく空港内をぶらつく。920分ほとんど定刻で新千歳空港を飛び立ち、まずは茨城空港へ。今回はスカイマークの新千歳・茨城・那覇という経由便を利用した。他にLCCの直行便もあるが、あの狭い座席で4時間以上座っているのも大変だし、それを解消しようと広い座席にしたり、荷物を預けたりしているともはや安いとは言えなくなってくるので、今のところはスカイマークが唯一の手段かという気がしている。また茨城空港を使う機会もほとんどないと思うのでそういう興味もあったが、小さなターミナルには「セイコーマート」があるので道内のどこかの空港に錯覚する。実際茨城県内にもいくつかセイコーマートがあって馴染み深い存在のようだが、まだまだ北海道から離れたという感じがしない。

すっかり前置きが長くなってしまったが、茨城空港から約3時間でようやく那覇空港に到着した。15時前ですっかり昼食の時間を過ぎてしまったが、まずは空港内で沖縄そばにした。大盛りは思っていたよりも多くて今日はもう何もいらないかと思った。空港を出てモノレールの駅に向かう。風が強くて暖かいというほどではないが、もちろん雪は無いし、ヤシの並木や沖縄独特の石灰岩が多く含まれた白い道を見ると、ついにやってきたなという実感がある。

モノレールは主に観光客と、途中からは下校の高校生でそこそこ混んでいる。13年前と大きく違うのはやはり海外からの観光客が増えたということだ。現在は政治的な理由で中国からの観光客は減っているというが、以前は大きな割合を占めていたのだろう。このあとも国際通りをはじめとして観光地的なところに立ち寄ることがあったが、国内より海外からの観光客が多いという印象があった。

空港から4駅、壺川駅で降りて少し歩くと今回滞在するウィークリーマンションがある。ここは以前も利用したところで思い出すように駅からマンションに向かったがビルが建ち並ぶ周囲はあまり変わっていない感じがする。当時とは別の棟だったが、当時と同じような、いやそのまま古くなった部屋に通されまずは荷解き。水回りを中心に経年劣化は相当進んでいるなという印象はあったが、今どき那覇都心で15,000円程度で泊まれるところも少ないし、棟内に駐車場を借りることもできて非常に便利ではあった。

部屋を出て少し歩くと、那覇バスターミナルが見えてくる。ターミナルを中心に再開発で一変している。当時と変わらないのはターミナル内にあった「仲島の大石」と祠だけかもしれない。夕方の国道58号線にはたくさんの自動車そしてバイクが走っている。那覇はとにかくバイクの多い街で排気ガスの少し甘い匂いがするとこの土地に来たということを感じる。

国際通りは、中国語、韓国語、関西弁、その他様々な言葉が行き交っていて、その名の通りだと思った。国際通りから市場本通り、平和通りなどのアーケード街には観光客向けの土産物店や飲食店が続いていて、昔よりさらに観光地化が進んでいた。牧志公設市場や農連市場は建て替わっていたが、市場の雑多な雰囲気は変わらず、そして道にテーブルを出す屋台のような飲食店がとにかく増えて、まだ夕方であったが酔客で賑わっていた。

それに対して、ほとんど人の歩いていない壺屋やちむん通りを抜けて今度は栄町市場へ。ここは那覇都心部から少し離れた住民向けの市場と歓楽街という感じだったが、こちらも飲み屋が随分と増えたなという印象がある。どこかで飲んで行きたいなとも思ったが、とにかく撮りたいもので溢れているので、足を止めることができない。昔より「東京化」が進んだという印象もあったが、そういう変化も含めて那覇は撮り歩いていて一番楽しい街だと言える。

大小さまざまのアーケードの下に続く飲み屋街を文字通り縦横無尽に歩いていると、不意に「サウナの珠湯」が目の前に現れた。いくつか行きたいと思っていたサウナの一つで、ここで入らないというわけにはいかない。結局他のサウナに行くことはできなかったが、遠く離れた土地で入るサウナはやはり格別のものがある。風呂上がりに引き続き街を歩き、住宅街の私道のような細い道を抜けて、マンションのある泉崎まで。色々と買い込もうと思っていたスーパーマーケットは閉店が近く惣菜類はほとんど残っていなかったが、それなりの客で混み合っている。そのほとんどは外国人旅行者、それも家族連れで子どもが走り回っていて、東南アジアのマーケットもこんな感じなのかなと思った。その後コンビニでも買い物をして部屋で晩酌。部屋の外には暴走族のバイクが行き交っている。この日のカット数は376

 

25日(木) 那覇市

この日は那覇市中心部を歩き回った。まずは部屋で昨日買ったランチョンミートとパックの卵で「ポーク玉子」を作ってトーストも焼いた。結局毎日朝食を、時には夕食も作っていたから、もっとキッチンがしっかりした部屋にすればよかった。この日の最高気温22℃で札幌の56月くらいというところである。上は半袖Tシャツだけで歩けるくらいだったが、そんなのは観光客だけでやはり地元の人はそれなりの厚着をしていた。

部屋を出てまずは国道58号の明治橋から那覇港ターミナルのあたりまで。港のターミナルやまわりの風景はほとんど変わっていないように思われる。近くの性風俗店が密集する「辻」には客引きが次々とアプローチしてきて、様々な歓楽街を撮り歩いている私でもさすがにやりにくかった。しかしそんな辻にも近年は外国人旅行者向けのホテルやドミトリーが増えてきて、家族連れで歩き回っているようになってきて、客引きの彼らもまたやりにくそうであった。

辻に隣接する波上宮は石灰岩の上に建つ大きな神社で、その崖下にある波之上ビーチには泳いでいる人もいた。その後も松山の歓楽街や前島や若狭といった町を歩いて泊ふ頭まで。ここからは久米島や渡嘉敷島といった島にフェリーが出ている。それにしても、以前に歩いた時のものをそのままトレースするつもりはなかったのだが、惹かれる路地や建物などが何も変わっていなくて、結局ほとんど同じルートで歩いた。とりわけ無数に建ち並ぶ白いコンクリートの建築にはどうしても惹かれるものがあって、きりが無いなと思いつつ、それでいて止めることもできず沢山撮ってしまった。沖縄では戦災でほとんどの建物が焼けてしまったところに元々木材も少なく、駐留軍や琉球政府は比較的材料の確保しやすい鉄筋コンクリート造の建築を推奨した。コンクリート造は台風にも強く、長期間に渡って住み続けることができるので沖縄では広く普及し、かくして沖縄には白い街並みがずっと続いている。またその多くは広いピロティやバルコニーを持っていて、大きな鉢植えが植物園のようでもありそれも南国らしいなと思った。

泊ふ頭にある客船ターミナル「とまりん」にはちょうど学校が終わった時間だったようで中高生のたまり場になっていた。しばらく港の風景を撮り歩いて、この日も遅い昼食時間になってしまったが、隣りにある船員会館にある食堂でゴーヤチャンプルーと枝豆、ビールとハイボールにした。
再び都心部に向かって歩き始めたが、日が暮れる前に行っておきたいところがあった。牧志の丘の上にある「希望ヶ丘公園」は通称猫公園とも言われていて沢山の野良猫がいる。昔ほどはいないなと思ったが、ちょうど餌がもらえる時間だったらしく次々と猫が出てきた。ここに限らず沖縄には沢山の猫がいて、中には積極的にすり寄ってくるのもいたが、思えば最近では地域猫活動が広く行われるようになって町で野良猫を見ることがほとんどなくなった。地域猫は大抵去勢などされていて減る一方なので今後は街で見る猫そのものが珍しいものになっていくのだろう。

希望ヶ丘公園の向かいにある桜坂劇場に立ち寄る。ここはドキュメンタリーや芸術性、政治性も強い作品が集まるミニシアターであったり、たくさんの本やDVDが並ぶカフェなどが集まる沖縄らしい文化の発信地である。ここで展示されていた琉球ガラスのコップなどを買い求めた。観光地の中にありながら地元の人の利用も多い静かな場所で、その街らしい様々な文化や作品に触れることができる拠点があることは、その街にとって大切なことで、住民やそこを訪れる人にとっても心強いものになる。

この日も市場本通りや平和通りなどを歩き回る。土産物店の他に古着屋や雑貨屋なども多く、いかにも観光客向けの店と個人的な趣味の店が混在しているのがとても面白い。店頭に沖縄関係の本を並べている古本屋で、帰りの機内で読もうかと大江健三郎の「沖縄ノート」を買った。その他、酒屋で土産として泡盛や沖縄ウィスキーなどを買って国際通りに出る。この夜ももちろん様々な国の人が歩いていて賑わっている。どこか沖縄から切り離されて浮かんでいるような感じもして、「租界」の雰囲気はこんな感じだったのだろうかとも考えた。
散々歩いてすっかり疲れてしまったので、大した距離ではないのだが最後は牧志駅からモノレールでマンションまで戻った。この日もスーパーマーケットで買ったもので晩酌。カット数は449

 

26日(金) 那覇市 名護市 金武町 那覇までの道のり

この日の予報は曇りのち雨であった。朝食はポーク玉子とスーパーで買った「じゅうしい」の握り飯。ケーブルテレビのチャンネルでは那覇市内の様子と普天間交差点の様子を繰り返し映していた。
9時にレンタカーをマンションまで届けてもらう。沖縄は那覇市内を除けば自動車がないと観光がほとんど成り立たない。そのために数多くのレンタカー業者があって、一般的な小型車やファミリーカーが多いが、中には格安で軽自動車を貸し出したり、輸入車やオープンカーなどを揃えているところもある。せっかくならいつでも乗れる大衆車でなく、手頃で面白そうなものはないかと探していたが、イタリア製小型車「フィアット500」を貸してくれるところを見つけた。価格もあまり高くはない。これもいつか乗ってみたいと思っていた車で期待通りに楽しい車だった。レンタカー店長より車の説明を受ける。トランスミッションはセミオートマ式で、クラッチは無いがシフト操作は自分で行う必要がある。ウィンカーやワイパーの操作は国産車と反対になる。発信してすぐさっそくワイパーを動かしてしまったが、輸入車とマニュアル車はそれぞれ短期間ながら乗っていたことがあるので、徐々にその頃の感覚を思い出してきた。

そしてオーディオは昔懐かしいFMトランスミッターを介するものだった。今どきそんなに使っている人はいないだろうと思っていたが、そんなことはなくてしばしば他の車からの音声が入り込んできた。またはこちらのラジオなども向こうに伝わっているのかもしれないが、とにかく交信しているような感じもして、周波数を変えるなど方法はあったのだろうが、それはそれで面白いのでそのままにしておいた。Transmitter / Transmission =伝達・伝導という意味をなんとなく考える。

那覇インターチェンジから沖縄自動車道に入って沖縄北インターチェンジまで北上する。この先は工事渋滞でほとんど動いていなかったので国道329号に降りてさらに北上。うるま市、金武町などを経て名護市辺野古まで。辺野古の山中を走っていると異様な光景を目撃する。ここには辺野古新基地の建設のためのゲートがある。通常、工事ゲートというのと警備員が1,2名立っているくらいのものだと思うが、ここには機動隊員のように武装した警備員が文字通り隙間なく肩を並べて十数人びっしりとゲートを守っていて、他には誰もいなかったが暴動の直前のような緊張感があり、その工事にかける日本政府の意地を感じた。

那覇から約2時間、名護市中心部に到達し、市役所に車を停めた。目的はこの市役所そのものである。この市庁舎は1981年に建てられたコンクリートブロックを多用して沖縄らしさを表現したモダニズム建築である。沖縄伝統の赤瓦の屋根もコンクリートで表現され、また前庭に生い茂るブーゲンビリアや内と外が連続する全体が庭園のような構造で、しばらく夢中で撮り続けていた。建設までのプロセスを含めて、庁舎建築の傑作だと思っていたが、前回は寄ることができなかったので非常に印象的なものとなった。

一通り撮り終わったところで小雨が降ってきた。この後も強くはないものの断続的に雨が続くようだ。これからどうしようかと思いながら、昼食のために「レストラン名護曲(なぐまがい)」へ。おそらくほとんどの沖縄料理や各種定食が食べられる人気のドライブインで、前に行った時は何を食べたか覚えていないが、今回は豚のホルモンを昆布だしの汁で煮込んだ「中身汁定食」にした。

雨はしばらく降らないようなので、予定通りに名護市中心部から車で15分ほど、先程も通ってきた辺野古へ。これも先に書いたように米海兵隊キャンプ・シュワブ沖合で進む新基地の建設と反対運動が続いている現場だが、かつて米兵を数多く受け入れたという歓楽街「アップルタウン」の様子をまた見てみたいと考えていた。漁港の近くに車を置いて長い石段を登ると、丘の上にその町は昔とほとんど変わらずそこにあった。正確にはそのまま十数年分風化していると言ったほうがいいのかもしれないが、あいかわらず人の気配があまりない町で、細かく回っているのは私と郵便配達のバイクのみであった。ただ公園には下校してきた子どもたちが集まりつつあった。

かつてクラブやバーなどがあった建物はコンクリート建築ゆえにほとんどそのままだが、壁に直接書かれた横文字の看板は幾分か薄れていた。現役の店もそれなりにはあるようで、また衆議院選挙期間中であったので、自民党系候補者の事務所も「営業中」であった。
しばらく町を歩いてから次は漁港の方へ。ここは新基地反対運動の最前線といったところでテント小屋もあったが、この日は無人はいたって静かな漁港であった。2013年に訪れた時はまだ工事が始まったばかりであったが、今ではだいぶ埋め立てが進んでいる。しかし軟弱地盤に対する技術的な問題はクリアされていないようで、ただいたずらに青い海に土砂を投入しているだけのように見える。かつて私はこの新基地問題や在日米軍基地に関する様々の問題について、どっちともつかない態度をとっていたが、今ではこの新基地問題に限って言えば今からでも中止すべきと考えている。帰ってきてから見た報道ではこの中途半端な長さの滑走路ができても普天間基地から移設することにはならないという米軍側のコメントもあり、その思いをますます強くした。

夕方4時には金武町にある金武新開地へ。またしても小雨模様だが、それはそれでいい写真が撮れそうでもある。ここは米海兵隊キャンプ・ハンセンに接する歓楽街で、先程の辺野古と比べると現役でそしてアメリカらしさがより強く出ている町だと思う。日本人観光客の姿もある。車を停めたのはキャンプハンセンに接する公共駐車場で、数十センチメートル先のフェンスの向こうは基地内で米兵たちが何かを楽しげに運んでいる。自分の英語力では何を話しているかほとんど分からなかったが、”Shut up! hahaha”みたいなことを言っていたので、北海道の若者言葉に訳すると「黙れやwwww」とでもなるのだろう。

この町も昔ながらのコンクリート建築にバーやタトゥーを施す店などが沢山集まっている。昔ながらの屋根瓦を乗せた建物も多い。理髪店の看板には “Hair Cut $12 or ¥1200”と書かれている。この町ではドルでも円でも通用する例の一つだと思うが、おそらくは1ドル=100円くらいだった頃のものなのだろう。円ドルの変動は大きいが、現在は150円前後であるので12ドルなら1,800円ほど。これなら円でカットしてもらった方が得なわけで円安になったことが実感できる。

非番の米兵なのか恐らく観光客ではない外国人も歩いている。乗っているのは「Yナンバー」の乗用車。これは米兵の私用車に与えられるナンバープレートで、一般のナンバープレートにひらがなが記されているところが「Y」になっている(軽自動車の場合はA)。その車種を見ていると、おそらく日本に配属されている間だけ乗れればいい足として、手頃な小型国産車が多いが、中には走り屋仕様にしている90年代国産セダンやスポーツカーなどもある。これは近年アメリカ本国で流行している”JDMJapan Domestic Market ; 日本車をできる限り日本仕様にカスタムする文化のこと)”の典型例で、私たちと変わらないこだわりがあったりなかったりする「普通の若者」なんだと思った。

金武の町にもやはり猫がいてずっと何かを話しかけてくるのもいたが、残念ながら英語以上に猫語も分からないので、餌が欲しいのかくらいしか理解できなかった。カメラに動じない猫も多くて、そういえばインスタグラムのアイコンにしている猫もこの町で以前に撮ったものだということを思い出した。一通り町を歩いて、夕食をテイクアウトするために「キングタコス」へ。ここは人気のタコスの店でタコライスの元祖でもある。タコライスもまたいくつかの文化が融合した沖縄らしい文化の例の一つだろう。以前店があったところから新築移転して混み合うようになったそうだが、この時はタイミングが良かったのかあまり並ばずに買うことができた。レギュラーでもあいかわらずの大容量で結局3食に分けないと食べきれなかった。

日も暮れつつある頃、那覇へ帰ることにしたが、帰宅ラッシュに重なってほとんど動かない酷い渋滞である。並行する高速道路も例の工事の影響でそれ以上の渋滞になっているようだ。結局30分かそれ以上ノロノロとほとんど動かず、それだけでも疲れたが、ほとんどマニュアルミッションのような車で低速でギアを上げ下げするのは煩わしく、急坂では後退してしまうので20年ぶりくらいに坂道発進までする羽目になった。

何とか渋滞を抜けて引き続き那覇まで南下したが、高速道路は他の箇所でも渋滞しているようでそのまま一般道を利用することに。すっかり暗くなっていたが国道329号などを経てうるま市石川・沖縄市コザなど、国道58号で普天間・宜野湾などを経て南下する。58号は那覇に近づくにつれ、片側2車線から3車線、最後は4車線と増えていくのだが、その沿線には恐らく日本に展開する全てのロードサイド店舗があるといっても過言ではなく、ファストフードなどあらゆる飲食店、カーディーラー、紳士服店、家電量販店などチェーン店が続いている。これだけだと日本のどこを走っているのか分からなくなるが、これにアメリカ由来のものや沖縄独自のものもあり、これこそまさにアメリカや戦後日本のモータリゼーションが生んだ光景であり、もし「日本のロードサイド文化とはどういうものか」と問われたら、この道を見せるのが一番理解しやすいのかもしれない。那覇までの道のりも今回特に印象深いものとなった。

結局那覇までは3時間ほどかかり、この日も(これまでとは別の)スーパーマーケットに立ち寄って食料品や土産物を買い求めた。印象に残るものも多かったがその分非常に疲れた。カット数は438

 

27日(土) 那覇市 宜野湾市 沖縄市 嘉手納町 恩納村

朝食は昨日の残りのタコライスとサンドイッチ。この日は朝から小雨で厚手の長袖シャツでは少し肌寒いくらいだった。
那覇都心から車で15分ほど、まずは10時頃に宜野湾市の嘉数高台公園に着く。住宅地の中にある公園で地域の人々の利用が多いといった感じだが、この公園はかつて沖縄戦の激戦地であった。戦闘にも使われたガマ(洞窟)やトーチカなどが残されているが、ここでとりわけ印象深いのはやはり展望台から一望できる普天間飛行場の様子である。ここも再訪で、当時はオスプレイ配備問題が話題になっていたが、オスプレイも今ではすっかり既成事実化された。周囲には宜野湾市の市街地、遠くには北谷町のリゾートホテルや東シナ海が見える。普天間飛行場は宜野湾市街地の中心に大きな穴のように存在しており、その跡地利用の計画図なども示されていたが、その移転候補地は前日に訪れた名護市辺野古の沖合であり、その実現はあと何十年かかるかわからない。そして新基地=移設でないことは先に書いた通りで、であれば新しい基地など作らずにこの飛行場も撤去すべきとも思うが、これもまた「現実を見ていない」とみなされるのだろう。

その普天間飛行場の脇を通って次は沖縄市コザへ。「沖縄市」は1974年にコザ市と美里村が合併してできた街だが、50年以上経ってもコザまたは美里といった方が通りはいいようである。今回も歩いたコザは嘉手納基地を抱える最大の「基地のマチ」で、今では旧市街地ともいえるかもしれない。
休日で混み合う市営駐車場へ何とか車を入れたところでまた雨が降ってきて、眠気にも襲われたのでしばらく雨宿りして休むことに。それから駐車場の隣りにある「沖縄市雇用促進等施設(BCコザ)」と呼ばれる施設へ。以前訪れた時は「コリンザ」という経営に失敗したショッピングモールでハローワークくらいしか入っていないほとんど廃墟のような感じだったが、現在は沖縄市立図書館が入り多くの市民が訪れている。この図書館は2017年に移転されたもので、九州・沖縄地区で最大規模のものだという。確かに一般的な市町村立の図書館の規模をはるかに越えるもので、政令指定都市クラスでもかなわないかもしれない。特に沖縄に関する書籍が充実していて、写真集も戦後の写真家にとって沖縄をテーマにしたものは非常に多いので最近のものも含めて総覧することができた。

図書館にずっと居たいくらいだったが、雨も上がって早く街にも出たい。まずはパークアベニュー。アーケードと緑に包まれた商店街で現在はメインではないかもしれないが米兵向けと思われる店が続いている。コザの歴史上重要な通りらしく、かつての姿を写した写真がアーケードの柱ごとに掲げられていた。それから胡屋交差点付近にも数多くの商店街があって縦横無尽に歩き回らなければならない。コザのメインストリートと思われる「ゲートストリート」にはアメリカ風の店舗が広い道路に面して並んでいてほとんど外国のようである。ここに限らないが沖縄の主要な通りは電線が地下に埋められていることが多く、それも異国情緒を見せているのかもしれない。

ここまででもとても撮りきれないほど興味深い街が続いているが、ゲートストリートの向こうには日本人向けと思われる「中の町社交街」が続いている。面積だけではススキノに匹敵するくらいありそうで、ここも再訪に関わらず次から次へと撮るべきものばかりでクラクラとしてくる。コザの町は結局3時間ほど歩き回ったが、撮りきったという感じはしなくて、もっとも「アメリカとオキナワ」を感じたこの町をいつの日はまた歩いてみたいと思っている。できれば今度は夜のコザへ。

16時頃にまたしても遅い昼食。パークアベニューにある「チャーリー多幸寿」は沖縄におけるタコスの元祖とされていて行列ができる店だそうだが、閉店時間も近いとあってすんなり入ることができた。前日からタコスが続いているが、キングタコスとはまた違った調理法で味付けの違いも楽しめた。ドリンクはやはり沖縄らしくルートビアに。そしてここに限らず沖縄の様々な飲食店で感じたことだが、老若男女問わずまた人数も一人から数人の集まりまで、地元の人と思われる利用が非常に多いということがある。那覇の屋台でも老婆が一人食事をしているという場面を見て、それだけ外食文化が根付いているということなのだと考えている。

コザからまた20分ほど走り、次は嘉手納町にある「道の駅かでな」へ。ここにある展望台からは極東最大の米軍基地である嘉手納基地を一望することができる。この日は土曜日で訓練はあまりないというが、軍用機の発着がある時は相当な騒音になるらしく騒音測定機も設置されていた。またこの道の駅には1フロアを使って、戦前の嘉手納から沖縄戦、基地建設に至る経緯や基地と共存して生きる人々のことなどの展示室があった。展示テーマは、「『戦いの要石』から『交流の要石』へ」であり、沖縄を「太平洋の要石」ともいうように、やはり「要石=Keystone」という語は沖縄そのものを象徴している。そういえばコザの町にもKeystoneという店があった。観光客にも日米安保の最前線に向き合う仕掛けがあるのは意義があることだと思った。

道の駅をしばらく見学しているうちに日も暮れてすっかりくたびれてしまい、道路が混み合う前に那覇に戻りたいとも思ったが、せっかくここまで来ていたのだからとさらに北上して恩納村にある「シーサイドドライブイン」へ。その名の通り海と58号線の旧道に面したドライブインで1967年開業時の雰囲気をよく残している。以前にはNHKの「ドキュメント72時間」にも登場していたそうで、24時間営業のため観光客から地元の人まで様々の小さなドラマが繰り広げられているのだろう。先程昼食にしたばかりだったからレストランには入らず、テイクアウトのホットスナックにしたが私が買った後くらいから行列が伸びていた。

帰りは前日と同じく58号線で那覇まで。同じ沖縄を走っているはずなのに、那覇に近づくにつれ車線がどんどん広がって「アメリカ」から「東京」になっていく。沖縄の支配構造を表している道と言えるかもしれないが、それにも関わらず、したたかにたくましい沖縄らしさも見え隠れして、夜の那覇に繰り出そうとしているチューンされたYナンバーの車と並んで、旭橋までの道すがら色々なことを考えた。

夜の那覇も歩いておきたかったが、連日の疲れと洗濯物が溜まってきたのでマンションにあるコインランドリーへ。乾燥機の小銭を作るためにこの夜もまた向かいのスーパーマーケットへ向かう。相変わらず遅い時間にも関わらず、外国人旅行者の家族がたくさんいるが、一体何を買っているのだろう。思えば那覇以外ではついに米軍関係者以外の外国人をほとんど見なかった。明日はほとんど休むつもりで抑えめにいきたいところだ。カット数は370 あれだけ夢中で歩いた割には撮った数はそれほど多くはなかった。

 

 

28日(日) 那覇市 糸満市 豊見城市

これまでより遅くまで寝ていようと思っていたが、結局いつもとあまり変わらず。普段の生活よりも規則正しくしているというのもある意味で旅行ならではと言えるのかもしれない。この日も曇りか小雨で風も強い。最高気温は15℃程度で、札幌から着てきた冬の装いでちょうどいいくらいだった。朝食はスーパーで買ってきたコンビーフハッシュと卵とドライブインで買った「シーサイドサンド」。

日曜日の朝は「730バス」が運行されている。「730バス」というのは1978730日に沖縄県内の交通方法が右側通行から左側通行に変更された際に大量に導入された路線バス(ドアの位置が進行方向右側から左側に変わることになったため)のことで、現在は2台が残っている。乗り場はバスターミナルから少し離れた場所にあったが、雨が降ってきたので屋根のある県庁北口のバス停で待っていた。しかしながら、事前に確認していた時刻表が古いものということが判明し、どうやら40分くらいは来ないらしい。雨風も強くなってきて待っていられなくなってきたので、結局屋根のあるバスターミナルで外から眺めるにとどめた。

ここで当初の予定から変わってきたので、ここからは「雨天プログラム」として、雨でも行けるところを中心に回ることにした。まずはターミナルの上にある県立図書館へ。ここも3フロアに渡る非常に充実した施設で、特に郷土関係の資料が膨大あってよく整理されている。たとえば本土復帰以来の電話帳や住宅地図まで開架で見られるのが面白いなと思った(他では個人情報保護云々で見られないことが多い)が、やはりチェックするのは写真集関係となった。これまでに訪れたコザや辺野古の様子を東松照明がかつて撮影したものなどを見ることができた。コザの沖縄市立図書館の内容も素晴らしかったが、これほどのものは北海道にいては見ることができないので(札幌都心にも図書・情報館というものはあるがあくまでサテライト的な位置づけ)、一日中こもっていたいなと思った。

バスターミナルから歩いて5分ほどのマンションに戻り、車に乗り込み、まずは那覇中央郵便局で荷物を出してから南側に向かう。広いバイパスやサトウキビ畑の間など30分ほど走ると糸満市の沖縄県平和祈念公園へ至る。ここは沖縄戦の犠牲者の名前を記した「平和の礎」や平和祈念資料館、数々の慰霊碑など沖縄戦の慰霊の中心地となっている。強い風の吹く平和の礎、摩文仁海岸の方へ歩いていくと高校生の団体がいた。平和祈念資料館に入るとここも高校生ばかりで若干退屈そうにも見える。個人的な印象ではあるが、「十五年戦争」という用語に象徴されるように。この資料館の展示手法や内容は90年代からアップデートされていないようにも感じた。それでも設立の中心になった大田昌秀知事の遺産と考えるとまた違う見え方もするし、とにかく琉球処分から本土復帰、そして現在まで大日本帝国やその後継政府が沖縄に対して、ある面で植民地や占領地の住民よりも苛烈な支配をしていることについて改めて考えた。また沖縄県民に対する「皇民化政策」も北海道のアイヌに対するものと全く相似形であった。展望台から南の海を眺め、地図を見てみると、この先には台湾やフィリピンなど東南アジアの国々が続いていて、当たり前のことであるはずなのに、今まで意識していなかった日本が南下してきた視点が改めて浮かび上がってきた。

セブンイレブンで昼食を買ってから、次は閉館時間も近い「ひめゆりの塔」と資料館へ。周囲は土産物店などがある観光地のようになっていて、「ひめゆりステーキ」や「ひめゆりそば」などの派手な看板と慰霊碑のイメージが結びつかない。
それでも慰霊碑とその下に続いているガマ(洞窟)を見ていると、向こうからやってきたいかにも観光客然とした若者が連れに「ここから火炎瓶を投げたんだよ」という話をしていた。これは1975年に過激派が当時の皇太子・皇太子妃に火炎瓶を投げつけた「ひめゆりの塔事件」のことで、若いのによく知っているなと思った。
ひめゆりの塔資料館も中高生の団体と一緒だった。ひめゆり部隊のことは彼らにとっては同世代のことでもあるからまた違った感じ方もあるのか、熱心に見学している人が多かったのが印象的だったし、これからもずっと気に留めておいてもらえたらとも思った。

那覇に向かって走り始める。那覇より南はアメリカ文化や東京文化がある程度影を潜めた、沖縄ローカルの雰囲気が残っている印象がある。その翌日に南部の町を巡りながら思ったことでもあるが、沖縄本島の北から南までのそれぞれの町は、15分からせいぜい2,3時間程度で行き来できるのに、それぞれの地域の雰囲気は全く異なり、それがマーブル模様のように混じり合っている。それでいて沖縄らしさは色濃く残っていて、繰り返しのようにもなるがそこにも改めて感じるものがあった。

糸満からの帰り道に豊見城(とみぐすく)市の瀬長島に訪れて、着陸する航空機でも撮ろうかと思ったが、あまりの寒さに負けて早々に退却。道民にあるまじきことだとは思うが、この日はもう寒くて活動する気になれず、いつもより早めにスーパーマーケットに寄ってマンションに戻った。早い時間だったためかこの日は惣菜の選択肢も多く、日本人家族の姿もあった。
部屋で簡単なものを作ってテレビで開票速報を見る。予想していたよりもずっと与党が勝利し、ここ沖縄ではこれまで議席を持っていた革新系「オール沖縄」の候補は全敗。その理由は色々あるとは思うが、新たに結成された中道改革連合が辺野古新基地問題などで曖昧な態度を取ったために革新系が分裂しその支持を失ったためだと思っている。そこを曖昧にしてしまうのは左右問わず本土の政治家の基本的な態度だと思っているし、今回また本土の代理人が議席を占めたことで、沖縄に限らないかもしれないが、あまり良くない未来になるのではと思っている。カット数は98

 

 

29日(月) 豊見城市 糸満市 南城市 与那原町 那覇市

昨夜はいつもより長く寝ていた。この日も肌寒く、やはり札幌から着てきたもので対応できそうだ。朝食は連日ほとんど同じメニュー。
まずは10時頃に昨日少しだけ訪れた瀬長島へ。この島は那覇空港のすぐ隣にあって、近年では滑走路が拡張され島がまるで挟まれるような形になった。次々と降り立つ航空機を見に来る人も多い。以前に訪れた時は砂浜と漁港があるくらいで地元の家族連れが遊びに来ているという感じだったが、リゾートホテルやカフェなどが建ち並ぶようになって雰囲気は一変した。かつてはグスク(城)のあった丘にも登り大体島を歩いて一周した。ここにも猫がいた。

豊見城から国道331号バイパスを経て糸満市の中心部へ。ここ糸満は漁業が古くから盛んな町で遠く南洋まで漁に出ていたという。糸満ロータリー交差点を眼下に収める山巓毛(さんてぃんもう)公園に車を置いて山を降りる。この石灰岩の山自体も信仰の対象で大きな墓所のようになっている。
漁港は静かでエメラルドブルーの海の中に漁船が休んでいる。いかにも港町らしいスナック街も人より猫の姿が目立つくらいであったが、糸満市場には地元名産品の店が集まって観光客の姿もあった。一通り町を撮り歩いて山巓毛公園に戻る頃、近くの日本語学校が昼休みになったのか、たくさんの外国人の若者が出てきてすぐにどこかへ散っていた。

糸満からのいくつかの丘の上や畑の間を通って東海岸の方へ。14時頃南城市にある知念岬で少し休憩。歩いてすぐの所には琉球信仰の中心地である斎場御嶽(せーふぁーうたき)があり、そこも再訪したかったが時間が足りなそうだったのでまたいつかということにしようと思う。また331号を走っていくつかの集落を通り過ぎて今度は与那原町へ。もし前日に予定通り730バスに乗っていたら訪れようと思っていた町だ。

山の上にある役場の駐車場から町に降りて役場周辺のスナック街を撮っていると、威厳のある洋風建築に行き当たる。これはかつて沖縄に存在した軽便鉄道の与那原駅を復元したものだという。とても復元のようには見えない仕上がりだったが、中は資料館になっていて現代の駅のようにサインやきっぷ売り場など非常にリアルに再現されているのが面白く、もし現在まで沖縄に鉄道が残っていたらこんな感じなのかなと思った。ここ与那原駅は那覇から続く軽便鉄道の終点で、かつては港町でもあったからその結節点として栄えたという。軽便鉄道は沖縄戦で失われてしまったが、「駅舎」の前から続く通りを歩くと、不思議なもので戦後に建てられたはずなのにどこかの地方都市の駅前通りのような雰囲気だ。与那原も公園で子どもが遊んでいる他は静かな町という感じであったが、歴史を感じる町割りであったり建物があったりで、この町も歩いておいて良かったなと思った。
与那原町は那覇市のベッドタウンのようで、58号沿いほどではないがロードサイド店舗が続く道を30分ほど予定よりも早く那覇都心に戻りフィアット500を返却した。雪の多い北海道で乗るには大変かもしれないが、全く見かけないこともないので、機会があればまた運転したいと思っている。

那覇の夜はもう最後なので疲れたとも言っていられず、見納めに夜の街に出ることに。一通り歩いたらサウナにでも行こう。やはり撮りにくいことこの上なかったが、辻や松山といった夜の歓楽街から撮り始める。途中のステーキ店で少し奮発した。国際通りやいくつものアーケード街は相変わらず数多くの人で賑わっている。もちろん店にもよるとは思うが、国際通り周辺の店は遅くまで開いているところが多く22時を過ぎても買い物ができる土産物店がいくつもあり、屋台のような飲み屋街も月曜夜に関わらずそこそこ盛況に見えた。それにしても辻や松山の客引きは非常に積極的だったが、国際通りにいる若い女性のガールズバーと思われる客引きは非常に消極的でただ内輪で話しているだけなのが対照的で面白く、または居酒屋の客引きなのか三線を弾いている人もいたが、素人が見ても拙くてなんだか物悲しく聞こえるのが那覇の夜の印象として心に残った。

日付を越える少し前に部屋に戻ってきて明日のチェックアウトに向けてパッキングをした。明日の那覇の最高気温は20℃ほど、そして夜の新千歳空港は0℃ほどとのことで服装をどうしようかしばらく悩んでいた。カット数は483 やはり那覇を撮る時がカット数も多くなるようだ。

 

 

 

210日(火) 那覇市 小美玉市(茨城空港) 千歳市 札幌市

最後の日も同じように自炊したものと買ってきたもので朝食にして、9時頃にチェックアウトした。午後のフライトまで那覇を歩き回ることにする。連日の肌寒さから一転してまた朝から初夏のような暑さだ。まずはモノレールの旭橋駅に向かい荷物を預けようと思ったが、すでに一杯だったので隣の壺川駅で荷物を預けてから安里駅で降りる。プラットホームからは首里方面の丘に張り付く家並みなども見える。

初日にも訪れた栄町市場に今度は午前中から歩き回る。もちろん飲食店は開いていなかったが、かつての市場がメインだった頃の町の感じを思い出した。さらに歩いて崇元寺石門の前にあるガジュマルの樹の下で少し休憩。ここはかつては琉球王朝時代の寺院で今は石門だけが残されている。ここもまた訪れておきたかった。時間を惜しむようにすぐにまた歩き始める。昼間なのに少し客引きのいる松山を過ぎ、銀行や本土企業の支店が集まる久茂地を歩いていると、前日までレンタカーを借りていた店の方と偶然に再会し少し話をした。

最後は旭橋から国場川に沿って少し歩き、壺川駅から空港へ向かう。荷物を預け、昼食を買うためにA&W(沖縄地場のファストフード店)の行列に並んでもなお時間があったので、もう少し那覇の街にいれば良かったと思ったが、おそらくいくらいても足りるということは無いだろうし、次はいつになるか分からないがまた変わっているであろう那覇や他の街を歩いてみたいと思っている。今回訪れる前には札幌と同様さらに「東京化」されてしまったであろう那覇や沖縄を見てみたいという気持ちがあり、実際に本土に規格化されたと感じる部分はたくさんあったが、その反面沖縄らしい独自の文化を強く感じる部分もたくさんあって、気づいていないだけで本当は札幌にもそうした部分があるのではと思った。

定刻より少し遅れて15時半過ぎに那覇空港を飛び立つ。乗客は家族連れが多かったが、ほとんどは茨城空港が降りていった。茨城経由なのは単なる運用の都合だと思っていたが、意外にも茨城や周辺からの利用が多いのかもしれない。18時半過ぎに次は新千歳空港に向かって飛び立つ。暗くなった機内で目を閉じると、まるで古いモニターに残像が焼き付いているように、瞼の裏に白いビル群の街が浮かび上がってくる。所要時間も北行の方が数十分短く、あっという間に新千歳空港に降り立つ。到着口近くにある「てんや」(今や道内唯一の店舗になった)で夕食をテイクアウトするのが近年のルーティンになっている。
空港ビルから外に出ると、もちろん寒いが夜でもプラス気温で路面は濡れていたのでむしろ「暖かい」と感じる道民としての感覚にあっという間に戻ってしまう。千歳市内など道路の雪もあまりなかったが、山道に入る頃には雪が降ってきてうっすらと積雪している。沖縄のそれとは全く対象的な「白い道」だ。カット数は245

 予定していたが行けなかったところもあったし、予定外に訪れたところもあったが、とにかく多様性を感じる沖縄の街や文化はやはり自分にとって魅力的だった。本土の人間がすっかり魅了されて何度も訪れるようになることを「沖縄病」というらしいが、それに罹りつつあるのかもしれない。ただ北海道は「本土」とは言い難い性質を持っているからまた別の見え方や感じ方もあると思う。

アメリカが明確にあって共存もしている本島北部、それに対するローカルさを感じる南部。その間にある那覇は東京的だがそれだけではない独自性や、あらゆる矛盾を飲み込もうとする力の均衡なようなものも感じた。私が今回特に宜野湾やコザといった本島中部の街に親近感を持ったのはなぜだろうかと考えている。あらゆるロードサイド系チェーン店が居並ぶ58号線と、基地の間(森林とフェンスしか見えないが)を何キロも走る広々とした道、今回特に印象的だったその二つの道だった。またいくつもの街の印象や関心などは写真の内容や枚数にもよるだろうから、ゆっくりと見返していきたい。