写真都市

Yasushi Ito Portfolio Page

2011 東京撮影記

各タイトルはブログ「写真都市」に掲載したものに撮影日を付した。
また本文については一部表現を整えている。.

 

 

11.01.01 元旦の東京(11.01.01撮影)

部屋を出たのは6:00前くらい。歩くそばからどんどん空は白み始める。

訪れたのは荒川河川敷、私が「マカロニ橋」と呼び習わしているところ。半ば日常的に散歩に訪れているところだが、この一番思い入れのある場所で2011年の初日の出を迎えたいと思っていた。また、ちゃんと三脚などを使ってまともに撮影するのも元旦くらいのものである。少し意外に思ったが、河川敷には結構な人手がある。私が立っていたのは葛飾区側だが、太陽を見るにはより適している、対岸の墨田区側には更に多くの人が集まっている。いつもスカイツリーを撮る場所で、今朝は少し珍しいものが見られた。この「マカロニ橋」のあたりは唯一、スカイツリー・東京タワー・富士山の3つが揃って見られる場所なのである。特に富士山は空気の澄んだ冬の朝でなければ見られないようだ。来光の瞬間には、ちょうど羽田空港を離陸した航空機が旋回した関係で、飛行機雲が太陽とかかって面白い形となって、これまでの初日の出の中でも特に印象的なものとなった。

そのまま荒川を墨田区側に渡って八広駅へ。ここから今年最初の京成電車に乗って、浅草線・本所吾妻橋駅へ。ここから少し歩いて東京スカイツリーのたもとへ出かけたが、早い時間だったせいかあまり人はいなかった。ここで急激に体温が下がるのを感じたが、マクドナルドで少し休憩をして何とか回復。続いては、浅草寺に向かう。やはり初詣客でそれなりの混雑。しかし、やはり早い時間(9:00前くらい)のためか、いつもの休日くらいの混雑ぶりである。

新春公演が行われる劇場や寄席のある六区あたりを抜けて、合羽橋道具店街へ。ここではありとあらゆる飲食店用品を揃えることができるが、さすがにこちらはほとんど無人である。田原町から銀座線に乗車。浅草方面の電車は少し混みあっている。渋谷方面は非常に空いている。少し疲れたので適当にしばらく乗車していることに。ほとんど乗客のいない電車に身を置いて、他のどの路線よりも大きいレールのきしみに耳を傾けるのは心地よい。赤坂見附で丸の内線に乗換えて、ふと四ッ谷駅で降りる。僅かな間だけであるが地上に顔を見せる独特の開放的な雰囲気を持つこの駅は、東京の中でも特に好きな駅の一つである。

続いて、隣の新宿御苑駅で降りて、この機会に苑内を歩いてみたいと思ったが、年末年始は休園中で空しく踵を返して、新宿三丁目方向へ。しばらく新宿駅東口の街並みを撮り歩いて再び地下鉄に乗った。さすがに元旦は休業している店が多く、ほとんど人のいない新宿というのは珍しく感じられた。続いて、銀座を訪れる。こちらは更に老舗が多いからシャッターを閉ざす店ばかりで、この日でなければならない銀座の風景を見る事が出来る。明日からは初売りで多くの人々で賑わう事となるだろう。

まだ午前中であったが、相変らず寒いし(それでも札幌の10月下旬くらいだろう)、だいぶ疲れてしまったので、新橋まで出て帰路についた。買物をして帰宅してからは、今になって年賀状を作り始めたり、様々な用事を足したりで、結局休息を取らずに夜に至る。結局今年最初の街歩きは、「ホーム」である荒川河川敷から、浅草・新宿・銀座と実に東京らしい場所を巡る結果となった。当然の事だが、夜明け前から早くに出かけると一日で色々と周る事が出来る。いつもは昼近くまで寝てばかりなので、今年は少し早起きしてより沢山の街を歩くことができるようになればと思っている。

【2020年のひとこと】
今では初日の出を見るということもなくなったし、早起きもできなくなってきているが、この時はおそらく東京にいる間の最後の元旦になると思っていたので、朝早くからあちこち歩き回っていた。なんでもないようだけど、東京に住んでいないと見られないものばかりだったのかもしれない。

 

 

 

11.01.03 埋立地の夕暮れ(11.01.02撮影)

新年2日目は午後から出かける。向かう先は台場にある天然温泉施設である大江戸温泉物語。浅草から水上バスに乗ろうかと思っていたが、不覚にもATMが営業していないことを知らなかったために、現金が殆ど無く、できるだけ料金のかからないルートにすることにした。

地下鉄を浅草橋で降りてJR線を乗り継いで田町まで。ここから1キロほど歩くとレインボーブリッジの袂にたどり着く。ここは昨年の2月にも訪れた。その時は橋の歩道まで上がって景色を眺めただけだったが、今日は歩いて台場まで渡ることにする。前後の橋梁なども含めるとおよそ1キロ。景色を眺めながらでは30分ほどで渡ることが出来る。歩道には豊洲・東雲、東京都心を眺めるルートと、台場・東京湾方面を望むルートがあり、その間には一般道と新交通ゆりかもめが走っている。その上層には首都高速11号台場線がある。今回は前者を選び、寒風に吹かれながら都心方向の風景を収める。

橋を渡りきったころには日没が迫っていた。砂浜の続くお台場海浜公園を歩きつつ、その地名の由来ともなった「台場」跡を歩く。ここは幕末の黒船来航に備え、品川沖に砲台を備えたものだったが、それが用いられることはなく、その対岸に今ではニューヨークのそれを縮小させた「自由の女神像」が立っている。高層ビル群と夕陽が沈んで海面に反映している様子を撮影して、フジテレビ前の観光地にたどり着く。

狭い路地や雑多な市街にお構いなしに伸びる高層ビル、戦前からの建築や、血管のような高速道路など、いずれも東京らしい風景であるが、それとは対極にあるこの埋立地の風景もいいものである。先日の千葉ニュータウンといい、もしかしたら、途方も無い風景をこの頃では求めているのかもしれない。今度は豊洲あたりの本当に何も無いところをまた歩いてみたい。開催予定地であった東京オリンピックも頓挫してしまったことだし。

さて、フジテレビ前を歩いていると、観光客が大変多いが、外国人が多数であった。空港にも近くやはりお手軽な観光地なのだろうか。あまり日本的という感じもしないが…。すっかり日の暮れた後、身体もすっかり冷えてしまったところで、友人と合流し、大江戸温泉物語へ。正月休み中なのでなかなか混雑している。特に18:00以降は入館料が安くなるので、そのために行列に並ぶ。埋立地の真ん中に天然温泉というのも不思議な感じもするが、ともかくなかなかのお湯。利用者の多くが外国人というのもユニークであった。今度は空いている時に訪れたいものである。

【2020年のひとこと】
今ではほとんどの支払いはクレジットカードだし、あらゆる場所で電子マネーなどが使えるようになったが、この頃はまだまだ現金が中心。ATM休止はなかなか困った様子。
そして、今ほど浪費していなかったというのもあるけど、よくあんな収入で貯金もほとんどない状態で、よく東京で生きていられたなと思う。葛飾のワンルームマンションで格安とされる場所にいたけど、それでも家賃は6万5千円ほど。札幌なら都心部でもそれなりのところに住むことができる。
大江戸温泉物語も意外と東京に住んでいないと行かない場所かもしれない。文中にもあるがお台場の街並みも結構好きだ。

 

 

 

11.01.09 日曜日よりの使者(11.01.09撮影)

この3連休は東京の西側を見ようと思い立ち、横田基地のある福生市を見てから、中野ブロードウェイ周辺を歩いた。この事は改めて書こうと思っている。最後は渋谷で友人と飲んでいたが、(例によって)結局朝まで飲み潰れてしまった。ひどい二日酔い状態で家に戻ったのは8:00過ぎ。その後昼過ぎまで寝ていたから、食事やら掃除やらであっという間に夕方になってしまう。これで一日を終えるのも勿体無いし、また空の様子が随分良さそうなので、荒川に出て夕暮れでも撮る事に。いつものようにカメラを構えたのは「マカロニ橋」前。しつこいようだが、以下のPVのロケ地に由来して勝手に呼称している

ここから真正面にスカイツリー、右手に富士山、左手に東京タワーを望む場所に三脚を構え、夕暮れから完全に日没するまで約1時間じっと撮影する。1時間も寒風に耐えていたのは私くらいのものだが、その他にもこのスポットから撮影するのは、通りすがりも含めると20人近く居たと思う。以前はそこまで居なかったように思うから、もしかすると、少しずつ有名になってきているのかもしれない。今年はこれからも何度も訪れることになると思うが、もう少ししっかりした定点観測になるような研究が必要となろう。

それにしても、東京の休日の夕暮れと、THE HIGH-LOWSの名曲「日曜日よりの使者」との組み合わせは、他の何にも代え難い素晴らしさがある。

【2020年のひとこと】
今も何故か印象深い「なんでもない」一日。ふと思いつくと、すぐに荒川河川敷に出られる場所に住んだのはいい選択だったなと今でも思う。そして東四つ木の木根川橋付近の東京スカイツリー撮影スポットはこの頃から徐々に有名になっていたようだが、最近も訪れる人はいるのだろうか。一応京成押上線の四ツ木駅が最寄りだが、駅からは少し歩くので観光向きとは言えないかもしれない。

 

 

 

 

11.01.12 Go West(11.01.08撮影)

この3連休は東京の西側を見ようと思ったが、渋谷で飲み潰れて(楽しかったけど)2日目には挫折したことは、前の記事で既に書いた。この日は正午前に家を出て、浅草橋から総武線、御茶ノ水で中央線に乗換える。御茶ノ水から電車に揺られる事1時間弱。武蔵野台地を一直線に西進して立川へ。立川には昨年の3月に訪れた。ここから青梅線に乗換えて20分ほど。ようやく今回の目的地福生市へ到着する。

ここは市域の大半が米軍横田飛行場となっている、いわゆる「基地のマチ」である。文化的にもアメリカ文化が直接に流入した場所であり、福生に関連する人を考えると、大瀧詠一・細野晴臣・忌野清志郎・真島昌利・奈良美智・村上龍などが思い浮かぶ。村上龍の「限りなく透明に近いブルー」も福生を舞台としたものだし、また、街中ではリリー・フランキー作という壁画も見かけた。昨年の晩秋に発売されたザ・クロマニヨンズのアルバムにも「7月4日の横田基地」という楽曲がある。その独特のアメリカ風の景観は映画やコマーシャルフォトの撮影にしばしば登場し、街を歩くのはやはり外国人が多い。

駅前はいたって日本的な大型スーパーやファストフード店の並ぶ風景だが、少し基地のゲートの方角に向かうと、年代を感じさせる飲み屋街が続く通りがある。ここも英語表記が多いといえば多いが、新宿ゴールデン街のような日本の各地に多く残っている風情の通りである。しかし、基地のフェンスに沿って通る国道16号沿線の店は、アメリカの街並みがそのままやってきたような風景が広がっている(ここでいうアメリカとは北米アメリカ合衆国を指している)。飲食店や雑貨屋、テーラー(忌野清志郎氏の衣装を作っていたという)など、米国風の製品が溢れていたし、ミリタリーショップやタトゥを彫る店など、いかにもといったものもある。基本的に現在では日本人の観光向けといった感じがしたが、やはり米軍関係者を相手にしていそうな店も多く見られた。海外には行ったことはないが、アメリカのロードサイドはこんな感じなんだろうか。また、国道沿いの商店では米ドルでも買物できるらしい。以前、一種の地域通貨のようなものとして機能していると聞いたことがあるが、レートとの関係はどうなっているのだろう。

国道を離れると、一般的な住宅街でかつて暮らした黒磯の街を歩いているような気分になる。ちょうど人口は同じくらいだが、その割には飲食店が多く、黒磯に米軍基地は無いが、代わりに大きな工場があり、似たような需要があるのかなと考えたりした。駅前で少し休憩。全国チェーンのカレー店に入ったが、客は外国人の方が多く、若いスタッフはしっかり英語対応している。次は駅の西側を歩く。こちらにも商店街が続いているが、生鮮食料品や各種専門店など生活に密着した店舗がほとんどで、レンガ風石畳で綺麗に舗装された通りと、ゆるいJ-POPのインストゥルメンタルがスピーカーから流れる様子は、いかにも平成らしい街並みである。上流らしく雑木の生い茂る多摩川を渡ってあきる野市まで行ってみた。また福生駅に戻って、せっかく西まで来たのだからそのまま青梅線の終点、奥多摩まで行ってみたいと思い、とりあえず青梅まで出てみたが、日も暮れかけていたのと、青梅から先の電車がしばらく無いようだったので、またいつかの機会とする。

青梅から中央線直通の特快電車に乗って不意に眠気に誘われ、ふと目を覚ますと三鷹を過ぎたあたり。本当は吉祥寺に出ようと思っていたが、中野で降りることにして、駅前の商店街や飲み屋街を撮りながら、中野ブロードウェイで目的のものを買い求める。ここは初めて訪れたが、いまや「オタクの殿堂」といわれるように、ありとあらゆるサブカル関係のものや玩具、自費出版物など、一日居ても退屈しないような店がたくさんある。普通の生活用品を扱う店も多いためか、神保町はもちろん秋葉原にもない独特の雰囲気がある。いわゆる「中央線文化」の源泉のひとつがここにあるのかもしれない。

写真集の専門店では、昔写真部の部室に乱雑に扱われていた写真集が、驚くほど高値で取引されているのを目にしたり、鉄道模型やコイン・切手の専門店では、かつての趣味が再び呼び起こされそうになったりと、わずかな時間ではあったが色々楽しめた。新宿並みの集積を見せる飲食店など周りも面白かったし、中野にはまた近いうちに訪れたいと思っている。

【2020年のひとこと】
福生は自分の好きな文化やそれにまつわる人が凝縮されたような街だが、訪れたのはこの時一度だけ。福生に限らずいわゆる三多摩などはじっくり見たいと思っているが、なかなか実現しそうにない。中野ブロードウェイもなかなか楽しかったが、この時は何を買い求めたのだろう。

 

 

 

11.01.15 Go West 2(11.01.10撮影)

この3連休の最後に再び東京の西側へ向かった際の記録を残しておこう。
その前に新橋にある鉄道歴史展示室(旧新橋停車場)へ立ち寄り、「石川光陽写真展」を見に行く。石川光陽とは元警視庁の吏員で撮影を主な任務として、要人警護の記録、または2・26事件や東京大空襲の被害状況などもつぶさに記録していたというが、その他に昭和初期の東京街頭でのスナップや家族の姿をとらえたものも大変多い。やはり警官であったのと、「停車場」で展示しているという場所柄のためか、交通関係のものが多くセレクトされていて、路面電車が行き交う銀座の街並みや、今もその雰囲気をいくらか残す上野駅の様子などが印象的であった。反対に、昭和10年くらいの渋谷駅は郊外のちょっとした集落のようなところで、現在の姿をとても想像できるようなものではない。

それにしても、大正から昭和戦前にかけての街並み・景観・その他のデザインは、今よりもずっと美しいもので、事物は時代が進むごとに「進歩」するという考えがいかに誤ったものであるかを容易に示してくれる。この国ではいつの間にかスクラップ&ビルドが常態化して、ただ効率を求める、またはただインパクトのあるものが求められ、均整の美しさや素朴さが閑却された結果今ある雑多な街並みが形成されてしまったのである。それはそれで面白いものではあるのだが。出展作品の中には国鉄駅に貼り出された初詣の案内看板が、「景観上問題あり」として警視庁の指導があったというキャプションがあった。その看板は今のものと比べるとずっと素朴なものであるが、デザイン的に統一感が無くもはや案内にすらなっていない駅内の表示や、僅かな隙間でも広告の氾濫する現在にこそ指導してもらいたいものである。久しぶりに桑原甲子雄の写真も見たくなった。石川光陽写真展は3/21まで。

新橋からはバスに乗って渋谷まで向かう。六本木を経由して30分弱くらい。なかなか混雑していたが、通して乗っていたのは自分独りくらいであろう。新橋から渋谷だったら地下鉄に乗った方がずっと早いし、尚且つ運賃も安い。2日前に来たばかりの渋谷駅前から雑踏の中、道玄坂の繁華街を登る。この日のメインストリートは歩行者天国になっていて、此処かしこで大道芸人のパフォーマンスが行われている。彼らは都の認可を受け登録された公式のアーティストだという。「ヘブンアーティスト」Webページを覗けば、様々なジャンルのミュージシャン、アクロバットやマジック、紙芝居など、あらゆるアーティストが登録されている。それぞれ言い分はあるかもしれないが、これは今後も続けるべき石原都政の遺産になると思う。

結構急な坂道を行ったり来たりする。ここ渋谷は大体駅のあるあたりが窪地となっていて(地下鉄銀座線が高架を走るのはそのため)、多くのデパートなどが建ち並ぶのに関わらず起伏に富んだ地形となっている。今ではその面影はほとんどないはずであるが、その地形を見るとかつて渋谷が純然たる農村や住宅地であった、本当に「武蔵野」であったものが何となく想起させられて、「山の手」に来たなということがよく感じられるのである。こういうのは下町では決して見ることはできない。今まではあまり縁の無い街である渋谷だったが、今後は興味を持って何度か歩くべき場所になるかもしれない。

道玄坂を登りきると、周りは徐々に住宅へと変わっていく。山手通りを越えると、ほとんど人の歩いていない閑静な住宅街で、東大駒場キャンパスの近くを歩きながら、名前もそのまま京王井の頭線「駒場東大前」に辿りつく。本当は少し先の下北沢まで歩くつもりであったが、大分日が傾いてきたので先を急ぐ事にする。世田谷区にある下北沢は、京王井の頭線・小田急線が交差する地点で、新宿・渋谷のどちらにもすぐ出られる場所という事で、渋谷並みとはいかないが大変賑わっている。また、若者文化の中心地としても名高く、数多くの飲食店・雑貨屋・古着屋、またはいくつかの小劇場やライブハウスなどが集まっている。初めて訪れたためでもあるが、そんな迷路のような町を日没までしばしあいだぶらつく。若者向けの多くの店が集まっているのはもちろんであるが、下北沢を下北沢たらしめている特色は、非常に細い街路にあると思う。世田谷区内には狭くて曲がりくねった道、袋小路などがたくさんあるというが、この街も例外ではなく車が一台やっと通れるくらいの道路に沢山の人が溢れているために、回遊性が生まれ、更に活気があるように見える。図らずも歩行者天国や欧米のモールを自然発生させたようなものであり、大変好ましいものだと感じたが、現在大きな道路を通す再開発事業が検討されていて、その行く末は注視する必要がある。

再び井の頭線に乗って終点の吉祥寺まで。広大な井の頭公園が有名だが、すっかり日が暮れていたのでその姿を窺い知ることは出来ず、しばらくの間駅周辺の繁華街を撮り歩く。ここ吉祥寺は常に「住みたい街」1位の座に君臨しているが、確かに適度な商業集積があって買物には大変便利そうなところである。また、中央線ですぐに新宿に出られるのもいい。当然井の頭公園の環境も素晴らしく、それらが人気の所以なのであるが、その分、家賃相場は他よりいくらか高く、自分ならはそこまで住みたいという気がしない。でも、ヨドバシカメラが近くにあるというのかいいかも。それにしても、この日は大変寒かった。札幌で真冬の一日撮り歩いているような感覚さえある。自分の気候への順応度の無さは驚くべきものがあるが、あまりの寒さに気が萎えそうで、頭も痛くなってきたので、いくつか冬の装いを買い求めた。

再び下北沢に戻る。ここの街で働く方と落ち合って食事にする。札幌で写真を撮っていた頃の友人で、一度酔い潰れていたところ、札幌郊外A区のご自宅まで送った記憶があるが、数年後、こうして下北沢で飲んでいるというのは不思議な感じがする。もっとも東京に出てきてからも、交友関係は札幌時代のままで、いつもの事といえばいつもの事なのであるが。小田急線・千代田線・半蔵門線・京成線と乗り継いで、ようやく立石の自宅に着く。1時間少しくらいであったが、ちょっとした旅のようでもある。今年になってようやく針路が西に向き始めたが、それにはこれまでの反動なのか(もっとも今後も東側は歩き続けるが)、「武蔵野」への憧憬を感じ始めたためである。

今ではその痕跡もあまり無いのかもしれないが、東側の「水の東京」には無い「丘の東京」も見てみたいものである。その際の必携書といえば国木田独歩の「武蔵野」、音楽でいえば真島昌利の「夏のぬけがら」となろう。

【2020年のひとこと】
この日は新橋から始まり、間にバスや電車に乗りながらも、渋谷から駒場東大前、下北沢、それから吉祥寺まで随分あれこれと撮り歩いていた。夏の東京はあまりに暑くてほとんど歩けない反動かもしれないが、文中にあるように冬の東京というものも、体感的には札幌より寒い。感覚的なものなのだろうが、不思議なものだ。
もしもう少し長く東京に住むことになっていたら、新宿より西側をあれこれ訪れたいと思っていたが、今となっては永遠の時間切れ。

 

 

 

11.01.22 Go West 3(11.01.22撮影)

今日はいつもより少し早く起きて、午前中から撮影に出かける。先週は出かけなかったが、引き続き東京23区内、山手線より西側を見てみたいと思う。

降り立ったのは千駄ヶ谷駅。ここからしばらく首都高速新宿線に沿って歩いて、明治神宮の境内の脇を通って西新宿まで。東京都庁の裏手にあたる。ここからさらに進んで中野区南台あたりまで。最終的に中野駅まで歩いたが、さしたる興味をそそられる被写体は無し。どうにも東側と比べてしまうと単調な街並みが多いような気がするが、流石に中野駅周辺の繁華街は撮っていて面白かった。先日も訪れたばかりなので、中野ブロードウェイは通り抜けただけである。

一度食事休憩をしてから、すぐに中野駅北口から出ようとするバスに乗り込み、終点である江古田駅まで15分ほど乗車。江古田は西武池袋線の駅で池袋から3駅。その立地もそうだが、駅周辺の雰囲気は、僕の住む立石との合わせ鏡のようにそっくりである。バスで途中通過した西武新宿線の新井薬師駅周辺もそうだが、私鉄ターミナル駅から少し離れた所は似たような、下町風情全開といった様相を呈するのだろうか。ちなみに江古田は日大芸術部や武蔵野音大などの集まる学生街でもある。しばらく江古田駅周辺を撮り歩いてから、西武池袋線に乗り込み、終点池袋の一つ前、椎名町駅まで。池袋のすぐ近くとは思えない古びた住宅街が広がっている。しかし、池袋という街自体、東京の大きな副都心のひとつであるが、新宿や渋谷と比較した場合、生活感に溢れ垢抜けない感じがする。

しばらく夕闇迫る池袋の街を撮り歩く。西口にあるラブホテル街には「派遣型」と思われる従事者の方が闊歩し、東口は新宿や渋谷と同じく雑踏が街路を埋めている。そしてその両者はネオン看板が隙間無く並べられ、土曜の夜が盛り上がろうとしているところであった。誘惑に負けそうになったので、さっさと電車に乗り込み帰路につくことに。新宿で乗換えて、中央総武線で眠りこけているうちにあっという間に、スタート地点の浅草橋駅に戻る。

まだまだ見ていないところもあるが(板橋区域については殆ど未踏)、東京西側の撮り歩きについては、ひとまず区切りをつける。もう少し23区内で行ったことの無い土地にも向かいつつ、横浜方面などにも少しペースを上げて訪れたいと思っている。または、葛飾区内や向島、銀座など何度も訪れた場所についても再び周ることになるだろう。

【2020年のひとこと】
まだまだ「西征」は続いていた。この時点で札幌に戻ることがほぼ決まっていたので、3月末までに訪れる場所をあれこれと考えていた。しかしながら、あの震災の影響でその計画は中途に終わってしまった。

 

 

 

11.01.23 羽田・横浜(11.01.23撮影)

本日は、大田区の京急空港線沿線を見てみることに。空港を利用する際にはほぼ必ず通る場所ではあるが、これまで細かく歩く機会が無かった。いつものように京急線を使って移動。泉岳寺から品川にかけて地上に上がって明りが差し込み、JR品川駅の広大なヤードや高層ビル街を望む風景はいつみてもいい。

京急空港線を大鳥居で降りる。ここから京急蒲田方面へ戻り、糀谷駅前の狭隘な道路の続く商店街や住宅街を撮る。この空港線では高架化工事が進んでいて、既に上り線は完成している。数年後には下り線も完成して、それに合わせて糀谷駅前の再開発も行われるという。駅前の住宅を歩いていると、開発を推進するポスター、その隣家には開発に反対する旨のポスター。一つの通りに、推進派・反対派の家が入り混じっている。一体どのような近所づきあいが行われているか分からないが、ここ糀谷も狭いながらもなかなか活気のある商店街があって、これを月並みな高層ビルに変えてしまうのは惜しい気がする。
私の住む立石でも同様の問題は起こっているが、再開発推進の大義に防災のためというものがある。確かに消防車などが入れない路地も多く、震災時には大きな被害が出ることも想定されるが、それはそれまでのことで、この貴重な街並みに比べて、人命がそこまで大事なものなのだろうかと、つい偏ったことを考えてしまう。しかし、これを覚悟で暮らし続けている、再開発に反対する人も多いとも思っている。

糀谷・本羽田の町を抜けて多摩川河川敷に出る。河原には蘆が広がっていて、荒川や江戸川にも負けない好景観である。しばらく河原を歩いて首都高速の橋脚の下あたりに出ると、屋形船や釣り船が係留されている。元々ここは漁村として発展したところだったというが、その雰囲気は意外にも強く残っている。多摩川沿いの遠浅では潮干狩りも行われている。煉瓦製の堤防は先日NHKの「ブラタモリ」で紹介されていたもので、昭和8年に完成したものだという。今では堤防としての機能は無く、一部では家屋の塀のようになっているが、こうした過去の痕跡を見るのはとても興味深い。また、鎌倉時代の町割りと江戸時代の町割りで、路地が微妙に屈折という話も紹介されていたが、それもよく確認できた。こういうことがあるから東京の街歩きは本当に面白い。

今でも穴守稲荷には多くの参詣客を集めるが、海水浴場や競馬場などのレジャーで賑わったという過去も想像してみるのも面白い。また羽田の町の中を、空港方面に向かって伸びる通りは、微妙な曲線が続いていて、これがかつての街道のようなところであったのが容易に想像できる。沿線には古い商店や小さな旅館、ガソリンスタンドなどが並んでいて、ここが町の中心地であったことがわかり、またどこか遠くの港町に来たような錯覚にもなる。最後にたどり着いた穴守稲荷駅も、どこか地方の駅のような雰囲気がある。一般的に羽田空港から都心に向かうには、モノレールか京浜急行を利用すると思うが、モノレールが埋立地の工業地を走るのに対し、京急線では古くからの町の中を走る。どちらもなかなか途中で降りる機会は無いと思うが、是非時間があれば穴守稲荷駅周辺でも少し散歩してみてほしいと思う。

京急蒲田駅で、羽田空港に降り立った友人と合流。一路京急本線で金沢八景に向かう。金沢八景というだけあって、景勝地らしく海には若干の松原が見られるが、現在ではその多くが埋め立てられ工業地帯となり、かつての姿を見るのは難しいという。駅前も松島海岸あたりに似た、何となく観光地らしさがあるが、ここも数年後には再開発で大きなロータリーに変貌するという。京急の駅から少し歩いて新交通シーサイドラインに乗る。見るからに仮駅といった風情だが、再開発が行われる際には京急の駅前まで乗り入れるそうである。無人運転の電車に乗り車窓を眺める。沿線には八景島シーパラダイスもあるが、冬場のためかあまり利用者は居ない模様。あとは殆ど工業地帯の中を走るのみである。

終点の新杉田から根岸線に乗り、東神奈川で横浜線に乗換え、新横浜まで。周囲は整然とした新都心だが、何故ここに来たかというと、駅近くに今をときめくフードテーマパークの嚆矢「新横浜ラーメン博物館」に行くためである。意外と地味な外観で探すのに苦労したが、入場して地下に降りると、昭和33年の街並みが再現されていて、ここに何店かのラーメン店が出店しているという仕掛けになっている。最近はレトロブームもあってこの手の施設が増えているような気がするが、なかなかしっかり作りこまれていると感じた。結局2店のラーメン店を巡り、それぞれの味を堪能した。思えば、この頃ラーメンを食べていなかった。特にこだわりのようなものもないのだが、一番好きなのはやはり札幌味噌ラーメン。ここの中で唯一長蛇の列が出来ていたのは札幌ラーメンの店であった。新横浜から地下鉄に乗って横浜まで。そこから京急・浅草線・京成線と乗り通して帰ってきたが、やはりちょっとした長旅となってしまう。もう少し時間があれば今後は神奈川方面にも足を伸ばしたいと考えているが、その移動時間も考慮しなければならないようである。

【2020年のひとこと】
今では東京を訪れる時はもっぱら成田空港を利用しているが、羽田空港から京急に乗って最初に見える糀谷や大鳥居あたりの町の密集した風景は「東京に来たな」と感じさせるものだった。モノレールから見える東京湾岸の風景も悪くないが。
ほとんどの人は通り過ぎるだけだと思うが、羽田の町はぜひ一度は電車を降り立って歩いてみてもらいたいものである。ただ、あまり観光地らしくなってほしくないという気持ちもあるけど。

 

 

 

11.01.29 御徒町から豊洲まで(11.01.29撮影)

今日は自身のテリトリーの近くながら、これまで訪れなかった場所を歩いた。
浅草線を蔵前駅で降り、鳥越神社のあたりを歩く。このあたりは日本橋などと並んで、まさに元祖の下町と言っていいところで、歴史のありそうな職人の店などが続いている。更に歩くと御徒町駅に辿りつく。近くは古い高架下の飲食店街の他に、貴金属や宝石の卸問屋がひしめいている。有名なアメ横もすぐそばである。やはり今日も多くの人で賑わっている。

仲御徒町から日比谷線に乗って八丁堀まで。ここも銀座や京橋の後背に控える大変歴史の古い住宅街である。しばらく歩いて、明石町の聖路加ガーデンへ。ここは聖路加国際病院を中心に、47階建てのオフィス棟と住居棟が隅田川沿いに聳え立っている。対岸の佃島の高層マンションと伴って、美しいスカイラインを形成している。この頃では周囲にも高層マンションが増えてきているが、この好景観は崩さないでもらいたいものである。さらに隅田川沿いを歩いて勝鬨橋まで。最高気温7℃と肌寒いはずだが、完全防寒しているためか、珍しく寒さを感じず、しばらく川辺に座り込んでいた。午後からは曇り空になり、夜からは雪がちらつくといわれていたが、結局そうはならなかったようである。橋の袂にある「かちどき 橋の資料館」を見学する。その最大の特徴であった橋の開閉を行っていた機械室を利用したものである。ここでは橋の概要や電気機器などを見ることが出来る。

ここから銀座方面に行こうと思っていたが、気が変わったので、勝鬨橋を渡って勝どき・晴海方面へ。さらに歩いて豊洲へと向かったが、晴海と豊洲を隔てる運河の上に錆びきった鉄橋がある。この橋はかつて都港湾局の貨物専用線として用いられていたものだという。線路には草が伸びているが、当時の原型がしっかりと残っている。この鉄橋とセメント工場の他は高層ビルや、区画整理事業が進んでいるところで今では浮き立った存在となっている。さらに海沿いを歩くと、波止場のような所に辿りつく。ここは水上バスの発着場にもなっていて、お台場方面への遊覧もできるようだ。この波止場は大型ショッピングセンター「ららぽーと豊洲」の一部にもなっていて、周りは数多くの飲食店が連なり、多くの人で賑わっている。ここ豊洲は近年人口が増え続けているエリアで、家族連れや、やけに着飾った飼い犬が沢山歩いている。ジーンズを履いている犬やサングラスをかけた犬には驚いた。ショッピングセンターの一部は犬も歩けるようになっていて関連の店も多い。どうやらここには自分には全く縁が無いであろう新たな富裕層の様々な生活があるのだろうと、いくつもの高層住宅を眺めた。

それでも波止場から東京湾や高層ビルを望む風景が気に入ったので、ショッピングセンター内で時間をつぶしつつ、日没時までしばらく撮り歩いていた。ららぽーとの前にあるバス停から業平橋駅行きのバスに乗って、終点の一つ手前、本所吾妻橋駅まで。この系統を使うのも3度目くらいになるが、さすがにその複雑なルートも覚えてきた。空腹に耐えかねて、まだ少し明るいうちに帰ってきたが、当初の予定と異なり、最終的にはやはり水辺の風景に誘われてしまうようだ。

【2020年のひとこと】
当時は豊洲付近のウォーターフロント開発が大詰めで、タワーマンションが人気を集めていた時期であった。その後の震災による影響や、東京オリンピック延期の影響が現在進行形(2020年4月)で続いており、その発展に陰りが出たようにも見えるが、そんなことはどこ吹く風で、何があっても膨張し続ける東京都民の受け入れは止まることはないのだろう。

 

 

 

 

11.01.30 京成電車(11.01.30撮影)

今日は葛飾区内を中心に歩く。ここに暮らして1年以上になるが、まだまだ訪れていない場所がたくさんある。
立石駅まで出てその北側の曲がりくねった道を歩き続ける。立石駅より南側は割と碁盤の目状の街路となっているが、これは元の農地を区画整理した結果なのだろうか。国道6号水戸街道と京成本線の高架がぶつかるところに出る。今日はずっと京成線に沿って歩く事になりそうである。しばらく進むとお花茶屋駅に着く。周囲は白鳥とか宝町など聞き慣れない地名。ここは地形上では葛飾区の中央になる。周囲は相変らずの古びた街並みで、商店の集積などを見ると立石よりも活気があるようにも見える。隣の堀切菖蒲園も似たような感じで、どこか昔の地方都市の玄関駅のようでもある。

年数の経った建物が密集する中、あまり線形のよくない線路を、最新型のスカイライナーが走り抜ける姿は、不釣合いのようでもあるが、これが東京東部・京成線らしくていい。堀切菖蒲園から更に歩いて、荒川に架かる堀切橋へと。ここ一帯は東京で一番好きな場所と言っていいくらいの場所で、何度も訪れている。ここに昭和初期のこの場所の事を記した永井荷風の「断腸亭日乗」の日誌を見つけたので、適宜簡単な注釈をつけながら引用する。

昭和7年1月18日

 晴れて風寒し、午前執筆、午後中州病院に往き薬を請う。
乗合汽船にて吾妻橋に至り東武電車にて請地(うけじ:昭和20年に廃止)曳舟(ひきふね)玉ノ井(たまのい:現在の東向島)などという停車場を過ぎ堀切に下車す。
往年綾瀬の川口より菖蒲園に行きし時歩みし処なり。

 電車停留所は荒川放水路の土手下にあり、堀切橋という橋かゝりて行人絡続たるさま小松川の土手と相似たり。橋の欄干に昭和六年九月竣成と識したればこのあたりの交通開けたるは半歳前のことなり、
見渡すかぎり枯蘆の茫々と茂りたる間に白帆の一二片動きもやらず浮かべるを見る。両岸とも人家の屋根は高き堤防に遮られて見えず、暮霞蒼茫たるが中に電車の電柱工場の煙突の立てるのみ。

 堀切橋を渡れば放水路の堤防に沿ひて一筋の流あり。堀切小橋という橋かゝりて岸辺には釣りの船宿軒をつらねたり。思ふにこれは中川の流なるべし。
商店立つゞきたる新道路を行くに金町通ひの乗合自働車往復し、こゝにも京成電車の停留所(堀切菖蒲園か)あり。東は千葉成田に通じ西は千住より日暮里に至る由高札を立てたり、近き頃開通せしものなるべし。

(以下略)

この日記に登場する京成本線、青砥・日暮里間開業が、1931(昭和6)年12月19日というからまさに開通直後の当地の様子を記したものとなる。今では首都高のジャンクションが造られ周囲の風景は全く違うかもしれないが、枯れ蘆の続くさまや堀切橋を行き交う人々の姿、そして広々とした荒川の風景は変わらないのだろう。

堤防をしばらく歩いて今度は東武伊勢崎線の鉄橋へ。ここは複々線区間なので、2つの橋梁・4つの線路が敷かれている。少し離れたところには、つくばエクスプレス・常磐快速線・常磐緩行線(地下鉄千代田線)の鉄橋がそれぞれ架けられていて、なかなかの壮観である。ラッシュ時ともなればかなりの本数の電車が引っ切り無しに行き交うはずで、その轟音は相当なものになるのだろう。

程なく東京北東部のターミナル北千住駅へと辿りつく。ここも何度も訪れた場所となったが、散歩がてら自宅から歩いて来られる場所であることが分かった。しかし、帰宅後地図上で計測したところ北千住まで9キロほど歩いたことが分かる。最短で行けばずっと少なくなるだろうが、これくらいかかると分かれば気軽には歩かないかもしれない。北千住の繁華街は早々に抜けて国道4号奥州街道へ。道路看板を見ると日本橋まで8キロメートルとある。なるほど起点からちょうど2里で、江戸からここが最初の宿場町であったということが実感される。さらに進んで再び京成本線の千住大橋駅へ。先週訪れたばかりで、その由来なども少し書いた。ここは松尾芭蕉が「奥のほそ道」へ旅立った場所で、その事を記す記念碑などがあったが、川の向こうには「八紘一宇」と書かれた大きな石碑もあり、少し驚いた。

先週歩いたところを逆順に、隅田川を渡る京成電車を撮影しながら、町屋駅からようやく電車に乗り込む。最後に青砥駅で仕上げをしてから帰宅。結局京成電車の走る風景を中心に撮り集めたこととなった。鉄道写真の腕はまるで無いが、この魅力的な沿線風景は早速まとめてみたいところである。今日は実に12キロメートルほどの道のりをおよそ4時間かけて歩いたことになる。好きな場所ばかりだからあまり苦にもならないが、さすがに今夜はよく寝られそうである。

【2020年のひとこと】
やはり葛飾区、墨田区、足立区などの街並みのほうが生き生きと歩いているようだ。特に堀切ジャンクション付近の荒川は東京の中でも好きな風景の一つで、その後も何度か訪れている。そして、また時間を作って断腸亭日乗を読み返したいと思った。

 

 

 

 

11.02.05 千葉(11.02.05撮影)

どうにも疲れが溜まっていて、また空も雲が広がっていたので出かける気にならなかったが、家にいても仕方が無いので、とりあえずそういう時は電車に乗りに行くことにしている。

今日は京成電車で成田方面へ。津田沼で乗換えて千葉中央駅まで向かう。千葉中央とはいうが、現在の街の中心はその一つ前の千葉駅周辺で、歩いてすぐの場所に関わらず、こちらは若干寂しい街並みが広がっている。モノレールの高架が川の上を縫うように走っている。しばらく千葉駅周辺を撮り歩く。別に街並みがつまらないというわけではないが、いまいち気分が乗ってこない。それでも、栄町とよばれる街区だけは全くの異質な雰囲気を放っていて、しばらく歩き回ることに。ここは新宿にも劣らないような風俗店街で、この手の街に共通する古い建物が建ち並ぶ様子は面白い。昼のうちだけかもしれないが、歩いている人はほとんどおらず、派手な看板の間には客引きだけが立っているような状況である。街中にはハングル文字だけの看板や、韓国料理店・韓国食材スーパーや、朝鮮系の信用金庫まであって、この街の成立を容易に知ることができる。元はこの辺が千葉市の中心繁華街だったというが、終戦後に朝鮮人街として根付き、街の中心は戦災復興事業で新たに移転して現在の千葉駅周辺に移ったというわけである。

いま、栄町には千葉都市モノレールの駅があるが、非常に閑散としていて電車のダイヤも薄い。一日の利用者は300人弱といい、ローカル線の駅のような有様である。千葉駅に歩ける距離のためということもあろうが、だからこそこの廃れ具合は印象的であった。ここからモノレールに乗って郊外の千城台終点まで。千葉駅周辺からスタジアムの並ぶスポーツセンター、遊園地のある動物公園を過ぎると、あとはずっと住宅が広がっているだけのようなイメージである。地下鉄を建設するほどの規模でもないし、勾配やカーブも多い路線だったからモノレールが最適なのだろう。高い所から街を眺められるのはいい。

もう一方の終点である千葉みなと駅へ。総武線の他に東京と千葉を結ぶもう一つのルート京葉線と連絡している。ここから少し歩けば海が見えるが、日没を迎え、また少し寒くなってきたので早々に駅に戻ってきた。京葉線・武蔵野線と乗り継いで西船橋まで。そこから歩いて京成の西船まで。あとは東京方面に戻るだけである。どうにも疲れはとれないままである。もっとペースを上げて、街を撮り歩きたい事情もあるのだが、どうしたものだろう。

【2020年のひとこと】
さすがにこの日は疲れていたようだが、今読み返すとよくもまあ毎週末何キロも歩き回っていたのだろうと、我ながら感心してしまう。当時は平日もそれなりの長時間働いていて、決して楽ではなかったが、この強迫観念めいた週末の過ごし方はもう再現できないであろう。そして、もう経験することのできない東京(と近県)の街歩きは自分にとっての財産になるはずである。

 

 

 

11.02.06 山の手散歩(11.02.06撮影)

今日も終日曇り空で夜からは雨になるというから、あまり出かける気になれず、新作のプリントでもしたいところだったが、少し早めに起きて、午前中には出かけられそうだったので、また山の手方面で未踏のところを歩くことに。昨日の疲れもいくらか取れたようだ。平日も大したことをしていないというのに、この頃また疲れが溜まりやすくなるのは困ったものである。

正午過ぎに飯田橋に降り立つ。駅を出てすぐのところに神楽坂が伸びている。ここは昨年6月末に小雨の中少しだけ歩いた。路地には石畳が敷き詰められ、小洒落た料理店が並んでいて、花街の名残を感じることが出来る。適度なアップダウンが連続し、街並みに変化が出て心地よい。もっとも近年ではこの地も高層マンションが増えてきて、かつての風情は失われつつあるという。

坂を降りると早稲田の街に出る。大通り沿いには若干のオフィスや商店もあるが、多くは住宅地であり、早稲田通りという幅員の広い道路があるのにもかかわらず、閑静な様子が印象的である。早稲田大学の大隈講堂の脇を通って、都電荒川線早稲田終点へ。ここから更に神田川沿いに歩いて、次は目白方面へ。住宅街の中の細い道路だが、またアップダウンが続く。地名の由来となった目白不動などがある。また都電荒川線沿いに出て少し歩くと、雑司が谷霊園に出る。なかなか広大な墓地だが、歴史のある場所とあって、ジョン万次郎、夏目漱石、東条英機など、歴史的な著名人も多くここに眠っている。墓地ではガイドブックも配られていて、それを手に著名人の墓所を巡る人もある。その中に永井荷風の墓所もある。荷風の墓石の左側には永井家の墓、右側には荷風の父久一郎の墓があり、毎年正月に荷風が墓参りする様子が日記に残されている。もう一度訪れる事があるかは分からないが、荷風と正対できたような気がして感慨深かった。

雑司が谷霊園を出て少し歩くと、急に人通りが増えてきて、池袋駅南口に出た事を知る。なぜか「びっくりガード」と呼ばれているガードをくぐって西池袋へ。ターミナル駅のすぐそばのはずだが、再びこじんまりとした民家が続くようになる。これはこちらに来てから知ったことだが、新宿や渋谷などの都心でも少し歩けば、古くからの住宅地が続く様子を見ることができる。それにしても池袋はその度合いが強いような気がするが。しばらく山手線沿いに歩くと目白駅、更に歩いて高田馬場駅まで。再び飲食店がひしめく街になる。まだまだ歩いて、戸山公園で少し休む。さすがに少し疲れた。この頃になると雲も少し晴れてきたが、新宿新都心方面はまだ霞がかっていて、そこに沈もうとしている夕陽が印象的であった。

戸山公園の隣は大久保の街である。しばらくアパートや下宿屋が続いたあとは、最近すっかり有名になってしまった新大久保駅周辺のコリアタウンへ。昨日訪れた千葉市の栄町とは違って、こちらは多くの人で賑わっていて、行列のできる飲食店がいくつもある。店の看板はもちろんハングルが主体で、歩く人々の言語まで朝鮮語が多く聞かれ、かつてテレビで見たことのある、ソウルの明洞(ミョンドン)はこんな感じなのかなと考えながら歩く。今の賑わいは近年の韓国ブームによるものが大きいのだろうが、最近このような街が形成されたわけでは勿論無く、ここも隣の歌舞伎町と共に終戦後に成立したものであろう。歌舞伎町が彼らの仕事場だとずれば、この大久保は生活の場として発展したところなのかもしれない。数年後には更に純然にコリアタウン化が進み、外国のような様相になりそうである。ちなみに大久保には韓国系のほか中華系、他アジア系の住人が大変多い地区だという。

歌舞伎町に入り、再びあれこれ撮り始めるが、昨年細かく廻ったところだったので、ほどほどに留めておく。しかし、ここは何度訪れても撮りたくなる被写体に溢れている。それは更にその先の新宿駅東口界隈も同様。改めて森山大道氏「新宿」のエネルギーの大きさを感じる。夕暮れの雑踏が続く伊勢丹地下食品街を少し見回って、買物をして帰りは地下鉄新宿線を利用。

帰宅後、Googleマップでルートを辿ってみたところ、今日の歩行距離は14キロメートル弱となった。それではなかなかくたびれるわけで、真冬だというのにすっかり顔も焼けてしまった。これで山手線周辺の西側は大体歩いたことになり、残すは北側の駒込・巣鴨あたりとなる。

【2020年のひとこと】
この日も随分と歩いていたようだ。それにしても、ここまでではないのかもしれないが、東京にいる人達はよく歩く。札幌に戻ってきてから、特にここ2,3年はすっかり自家用車メインになって歩くことも少なくなってしまった。札幌の街もそれなりに面白くはあるけど、東京特にそれまで未踏だった場所は、この先はどうなっているのだろうかと後先考えずにどこまでも歩きたくなる。この日に訪れた雑司ヶ谷霊園に眠る永井荷風も同じような気持ちだったのかもしれない。

 

 

 

 

11.03.01 放水路の引力(11.02.26撮影)

事前に割と綿密にルートを決める方ではあるが、散歩をしていて当初と全く異なるルートとなることも珍しいことではない。この日の足跡の変遷は「川の引力」によるものと言えるかもしれない。

スタート地点は田端駅。普段なら全く用事のなさそうな町である。駅の北側には広大な操車場が広がり、その片隅に尾久駅があるような格好である。線路に沿ってずっと歩くと都電荒川線が合流して王子駅前へと至る。ここから少し南に逸れて、飛鳥山公園へ。江戸時代より桜の名所として知られ、山の手線内では珍しい少し小高い山である。多くの子供たちの賑わう中、都電6000形やD51が静態保存されている。

ここから更に線路沿いに歩いて十条の方向に進もうと思っていたが、その前に王子の繁華街を見る。更に先には首都高速のジャンクションもある。もっと歩いて石神井川沿いから高速道路の橋脚を見る。その向こうには隅田川に架かる見事なトラス橋があり、近くで撮ってみたいと思ったが、周囲の地形はなかなか入り組んでいて近づけず、やっと近づけたと思ったら、高さ2メートルはあろうと思われる、垂直な堤防(通称カミソリ堤防)に阻まれその姿を見ることは出来ない。そうしているうちに、当初の目標よりだいぶ北東に逸れた豊島五丁目団地付近に辿り着く。ここは隅田川が大きく湾曲して半島のようになっており、見応えのある高層住宅が多数建ち並んでいる。築年数は3,40年といったところだろうか。この付近の川沿いは近年再整備されたようで、容易に水面に近づくことが出来るが、何かのモニュメントのように数メートルだけさっきのカミソリ堤防が残されている。現在も保存されているベルリンの壁のようでもある。

この対岸は足立区の新田(しんでん)。隅田川と荒川に挟まれほとんど島のようになっている。こちらはこの数年中に整備された街のようで、真新しいマンションと、小学校の建設予定地がある。ここからバスでアクセスできるのは赤羽駅と北千住駅。周囲は荒川の河川敷が広がっていて、その広大な風景にどうも都内にいるような感じがしないが、アクセスとしてはなかなか悪くないかもしれない。

結局、その荒川河川敷へと辿り着く。多くの人たちが集まり、それぞれ散歩や凧揚げ、サッカーなどを楽しんでいる。荒川は、市街地を抜けた開放感を味わえる荒涼な景色、夕暮れ、首都高や鉄橋との対比など、常に惹かれ続けた場所であったが、この岩淵から葛西に至る放水路として開削された部分の河岸は、どちらか片側だけではあるが、その多くを歩いたことになる。残るは北千住の付近と小松川・船堀のあたりくらいだろうか。荒川と隅田川に挟まれた細長い半島には新都民ゴルフ場がある。更に進むと岩淵水門となり、ここから隅田川が始まることとなる。この周囲には昨年11月にも訪れている。このあたりでとても大きな太陽は傾き日没を迎える。いつも街を歩く上で、どこで日没を迎えるかは非常に重要である。

日が暮れた後は、商店街を抜け赤羽駅まで歩く。京浜東北線と埼京線が交わる東京北部のターミナルの一つで、大変多くの人が乗降している。ここでようやく電車に乗ったが、後で地図をなぞるとここまでおよそ14キロメートル歩いたことになるようだ。一駅だけ乗って十条駅へ。ここで友人と落ち合わせてある焼肉店へ。続いて板橋駅まで移動してもう一杯(数杯)。最後は新板橋駅から都営三田線・新宿線・浅草線と乗り継いで帰宅した。もう慣れたものだが、もっと泥酔していたらなかなか難しいルートだったかもしれない。

【2020年のひとこと】
前回の街歩きから20日ほど開いているが、その間は何をしていたのか覚えていない。この頃例年なら雪まつりの仕事などで札幌に戻っていることがあったが、この時は特にこういう記録もなし。引っ越しの準備もまだだったようにも思うけど、とにかく記憶はいい加減なものである。
北区を歩いたのは、今のところこの時一度だけとなってしまったが、赤羽あたりはまた歩いてみたいし、最近ではすっかり疎遠になってしまった当時の友人とまた十条や板橋で飲んでみたいものだ。

 

 

 

 

11.03.02 東京がひとつになる日(11.02.27撮影)

タイトルは東京マラソンのキャッチフレーズから。

昨日飲み過ぎたせいか、起きたのは11:00近く。この日は東京を見納めるのには相応しいであろう、東京マラソンの見物を早くから出かけようと思っていたのであるが。TV中継の街頭の雑踏ぶりに躊躇しながらも出かけてみることに。東京マラソンの日といえば天気が崩れるというイメージがあったが、この日は当初予報に反した晴天で、歩くと少し汗ばむ陽気である。ランナーにはなかなかきつかったに違いない。そういえば去年もマラソン見物に行こうと思っていたが、朝まで川崎で飲んでいて、冷たい雨が降り続いていたので、部屋でずっと寝ていたのであった。

スポーツというものには殆ど興味が無いが、この東京マラソンは非常に意義深いものだと思っている。この大会はオリンピック選手の選考大会の一つであると同時に(従来の東京国際マラソン)、大規模な市民マラソンとしてもすっかり定着している。大会を推進した都知事は当日の中継で、「銀座を走ってみたいという声を受けて検討した。でも、あんなに大勢で走って何が面白いのか分からない。誰も居ない海岸みたいなところで走った方が気持ちいいに決まっているのにね」と言っていたが、彼独特の照れ隠しのようなもので、都庁を出発して、皇居、日比谷、東京タワー、銀座、雷門、そして臨海部の有明までという、東京の魅力をまさに自分の身体で感じることができるようなコースは、東京への愛着が無ければ簡単にできるようなものではないだろう。毎年熾烈な抽選倍率となる参加者の多さもその証左のように思われる。これに日本橋・秋葉原あたりが加われば尚良いと思うが、繁華街でも六本木・赤坂あたりは起伏が大きくて不適だろう。ともかく、42.195キロ走るのは真っ平ごめんだが、街路と街歩きを好む人間としてはそれなりの意味を持つイベントだと思う。

まずは、浅草雷門へと向かう。かなりの雑踏だが、すでに大会も終盤に近づいていて、参加者もダラダラ歩く人が目立つといった状態。立錐の余地すらないというほどではない。大会の名物ともいえる仮装したランナーが目を引く。田原町から地下鉄に乗って、次は日本橋まで。高島屋とランナーという少し珍しい光景を収める。ここから京橋・銀座までずっと中央通がコースに指定されているため、通りの向こう側に行くのは地下鉄駅を利用しなければならず、行こうと思えばなかなか不便なようだ。銀座四丁目交差点付近となると、さすがに雑踏が多くなってくる。もっとも、日曜日はいつもこんな様子だし、歩行者天国も実施されていないので、当然といえば当然なのであるが。三愛ビルにあるリコーのギャラリーで写真を見ながら、交差点の光景を眺める。中央通を新橋方面に歩く。こちらはいつもの様子。むしろ、人通りが少ないくらいの印象がある。

訪れたのは新橋駅から歩いて10分ほどの場所にある浜離宮恩賜公園。海沿いに設けられた元は甲府藩の屋敷、後に将軍家の別邸や、宮内省の離宮となった庭園である。都心の喧騒を忘れさせるオアシス、という決まりきった文句がぴったりくるような環境で、見事な庭園と高層ビル群との対比がいい。特に一面の菜の花畑とのコントラストと、入江を利用した池がすばらしい。園内には多数の観光客が訪れてはいるものの、非常に静かで、寝転がればそのまま寝入ってしまいそうな陽気である。空も高くて都心にいることを本当に忘れさせる。ゆっくり海を眺めることもできるが、目の前に見えるのは倉庫と高層マンション。勝どき地区の埋め立てが行われる大正以前は広い海が見られたのかもしれない。水上バスも発着していて、空港からのアクセスもいいので、東京を訪れる時には是非訪れていただきたい場所である。こちらは未訪問のままだが、新宿御苑や代々木公園なども同様の印象を与えることだろう。

ここでこの日の撮影を終え、早めに帰宅しようと思っていたが、ある人から連絡があり新宿で食事をすることとなった。しかし、待ち合わせまで3時間ほどある。それまでどうしようか。とりあえず新宿方面に向かう事に。新橋から銀座線、赤坂見附からは丸の内線へ。これも毎度の事となったが、一瞬だけ地上に出る四ッ谷駅のホームに一度立ち寄る。更に進んで中野坂上駅で支線に乗換えて中野新橋駅へ。ここを訪れたのはおよそ1年ぶりだが、開業時の姿を残す独特の風情はそのままで、東京では貴重な存在であろう。

最終的に新高円寺駅で降りる。ここから1キロ少し歩くと中央線の高円寺駅。阿波踊りと若者の町として知られる庶民的な町で、隣の中野とも阿佐ヶ谷とも少し違う、山の手の中の下町のような独特の雰囲気である。夜もなお賑わう商店街をしばらく行き来して様々な用事を済ます。ようやく待ち合わせの時間に近づいたので中央線で新宿まで。その後は終電近くまで飲みながら色々な話を。これもいつものことかもしれないが、終電間際の新宿駅構内、中央・総武線の車内に寂しさを感じるのは何故だろうか。

【2020年のひとこと】
まだ石原慎太郎や東京オリンピックなどいくばくかの好感を持っていたころの記事。今はもちろんいずれにも微塵も持っていない。これまでの考え方も一変してしまったのが、この後に訪れる2011年3月の出来事だった。そしてこの時は東京をいよいよ離れるという実感が出てきたのか、やけに感傷的になっていたようだ。

 

 

 

11.03.06 葛飾土産(11.03.05撮影)

―菅野に移り住んでわたくしは早くも二度目の春に逢おうとしている。わたくしは今心待ちに梅の蕾の綻びるのを待っているのだ―

戦後すぐの市川市の情景や、過去への憧憬が綴られた永井荷風の随筆『葛飾土産』の冒頭の一文である。またこの随筆を部屋で読んでいると、この春先に是非とも市川を歩いてみたくなった。とはいえ、今の市川には当時の様子を残す田園風景は殆ど見られなくなっている。降り立ったのは京成八幡駅。時代を感じさせる特徴的な百貨店のビルや、さらに古い商店街は跡形も無く消え去り、2015年ごろには地上40階建てのビルに変わる予定である。むろん、荷風が晩年通い続けた「大黒屋」のある、住宅街の方面は何も変わっていない。ちょうど学校の引ける時間だったようで、狭い道路に一斉に自転車が押寄せる。それに加えて自動車も次々と道路に入り、撮影のしにくさは相変らずである。千葉県らしいそれなりの自動車社会にも関わらず、市川市内は決定的に道路事情が悪い。もちろん沿岸部などの大幹線は別ではあるが。

八幡駅から少し歩くと、その名の通り「葛飾八幡宮」がある。参道の途中を京成本線が横切る形となっている。ここは寛平年間(889~898年)ごろに建立された下総の総鎮守という。この日は宮参りなど多くの参拝者があり、昨今の流行でいうと「パワースポット」としても知られるらしい。また葛飾八幡宮はといえば、「八幡の藪知らず」としても有名だという。これは雑木林のようなところであるが古くから禁足の領域とされ、一度入ると二度と出る事はできないといわれている場所である。今では市街地の中に埋もれているが、それでも絶対に入ることはタブーとされているという。一度近くを訪れたいと思っていたが、この葛飾八幡宮の近くではなく、少し離れた千葉街道沿いにあったようで、残念ながら見つけることができなかった。

しばらく京成線沿いの住宅地を歩く。電車に乗っていると、急に低い家並みが続くようになり、どこかホッとするところである。「千葉の鎌倉」とも言われるだけあって、古くからの屋敷もいくらか残っている。江戸川から始まり、市川市内を経て東京湾まで至る真間川を京成電車が渡る。今では周囲をコンクリートで護岸されてしまっているが、両岸の桜並木が見事で季節となれば見物の人で賑わうという。「葛飾土産」内の真間川についての記述も興味深いものがあった。

鬼越駅を過ぎさらに歩くと中山駅へと至る。駅から坂を上がり大きな総門をくぐると法華経寺となる。ここは日蓮宗の総本山で寺院までには多くの土産物屋や飲食店、寺院の中には五重塔などのいくつもの伽藍・大仏がある。また、立正安国論などの真筆が納められている「聖教殿」という廟搭は、伊東忠太の設計で、その建築的特徴である異形の妖怪たちが随所に配されている。いつもは繁華街や川べりを歩くばかりだが、たまにはこういう社寺仏閣巡りも悪くないものである。私にもう少し信心があればもっと感動できるのかもしれないが。

中山駅から八幡駅に戻り、JR総武線本八幡駅周辺を少し見てまわり、軽く休憩して都営新宿線乗り場へ。ここから終点新宿まで新宿線を一気に乗り通す。急行だと29分なので総武線よりも早いかもしれない。ここで寝入ってしまったので気付けば早くも新宿手前である。少し新宿駅南口(ほとんど代々木駅といってもいい)を撮って廻って集合場所へ。その後は友人達と久しぶりに会って終電近くまで飲み歩き、そのうちの一人は私の自宅で泊まることに。

【2020年のひとこと】
その後、市川八幡は成田から東京へ向かう時に一度通っているはずだが、どんな街並みに変わったのかまだ確認できずにいる。駅前は一変したのかもしれないが、落ち着いた感じの住宅街はまた歩いてみたいもの。
この時は送別会をしてもらった。そんなに長くいたわけではないが、結局交友関係は札幌時代と何も変わらなかった。それはそれで幸せなことと今でも思ってはいるけど。

 

 

 

11.03.07 定番ルート(11.03.06撮影)

(前夜からのつづき)
11:00近くまでたっぷり寝て、しばらく部屋でだらだらした後は、立石駅まで出て周囲をウロウロ。それから仲見世の蕎麦屋で昼食。いつものことだが、日曜日の適度な賑わいは、いかにも「下町の休日」といった感じで心地よい。

再び駅北側の呑んべ横丁を撮り歩く。たまにふらっと訪れる場所ではあるが、写真を撮るのは久しぶりだ。ここで後輩某氏と別れ、別なところに行こうと思っていたが、相変らず天気もいいし、ずっと色々な街の話をしていたので、このまま連れ立って私の「定番コース」を案内することにした。彼もある一時期は亀有に住んでいて、葛飾区内を歩いたというし、今は東武伊勢崎線沿線に住んでいるので、場所によっては私よりも詳しいくらいである。

京成線を八広で降りる。荒川土手のそばの割と地味な駅から、商店街を抜けて東武線の鐘ヶ淵は割と近くである。主に東京の何ということのない街を歩くという、最近人気の旅バラエティ「モヤモヤさまぁ~ず」(街の選択・行動が私とよく似ていてもちろん大ファンである)の、パロディのようなことをしながら歩いていた。鐘ヶ淵から荒川土手、最後は北千住へと。これまで何度も歩いたルートだが、少し外れると今まで知らなかった商店街があることにも気付く。実は北千住駅周辺には住宅街の中にひっそりと続く商店街がいくつもあるようで、まだまだ開拓が足りないことを思い知らされるし、やはり都内で一番愛着のあるエリアということも変わらないだろう。

途中やたら目に付いたのは「永田せんじゅ」氏という政治家のポスター。店先やガレージの壁、政党掲示板などにこれでもかと貼られている。まさに千住で出馬するために生まれたような名前だと話していると、思いがけず本人とすれ違って少し驚く。どうやら街頭で遊説活動の最中だったようである。その名前にしか着目していないが、政権の行方はどうあれ「千住の代表」として頑張ってもらいたいものである。

北千住駅前で再び休憩にしてここで別れる。日も傾き始めていて、やたらと寂しさを覚える。昨日どこかでSDカードを失くしてしまったので、新しいものを買い求め(一時期よりは落ち着いたのだろうが、MBあたりの単価の下落は留まる事を知らない)、やはりいつものように北千住の歓楽街を撮り歩いて、東武線へ。曳舟駅のホームから見る線路と街とスカイツリーと夕陽が何とも切ない。最後は曳舟のSCで買物をして帰ってきた。いつも以上にあっという間に週末が過ぎてしまった。その寂しさも相変らずだが、終局に向かっている感じは悪いものではない。やはり哀しさと美しさはほとんど等価のように思われる。

【2020年のひとこと】
この日の街歩きは自分の中でこれまでで一番印象深いものになった。相変わらず東京を離れる日が近づいていて感傷的になっていたということもあるが、この数日後に東日本大震災があって、これまでのような気持ちで街歩きをするのが最後になったからだ。
東京の街には大きな変化はなかったはずなのに、あの日の前と後で、なんだか世界が全く違うものになったように見えた。もっともそれはおそらく自分のものの考え方が大きくかわったためかもしれない。大袈裟に言えば人生観が変わった日ということになるのかもしれない。そんな中で、いつもの場所をいつものように歩いたということがいつまでも印象に残っていくのだろうと思う。
そして2020年の春。あれから10年も経っていないのに、今度はパンデミックのために以前とはまた全く違う世界に変わりつつある。その変化は震災の頃よりも大きいものになるかもしれない。もしかすると数年間は満足に街歩きもできないかもしれないが(疫学的というよりも、社会の雰囲気として)、いつかのために記録だけはこうしてしぶとく残していきたいと思っている。