写真都市

Yasushi Ito Portfolio Page

2010 東京撮影記

各タイトルはブログ「写真都市」に掲載したものに撮影日を付した。
また本文については一部表現を整えている。

 

 

10.01.03 銚子・東京湾岸(10.01.01撮影)

2010年1月1日

目を覚ましたのは、日付を跨ぐ少し前。この後の行程のために、酒をいいだけ飲んで少し眠っておいた。僕を含めいずれも札幌出身のある3人で東京葛飾を出発したのは、1:30頃。街には初詣の人々が多く歩いていたが、道路は至って空いていて、京葉道路・東関東道などを経て、茨城県潮来に到達したのは3:00頃。このあたりから、犬吠埼の初日の出を見に行くであろう人々の姿が多く見られて、道路が少し混んでくる。初詣で多くの人を集める成田山や鹿島神宮も近い。

我々は犬吠埼へと向かう。ここは関東で一番早く日の出を迎えることが出来る。
総武線の銚子駅に着いたのは4:00頃。ここから犬吠埼までは銚子電鉄で向かうことに。ここで月食を確認する。次の発車は5:18。発車の直前に乗り場に向かったが、初日の出客で大変混雑していて、3両編成のオールドタイマーは、東急田園都市線や東京地下鉄東西線をしのぐようなすし詰め状態。結局積み残されてしまった。気温1度前後のホームで次の列車を待つことに。発車は6:02。少しずつ空が明け白んでくる。今度は乗ることが出来たが、これはいつもの通勤より数倍も厳しい。銚電は長いこと憧れの鉄道であったが、思わぬ初対面となった。

6:30頃犬吠埼に到着。日の出は6:45頃だという。ギリギリだったので大変な人出だったが、何とか海の見えるポイントに場所確保。望遠レンズをつけて一脚を立てて、初日の出を撮影。最初は雲がかかっていたが、程なくご来光。これまで地球岬・襟裳岬と初日の出を見に行ったが、一番綺麗な日の出ではなかっただろうか。何より雪も降らず寒くないのが素晴らしい。大変な人出だったので、落ち着くまでしばらく岬の周辺を散策。海は大変穏やかで美しい。今年もいい年になればいいのだが。

帰りの電車も乗り込むまで1時間ほどの行列。かつて地下鉄銀座線を走っていた車がやってきた。帰りは車窓をちょっと眺めることができた。電車撮影の人もかなりいた。今度は閑散なときにゆっくり訪れよう。途中駅でのタブレット交換にもちょっと感動した。

銚子の街を出るにもしばらく渋滞に巻き込まれてしまうので、僕の希望で市内にある「屏風ヶ浦」に寄ってもらうことに。屏風ヶ浦は名洗漁港から刑部岬というところまで10キロに渡る海岸で、地層がむき出しとなって岸壁となっている、景勝地として有名な場所だそうだ。丘の上には発電用の風車が回っている。長期間の地層の堆積と海食によってつくられた地形はグランドキャニオンのようでもあるが、やはり似た景観を持つイギリスにある海岸にちなんで「東洋のドーバー」とよばれるそうだ。

下総台地の山中を抜けて、千葉市方面へ。なかなかアップダウンのある道のりで、山を越えたかと思えば盆地のような所には、農村が広がっている。札幌郊外を思わせるような風景だ。成田空港の近くも走ったが、あんなに牧歌的な風景だったとはちょっと意外であった。途中多古町で小休止を取ったが、やはり山中の小さな町で、果たしてここに再び訪れることがあるのだろうかと少し考える。

再び高速道路・一般道を経て、市川PAで昼食。木更津に出て今度は東京湾アクアラインへ。海上に一直線に伸びる高架橋を突き進む。しばらく浅瀬が続いているようだ。東京湾の真ん中に浮かぶPA海ほたるへ入るにも少しだけ待たされるが、ここから眺める風景には格別のものがある。やってきた木更津方面には、長く伸びる高架橋とその向こうの工業地帯。沖にはたくさんの大型船が浮かんでいる。東京方面には高層ビル群が望まれる。そのビル群は千葉県方面にも延びているし、横浜方面を見ると、工業地帯やビルの向こうに富士山も大きく見えた。上空には羽田空港へ着陸しようとする航空機が、次々と飛んでいくのが見えた。強風の中、元日の日没をこの人工島で過ごす。ここで初日の出を迎えた人も少なくなかっただろう。

海ほたるから川崎方面へは9キロに及ぶ長大トンネルに入る。それにしても大変なものを造ったものである。川崎の工業地帯を抜けて横浜へ向かう。この辺も車で走る機会もなかなかないだろう。横浜駅・みなとみなと地区をウロウロしたあとに首都高速へ入る。横浜ベイブリッジから眺める港町の夜景が大変美しい。昇った月もこれまでに見たことの無い大きさで、都市の夜景に花を添えている。

それにしてもエキサイティングな道路である。急曲線に海底トンネルの急勾配、連続する右から左からの合流。油断をすると車線の間に立つ柱に驚かされる。複雑な分岐だって次々現れる。そんな中を100キロ超のスピードでどんどん追い越される。車窓には川崎の工業地帯や、お台場の臨海副都心の魅惑的な夜景が次々現れる。レインボーブリッジを渡ると、新橋・銀座などの市街地の上を走る。普段は見上げているだけの風景だ。渋滞している箇所は避けて、それでも元日なので交通量は少ないはずだが、やはり途中の分岐では詰まってしまった。ここでないと見ることの出来ない、めまぐるしく変わる沿線の風景や、複雑なるスピード感など、ここほど東京を「体感」できる場所は他に無いような気がする。ある意味その日のハイライトだったのではないだろか。

首都高速は再び湾岸に出て、荒川沿いを北上する。少し離れて見る東京の夜景も面白い。ここも普段ならこの下のレベルで見ているものだ。これで東京スカイツリーが完成したら、また新たな風景を収めることができるだろう。四つ木出口で首都高を降りてほどなく自宅へ。
なかなかハードな日程だった気もするが、運転者はもっとハードだっただろう。おかげで年初から充実した撮影を行うことが出来た。翌日の外出にも備え早めに休む。

 

【2018年のひとこと】
この当時の数年は、初日の出を見に行くことを趣味にしている友人に付き合って地球岬、襟裳岬に行っていたが、はじめての内地、そして今までで最も暖かい場所でのご来光。千葉県の内陸部、東京湾アクアライン、首都高速湾岸線などをドライブすることはおそらくもう無いのだろうなと思っているが、経験として先のことはとにかく分からないから早急に結論を出してはいけない。特に「海ほたる」へはまた行ってみたいと思っている。

 

 

10.01.04 千代田・関口・新宿(10.01.02撮影)

2010年1月2日
いつもと同じように午前9:00頃に部屋を出る。立石から京成に乗って押上まで、そこから半蔵門線に乗り換えて大手町まで。

向かったのは皇居である。今日は一般参賀の日。東京に来たからには絶対に行きたいと思っていた。この前の天皇誕生日は記帳だけで参賀には行けなかった。道すがら小旗を受け取る。皇居前広場に集合して、整列・保安検査などの手順はこの前と同じ。やはり外国の方が多いのと、あっち系とかこっち系の方々が多いのも一緒。でも今回の方が、老若男女様々だったように思うし、団体の人を中心に全国から集まったであろう絶対数は圧倒的に多かった。8万人の人々が集まったという。

二重橋を渡って皇居内へ。今回は宮殿前のベランダ前に集まる。やはりというべきか、天皇陛下が御立ちになるベランダ中央付近が一番混みあう。一番空いているというエリアに案内されたが、中盤から後列にかけての位置だったので、あまり前方の様子を伺うことはできない。ちょっと緊張した心持ちで、皇族の方々が参賀をお受けになるのを待つ。お出ましの際には歓声が沸きあがり、大量の小旗が頭上ではためく。天皇陛下のお言葉が始まって、ようやくお姿を拝見することができた。

「新しい年を共に祝うことをうれしく思います。本年が皆さんそれぞれにとり良い年となるよう願っています。年頭に当たり人々の幸せと世界の平安を祈ります」(東京新聞1月3日朝刊より引用)

とのお言葉をスピーカーから頂く。再び日の丸がはばたき、方々で万歳の声が響く中、皇族の方々は退出された。一瞬の出来事でお姿もあまり拝見することはできなかったのだが、日本人でよかったと心から思える時間だった。陛下は日本と世界の人々の幸せを祈られたが、私は国民の一人として、まずは陛下のご健康を願いつつ、さらに絆を深めて歩いて行きたいと思っている。

皇居を出ると、隣にある日比谷公園へ。ちょっと妙な猫がいた。公園の傍から霞ヶ関の官庁街にかけては、団体の参賀者を運んできたのであろうバスがたくさん止まっている。坂を上って国会議事堂へ。以前訪れた時は、オウム事件の裁判のあったときで、それでなくてもイラク戦争の初期の頃で、テロ対策で大変厳重な警備がされていたが、今日はほとんど警官もいない。また、見学の人などもなく、年始の永田町は大変静かなものであったが、逆に近くにある民主党本部の前は大変な警戒態勢であった。付近の道路は封鎖され、相当数の警官が配備されている。右翼の街宣車を警戒していたのだろうか。そんなのはお構い無しに、街宣車は軍歌をがなりたてながら、次々に皇居方面へ坂を下っていった。今の与党には、あまりにも皇室に敬意を払えない輩が一部いるので、何らかの天誅でも下ればいいとも思うが、日本国の品位を下げるだけなので、どこかに消えてほしいと個人的には思う。

さて、最高裁判所の建築を見学して、坂を下ると半蔵門。再びアップダウンを繰り返すと麹町に到達する。いかにも山の手といった風情である。ここから四谷方面に散歩してもよかったが、有楽町線の駅を見つけたので、あることを思い出して、江戸橋駅まで。駅からしばらく歩いて(話題の鳩山会館も最寄)、文京区のかなりハイソな雰囲気漂う坂を登るとその聖堂はある。

東京カテドラル聖マリア大聖堂。カトリック東京大司教区の教会という、いわば日本のカトリックの総本山としての性格を持つ場所であるが(この教会の信徒代表は麻生前首相らしい)、丹下健三の代表作のひとつとしても有名なものである。ステンレスで覆われた外壁には西日が反射している。素晴らしいものだとは聞いていたが、こんなに風格というか聖性を感じさせるものだとは思わなかった。露出に気をつけながらしばらく撮影。1月2日はひょっとして閉まっているじゃないかと思っていたが、見学者もちらほらいて少しだけ驚く。撮影が禁じられているのが残念だったが、その内装はさらにすばらしいものであった。コンクリート打ちの聖堂は、その建築の大きな特徴である、巨大な吹き抜けによって構成されている。照明といえば、その高い天井からの一灯を除けば、窓から差し込む光ばかりで、まさに聖なる空間が表現されている。結婚式の準備のために開放されていて、通常の様子ではなかったのかもしれないが、この薄暗い感じの方が絶対にすばらしい。今日一日でこんなに聖なる体験ばかりしてよいものか。本人の希望によって設計者丹下の葬儀もこの場所で行われたという。また、吉田茂元首相の葬儀が行われた場所としても知られている。しばし圧倒されて、すこしばかりの献金をして立ち去る。もし通常に案内されていたらポストカードなどもほしかったのだが。

というわけで、もう少し丹下建築を見たくなったので、ちょうど教会の前にやってきた都バスに乗って新宿駅西口へ。新宿副都心の高層ビル群の中心的存在である、東京都庁を見に行く。正直、後期の作品は派手すぎてそこまで好みではないのだが、そう言いつつもう5回目くらいの訪問だろうか。今回は新宿中央公園から眺める。西日を反映して、すっかりオレンジに染まっている。今日は展望台は公開されていないようで若干残念ではあったが、あまり気にせずにしばらくビル街を散歩する。基本的に下町の狭苦しい路地が好きだけど、このような高層ビル街も同じくらい好きである。どちらもあまり人に出会うことがないことに気付いたが、その辺が理由なのだろうか……。新宿の摩天楼の中では最も新しいビルにあるであろう、モード学院コクーンタワーは、丹下健三の子息の事務所の設計。最近では海外での仕事が中心のようだが、確かにあまり日本では見かけない意匠である。ここの地下にある新しい書店を、僕は気に入っていて、長いこと立ち読みなどをして、永井荷風の「日和下駄」の解説本を購入。最近ブームになっているらしいが、今度東京の街を歩く時は、大正時代の古地図も買わなきゃという気になってくる。

ヨドバシカメラ・東急ハンズで、色々物色して、中央・総武線でようやく帰路につく。その後も新小岩で買い物をしたから、帰りは結構遅い時間になってしまったし、疲れも出た。そんなわけで1月3日は、家でゆっくりしていたが、プリンタのインクが無いことが発覚し、またイヤホンも断線してしまったので、最後の休日はまた街に出ないといけないようだ。

 

【2018年のひとこと】
僕がまだ熱心な「愛国者」であった頃の駄文。大震災と転職をきっかけにして、今は天皇陛下を個人的に尊敬する他は、あらゆる体制を否定しようとするいびつなアナキストになってしまった。どちらにしても極端なだけなのだろう。そして社会人になってはじめてのまとまった正月休み、そして実家にも帰らず東京にいたので、ほとんど人のいない街をたっぷり満喫した。これももう出来ない経験であろう。

 

 

 

10.01.05 谷中・根津・千駄木(10.01.04撮影)

今日は何だかとてもだるい。休みすぎたせいだろう。それでも買わなきゃいけないものがあったので、13:00頃に部屋を出て、立石からいつもと反対の成田方面の隣駅青砥に出て、京成本線に乗り換えて終点上野まで。買い物を済ませたら、あんまり気は進まなかったが、そのまま帰るのも何なので、この近所を歩いてみることに。大体1ヶ月ぶりくらいの不忍池に出て今日は西の方へ歩く。地名としては、池之端・弥生・根津といったところを歩く。ちょうど下町と山の手の境界あたりの地域である。東京大学のキャンパスも近い。上野台地の坂道をいくつか上り下りして、谷中の町へ。ここは寺町で本当に多くの寺がずっと昔から立ち並んでいる。この近辺の坂道には全て名前がつけられているのが面白い。

坂を下りて、谷中銀座商店街へ。さっき歩いた根津とその隣にある千駄木の地域を合わせて、「谷根千」として下町風情を感じられる新たな観光地として脚光を浴びている(本来の定義だとこの辺は山の手にあたるが)。その商店街はその中心地として、多くの観光客で賑わっている。ちょっとディープな浅草といった感じか。確かにこの辺も戦前からの建物も多く、他の地域では見られないような、古い下宿屋や商店などはあるのであるが、よく歩く葛飾や墨田の街並みに比べると、ちょっとメジャーすぎるような感じもする。何より土産物屋などが並び、観光客がたくさん歩いているのが、どうも歩いていても気分が乗ってこない所以かもしれない。周りは普通の住宅街でそれなりに面白いのだけど(特に千駄木は純然たる住宅街)。

早々に日が暮れてしまったので、最寄の日暮里駅に向かう。日暮里駅には修悦体(警備員さんがガムテープが製作したもの)の看板が結構残っていた!この駅では駅前再開発や日暮里舎人ライナーの開業や、京成日暮里の改修など長いこと工事が行われているので、もうしばらくこの個性的なフォントを見続けることができそうだ。また京成で青砥に向かい、立石に戻ってまた買い物して帰ってきた。結局休みの間に画像の編集・プリントはほとんど進まなかった。
そして何で文京区に「札幌旅館」があるのだろう。

【2018年のひとこと】
観光地化されていて今ひとつハマらなかった「谷根千」。今はもっと観光地化されているのだろうけど、もっと丁寧に歩くとまた違った見方もあったのかもしれない。

 

 

 

10.01.18 立石・市川八幡・船橋(10.01.17撮影)

1月17日(日)
眠ったのが午前4時頃だったので、結局正午近くまで眠っていた。昨日と同様、配達人からの電話で起こされる。先日札幌に置き忘れていたiPodが届いた。これで安心して散歩に出かけることが出来る。食事にして、iPodのデータを移し変えたり、変換したり、ラジオを聴いていたりしたら、もう午後3時。今日こそはどこか撮影に行こうと思っていたが、日没まであまり時間がない。ということで比較的近場で前から行こうと思っていたところへ。もっともいつもあまり長い時間出歩くこともないのだが。

まずはもう一度京成立石駅の北口を歩くことに。「呑んべ横丁」の昼間の様子も見ておきたい。近くにある、かつて赤線があったといわれる小路に出ると、たくさんの猫がいる。全部で10匹前後集まっている。東京の猫にしては珍しく、逃げ去る様子も無いので(仔猫ばかりのためか)しばらく撮影していると、通りの向こうからおばあさんが通りかかってくる。時間になると餌を出す家があって、そのために集まっているのだという。ここに居る他にも相当数の猫がいるそうだ。他の通りの人たちも出てきて、しばし会話を交わす。通り全体で猫を飼っているようなもので、何とも下町らしくていいと思った。

再び呑んべ横丁を訪れる。昨夜とほとんど変わらない位、昼でも暗い飲食店群である。ちょっと勇気が要りそうだが、そのうちどこかで飲んでみたいものだ。立石から京成電車に乗る。高砂で乗り換えて、京成八幡で降りる。初めてこの私鉄会社のお膝元らしい光景を見たような気がする。京成百貨店というが、営業しているのは1階の京成ストアだけで、やはり周辺の再開発に伴って、この建物も近々姿を消すようである。さて、京成八幡駅があるのは、江戸川を越えて千葉県市川市に位置するが、この街は永井荷風が最後に過ごした街として知られている。他にも市川は幸田露伴や北原白秋など、文人が多く暮らした場所で「千葉の鎌倉」という異名もあるのだとか。一体どのような町だろう。駅北口には荷風が死の前日まで通ったという料理屋がある。オーダーは決まってカツ丼と新香と酒1合で、今では「荷風セット」として名物メニューとなっているようだ。店先には荷風の写真が飾られ、店の常連であった旨のキャプションがあった。

他にもこの辺は荷風にちなんだ町づくりがされている。「荷風ノ散歩道」というイラスト入りの旗が電柱などにしばらく続いている。荷風たちが暮らした葛飾の田園風景は、ほとんど消え失せていて、現在の「荷風ノ散歩道」は自動車が数多く通り抜け危険を感じる、ただの狭い道路となっている。泉下の荷風はこの光景をどう見るか。それでも閑静な住宅街の中には、荷風の頃にもあったであろう古い商店や、やはり毎日通ったという銭湯がある。

開かずの踏切を少し待って、今度はJR総武線のある南側へ。京成の駅とは繁華街で結ばれている。JRの駅はどこも同じような雰囲気に感じるが、やはり八幡も駅前に飲食店やら風俗店やらが数多く並んで活気のあるものであった。しばらく撮影して歩いて、京成の駅まで戻ったが、まだ午後5時過ぎでそのまま帰るには少し物足りない気がする。さらに成田方面に進んで、付近の最大の繁華街である船橋に行ってみることにした。あとで調べると、県西部どころか、県都を差し置いて県内で一番賑やかな街であるようだ。船橋は京成・JR・東武各線の駅が集まっている。そこには無関係であるはずの西武百貨店の、割と大規模なものがあって、そこのLOFTで買い物をした。駅の周辺は賑やかな繁華街である。もともとは近くの習志野の陸軍で栄えた街であるという。それにしても、飲食店街の間に突然風俗店が現れるのはいかがなものだろう。しばらく色々な路地を撮り歩いて、再び京成で立石まで戻ってきた。

住宅街ばかりではほとんど面白いこともなく、また古びた下町を歩くばかりでは、そのうちに刺激も薄れてきてしまう。やっぱりこういう悪所も歩かないと、どうしても調子が出てこない。一眼レフを下げてこういうところ歩くのは、それなりに気を使うことも多いが……。次は、まだまだ手薄の中央区内を歩くか、新橋・品川あたりの海沿いも気になるし、深川あたりも行ってみたいし、もしくはちょっと足を伸ばして三多摩への散歩もしてみたいところである。しかし、結局写真の出力の方はほとんど進んでおらず、どうしようかとも思っている。

【2018年のひとこと】
はじめて市川・船橋を歩いたときのこと。地方都市に育った人間としては東京都心よりもしっくりする部分があって、もし首都圏に長く住むことになったらこのエリアに住むことになるだろうと想像したことがある。そしてこの時も熱心に荷風の足跡を辿っていた。

 

 

 

10.01.24 四つ木・深川・砂町(10.01.23撮影)

また東京の街を歩きたいと思った。どれだけここにいるかは分からないが、できるだけいろんな街並みを見にいきたいところである。そういいつつも、目覚めたのは11時。平日は恒常的に寝不足とはいえ、午前中から歩こうと思っていたのに大きな誤算である。ちょっと前までは早くても起きられたのだが。何だかんだで、出発したのは13時半過ぎ。まずは近くも押さえておきたいと思い、京成電鉄の四ツ木駅方面へ。いつも利用している立石駅の一つ前の駅であるが、自宅からは直線距離ではほぼ等距離で、周りにはやはり古びた商店街が続いている。結局この辺でもかなり時間を食う。葛飾区が東京市に編入されたのは昭和7年で、今でもどちらかといえば、千葉県の勢力圏のような印象も受けるが(元々葛飾とは下総国の広い地域を指す地名であった)、案外「東京の下町」的な風情を感じることが出来るのは、もうこの辺りしかないのかもしれない。そんなことを考えながら、京急の車両で荒川を越えて、「東京」の領域へ。「下町」というと、本来はもっと狭いものらしく、現在の日本橋各町や深川あたりがそれにあたるらしいが、今回訪れようとするのはまさにその辺り。

地下鉄を人形町で降りる。いつもはここから勤務先に向かっているが、今日は反対方向、隅田川の川岸に向かって歩くことに。水天宮・清洲橋方面に進もうと思っていたが、方向を誤ったらしく、いつの間にか両国橋の袂に突き当たる。これはこれで、散歩の醍醐味かもしれない。例によって隅田川沿いを下流に向かってしばらく歩く。磯に由来するものなのか、それともただのドブなのか、いつもの独特の匂いの中、テラスをしばらく進む。新大橋を撮っている間に、水上バスを中心に5,6隻の船の往来があった。なかなかの頻度に見えるが、水運が盛んであった頃はさらに交通量も多かったのだろうか。川の上には首都高速のジャンクションがあって、なかなかの好景観。

新大橋を渡って、江東区の領域へ。大雑把にいうと深川の町に入ったことになる。深川は江戸時代からの下町の中心地とも言えるところで、河岸らしく物流などで栄えたようである。今でも、倉庫や運輸会社などが多いように見える。また、松尾芭蕉のゆかりの地など歴史のあるところだが、空襲で徹底的に焼き尽くされ、また都心にも近く開発が進んだためか、あまり古い町の印象は受けない。それでも、この地域を縦横に通る掘割に架かる鉄橋や、清澄庭園には歴史を感じることが出来る。しばらく歩いて東西線の門前仲町駅前へ。この辺にはかつては花街などがあったようだが、今ではその面影は無くて、高層マンションが立ち並んでいる。

駅から海沿いに歩いて、地下鉄の車両基地や、JRの貨物線なんかを見ているうちに、日が暮れてきたので、通りがかったバスに乗ることに。ものすごい乗客数である。いつもの通勤より窮屈だ。何台か連なっているようで、乗るだけでも一苦労。その路線沿いには夢の島公園などがあるが、そこの利用者だろうか。それとも何かイベントでもあったのだろうか。バスを終点の錦糸町駅まで乗りとおす。ここは東京東部最大の歓楽街といえるところだが、特に用も無かったので、京成電車で帰るために押上まで歩くことにした。一本道で2キロメートルくらい。やはり押上には新タワー見学の人が数人いた。現在の高さは274メートルで、全体の半分までもう少しといったところ。ここから電車に乗っていつもの通りに帰宅する。ここで出かけてから初めて席に着く。今日はそんなに歩いていないが、やはり少し疲れた。本来だと江東区をもう少し歩くつもりだったが、明日はどうするかな。

縦横に走る水路の様子や、亀戸辺りの町など色々見たいところはあるのだが、写真的な収穫はあまり無く、また他に片付けたいこともあって考えどころである。

【2018年のひとこと】
本当に色々よく歩いている。そしてブログの更新時間を見ると朝の3時、4時というのはざらで、休日に全力投球していたのだなと改めて思った。もちろん今よりは用事も責任も少ないし、気ままな一人暮らしで好き勝手にできた面もあるけど、これくらいの貪欲さは今も必要かなと思う。

 

 

 

10.01.30 東日本橋~立石(10.01.30撮影)

いつもの休みのように、昼近くに起きる。そういえば、こっちにきてから、休みに天気が崩れたことが無いな。東京に大学の後輩たちが、成田へのトランジットのために来ていて、食事をしようかというので、都心まで出ることに。

その前に、東日本橋に行って、アラーキーの写真展「少女世界」を見る。数ある氏の写真集の中でも、児童ポルノ云々の事情で絶版になっているものから、数点展示されているものである。「そういう方面」の展示ではもちろんないが、オリジナルプリントによるポートレートは大変美しかった。この周囲はオフィスや衣料問屋が続く街並みだが、近年はギャラリーなどが増え始めているらしい。

合流場所は秋葉原となった。土曜とあって大変な人ごみ。いろんな店など覗いてから、銀座線で浅草まで。浅草寺もそれなりの人出なのだが、休日にしてはそれほどでもなかったような気がする。猿回しや吾妻橋などを見て、フラフラ歩いていると(浅草で食事だったような気が…)、いつの間にやら押上の東京スカイツリーの建設現場へ。見学人が結構居てみな写真を撮っている。もちろん我々も夕暮れをバックに空に延び行くタワーを撮影。現在の高さは281メートルで、先週来た時より7メートル伸びている。なかなかのペースだと思うが、それでもまだ全体の半分にも達していない。

押上から京成線に乗って立石まで。その手前、荒川を越える辺りで、ちょうど日没を迎え、大変美しかったので、急遽四つ木まで引き返して荒川土手に出る。太陽が沈み行くのは思いのほか早く、木根川橋を走って渡っても間に合わないほどである。一旦自宅に戻って、すっかり暗くなった頃立石駅付近の居酒屋へ。ここでようやく食事に。思えば、随分と遅い食事になった。

今朝起きてからほとんど何も食べていなかったし、随分と歩いた一日で、なかなか疲れてしまったが、そういえば、仲間と東京の街を撮り歩いたのは初めてで、大変愉しい時間であった。

【2018年のひとこと】
こうして時々友人と撮り歩くこともあったが、思えば当時の交友関係は大学関係のものばかりで東京で新しい友人というのはほとんどできなかった。

 

 

10.02.07 恵比寿・芝浦(10.02.06撮影)

また、何も予定の無い土日に戻ったので、ゆっくりと昼まで過ごし、立石駅前で昼食にして、地下鉄を乗り継いで恵比寿まで。金券ショップに立ち寄ってから、いつもの通りガーデンプレイスへ。東京都写真美術館で木村伊兵衛とブレッソンの写真展を見る。年末に見ようと思っていたが、何となく先延ばしにしてしまっていて、もう会期最後となってしまった。2人は日本とフランスにおいて、スナップフォト、近代写真そのものにおいて、かなり重要な作家で、その代表作などが、質感のあるモノクロプリントで鑑賞することができる。会期ももう終わりとあってか、なかなかの混雑振りで、1枚ずつ写真を眺めるためには、いちいち列に並ばなくてはならない。会場の冒頭部は動線がばらけないからどうしても詰まってしまうが、最後の部分はコンタクトシート(撮影したフィルム1本を丸ごとインデックスにしたもの)の展示だったために、そこも結構詰まっていた。まぁ、単純に1枚の印画紙に36コマ前後あるわけだから…。

大変美しいコンタクトだったけど、コンタクトというのは、その撮影者の意図や技法など全て分かってしまう、ある意味で人に見せるにはちょっと勇気のいるものである。かつては結構マメにコンタクトを取っていたが、デジタルになってからは、そういう概念自体を忘れてしまっている。同時に撮影枚数も著しく上昇した。以前だと1回の撮影で多くてもフィルム4本=144枚程度であったが、現在だと2,300枚に達することも少なくなくなってしまった。デジタルカメラだとフィルムのように残り枚数を気にすることなく、そしてずっと経済的にシャッターを切り続けることができ、露出や構図を変えて何パターンもということができるようになったが、それで質が上がったかと言われれば、それはまた別の問題である。厳選してシャッターを切っていた昔の方が、実は質は良かったのかもしれない。とにかく、とてもいい写真展だった。どうしてもモノクロ写真を焼きたくなる。

続いて鑑賞したのは、「出発ー6人のアーティストによる旅」
尾中浩二・百瀬俊哉・石川直樹・百々武・さわひらき・内藤さゆり、
の6人の新進作家による展示である。こちらも大変面白かった。とりわけ尾中氏の写真は昔から好きで、その影響を最近になって受けているのだが、オリジナルプリントの形で見たのは初めてであった。思えば、新進の作家(もっと若い世代でもいるようにも思うが)の作品を見る機会は、これまであまりなく、ましてやアマチュアの作品も、こちらにきてから見なくなってしまっていて、この頃の自分の写真は、どうも客観性というか、共時性などからも離れてしまったような気がしている。といいつつ、そこまで深い理由も無く、散漫に撮り続けているのと、出力もあまり行っておらず、発表も中途半端にしかしていないためでもあるが、とにかく、この展示を見て大変刺激となった。

そういうわけで、街に出て写真を撮りたくなってきたが、例によってこの恵比寿周辺のことは良く分からず、山手線に乗って、やはり東京の東側へ。もう日が暮れかけている頃だから、海でも見たいと思い、田町駅で降りる。やけに空腹であったので駅前で腹ごしらえをして海岸へ歩く。それにしても、今日は大変風が強い。店先の看板はバタバタ倒れ、ビニール製の買い物袋は、遥か高くまで舞い上がっている。 先週東京では雪が降り続いたが、体感的には今日のほうがずっと寒かった。潮風のためかビル風のためなのかはよく分からないが、田町の駅の周辺は、建設中のものを含め高層マンションが数多くある。以前はこの辺りで部屋を探していたので、実際に街を歩いて見たかったというのもある。運河を渡って、モノレールや高速道路の高架をくぐると、レインボーブリッジのたもとに突き当たる。周囲は港と倉庫などが広がっている。ここからエレベータで上昇し、レインボーブリッジの一般道部分に出られるらしい。夕暮れを見るにはちょうど良いと思い、エレベータに乗り込む。何もこんな風の強く寒い日にレインボーブリッジに登る必要も無いかもしれないが、展望台部分から見るお台場や東京港の様子は壮観である。このまま橋を渡って歩けば、お台場にも辿り着くことができるが、結構な道のりだろう 一度地上に降りて、今度は北側の展望台へ再びエレベーターで昇る。都心の高層ビル群が見える方角である。

この辺で日没となる。他に見学する人も少なく。ここは結構穴場かもしれない。アクセスが面倒というのはあるが、今度はお台場側の展望台にも登ってみたい。少しだけ三田の街などを見て、再び山手線に乗って、いつものように秋葉原へ。インクジェット用紙と写真ファイルを買い求める。そろそろちゃんとポートフォリオをまとめなければと思っているが、作業に着手できるのはいつになるだろうか…。秋葉原から総武線で浅草橋まで1駅だけ乗って、あとはいつものように浅草線・京成線で帰宅。

本当に凍えそうな一日だった。札幌なら列車も止まるかもしれない地吹雪のようになっていることだろう。それまで酷寒の中で過ごしてきたというのに、順応というのは恐ろしいもので、この頃、東京の冬もそれなりに寒いのではないかと思うようになってきた。

【2018年のひとこと】
東京の冬は寒い。住宅の断熱や暖房装置が良くないのか、海風が強いのか札幌にいる頃とあまり変わらない服装でも札幌と同じような寒さを感じていた。気温は10度以上も違うというのに。写真に関してはこの当時と同じようなことを今も考えている。

 

 

 

10.02.14 地下鉄に乗って(10.02.13撮影)

また、インクが無くなってしまった。買いに行かなければ。とにかくコストパフォーマンスが悪い。しかしながら、今日の東京も雨。できれば天気の悪い日は出かけたくないのだが、仕方が無い。連日、錦糸町・秋葉原とヨドバシめぐりをしているので、今日は上野のお店にいってみよう。折角なので近くの撮影でも。

まずは地下鉄を浅草で乗り換える。その前に少し街でも見ようと思ったが、雨なので地上での撮影はそこそこに、前から気になっていた東武浅草駅の地下にある商店街を歩く。ここも昭和の雰囲気を色濃く残すエリア。何故か中国式マッサージや占いの店が多く、香港の街でも歩いているみたいだ(行ったことは無いけれど)。同じように、昭和2年開業時の姿を残しているであろう、銀座線ホームの各所も撮り歩く。

そうだ、折角なので銀座線の各駅でも撮ってみようか。浅草の次田原町で、リベット(鉄鋲)打ちの柱などを見てから、予定通り上野での買い物を済ませ、再び渋谷行きの電車に乗る。次の降りたのは隣駅末広町。最寄りの秋葉原電気街らしい壁画がある。神田はパスして次に降りたのは三越前駅。ここはその上にある三越百貨店の提供で建設された経緯を持つ駅であり、駅名票などは他とは違うものとなっている。次は日本橋。およそ3分おきに電車が来るから、結構テンポよく撮影できる。そんな感じで、銀座・虎ノ門・赤坂見附のホームを見て、終点渋谷に着く。しかし、本当にいろんなところに戦前からの重畳的な風景があるものだ。地下鉄は数ある鉄道の中で、非常に好きなジャンルであるが、この銀座線は別格である。小説や映画のようにいつの間にかタイムスリップしているんじゃないかという想像をすることもできる。

改札を出て、東急東横線の頭端式ホームなどを眺める。副都心線との相互乗り入れに伴い、数年中にこのホームは撤去されて、地下にもぐることとなる。その際には、銀座線のホームも大規模に改築されるそうで、その前にもう一度じっくり見に来ないといけない。帰りは表参道で半蔵門線に乗り換えて(同一ホームで乗換え可能)、一眠りしていると終点押上に電車は近づいている(そのまま東武線に乗り入れているので寝過ごすとだいぶ遠くまで連れて行かれてしまう)。ここでいつもの京成線に乗換えて、帰路に着く。

ふと思い立って、地下鉄を乗り回すとは僕にとって大変な楽しみである。暗いトンネルの中を走るだけで、外の景色を見ることはできないが、そういう都市の中の異空間に身をおくのも楽しいし、今どの辺を走っているのか想像するのもいい。次は、丸の内線でも乗りつぶしてこようかな。そう考えると雨の休日も悪くない。

【2018年のひとこと】
雨の日には地下鉄に乗る楽しみがある(今思うと雨の街も撮っておくべきだったかもしれない)。最近はすっかり引きこもり傾向で天気が良くても部屋であれこれ作業していることが多くなってしまった。当時から進行していた渋谷駅の大規模な再開発。2012年には東横線渋谷駅の地上ホームが撤去され、2017年現在は銀座線ホームの移設作業が進められている。この後訪れる度に姿を変える渋谷駅だが、まだ10年近く再開発が続けられるという。

 

 

 

10.02.27 ダイジェスト0220~0221(10.02.20~21撮影)

私を含めあるコアな3人が東京に集まったので、この土日は色々撮影して歩くことにした(2日目は2人だけとなったが)。自分のEOS 7Dが一番格下というのも、なかなか無いだろうなぁ…。まずは品川からスタート。特にプランもなく、何となく横浜は石川町に降り立ち、元町を歩いて中華街で遅い昼食。その後は、港に出て氷川丸見学と、我々としては少し珍しい観光モード。これでみなとみらいでも見てくれば完璧だったかな。でも、氷川丸のアールデコ調の室内や、機関室のメカニズムの美しさはとてもよかった。もちろん、夕暮れ迫る横浜港の様子もカメラおさめる。近くのみなとみらい線・東横線に乗って、渋谷に向かうも、あるものを見に行こうと、大井町線・田園都市線の東急各線を乗り継いで、もう一つの渋谷駅へ。この光景(副都心線渋谷駅の仮ホーム)もあと2年くらいしか見られない。この地点に東横線が乗り入れるためである。他にも安藤忠雄設計のこの駅は、当然建築的に優れたところがあって、またじっくり見たいものである。ここからとある事情により、副都心線・千代田線と乗り換えて北千住まで。そこから東武線に乗って押上まで。あとは京成線に乗って立石着。ここで食事にしてこの日は終了。

遅くまで寝過ごしてしまった2日目は、ある意味「王道パターン」。まずは近くの荒川をいつものように歩いて撮影。川を渡って京成線八広駅から押上まで。そこからは昨日とは反対に北千住まで戻り、日比谷線で南千住。この近くでやはり遅い昼食にして再び撮影開始。白髭橋で隅田川を渡ると、この前ご紹介した例の団地(都営白髭東アパート)。今回もじっくりこの団地を撮り歩いた。やはり王道の向島の旧市街を歩いて東武の曳舟駅へ(日が暮れなければ京島にも足を伸ばしたかったところだが)。ここから東武線に乗って終点浅草に。急カーブ上にあるため非常に狭く、容易にホームから転落してしまいそうな、浅草駅をしばし見学。味のある地下街を歩いて、銀座線に乗って次は秋葉原。毎度お馴染みの家電量販店で三脚を購入し、万世橋の有名店で夕食、最後の撮影地へ。

美しくライトアップされた聖橋。橋梁の中で次に重要文化財に指定されるとしたら、ここになると私は思うが、どうだろう?あまりにもお決まりの構図だが、なかなかうまくいかない……。さすがにこの辺になると少し肌寒くなってくる。御茶ノ水から中央線(快速線に乗ってしまった!)で、神田経由で日暮里まで。もう一つどこか電車に乗ってみたいと思い、帰りはここからいつもの浅草線経由ではなく、京成本線を利用して自宅着。分かりづらいことこの上ない、行動記録であるが、一体この2日間の交通費はどれくらいになるかな…。

これほど「濃い」スポットを回ったのもなかなか無いが、道中の会話内容はずっと濃厚で、いつものように結論の出ないようなものばかりであった。

【2018年のひとこと】
読み返すと地名の列挙で何がなんだか分からないけど、大学時代の友人に当時気に入っていた場所をご案内。当時僕が住んでいた立石の部屋は6畳ワンルームで3人で泊まるとかなり狭かったと思うけど、羽田空港と成田空港の中間地点あたり、どちらにも電車1本で行けるので、それなりに便利だったのではないかと思う。この頃から事情が少しずつ変わりはじめていて、これからこうして連れ立って東京を歩くことはまたあるのかなとも思っている。

 

 

 

10.03.07 地下鉄に乗って2(10.03.06撮影)

昨日土曜日のことだが、(いつものごとく)取り立てて予定がなかったので、また街に撮り歩きに出かけようと思っていた。しかしながら、東京はその週末からずっと雨。この日も降ったり止んだりの天気である。そこで、2月14日の日記にも書いたとおり、また地下鉄に乗りに行くことにした。

今度は丸の内線。池袋から東京駅に向かい、新宿に至り、杉並は荻窪まで逆C字型に結ぶ、昭和29年開業の東京で2番目に古い路線である。赤い電車で馴染み深いものかと思う。まずは京成線で押上駅まで向かう。ここで一日乗車券(710円)を購入して、半蔵門線・東急田園都市線直通中央林間行きへ。都心大手町駅まで15分ほど。ここから丸の内線池袋行きに乗り換える。ホームには昨年3月より転落防止のためのホームゲートが設置されている。このせいで電車も良く見えず、写真を撮るには向かないだろうが、僕は案外嫌いではない。ゲートのデザインが車両と一体で違和感が無いためか。これを入れて撮るのもなかなか画になる。見通しはきかないが、線路に近寄れるというのもいいかもしれない。

淡路町を過ぎると、次の御茶ノ水の手前で、少しの間だけ地上に出る。これは神田川を橋梁で越えるためで、先日も訪れたが聖橋から、中央線・総武線などと並ぶ有名なショットが見られるところである。本郷三丁目・後楽園を過ぎるとまた地上区間に出る。地下鉄の車両基地も近くにある茗荷谷で降りる。駅は掘割の中にあって住宅が近くまで迫っている。集電方式が架線ではなくて第三軌条方式だから、空がすっきりしていていい。もちろん実物を見たことも無いが、ニューヨークやシカゴのサブウェイや郊外電車のようでもある。もっとも、丸の内線はあの昔の車両のデザインからすると、どちらかといえばヨーロッパ風味かもしれない。

一度、隣の新大塚まで行って、ホームの丸の内線らしい壁の装飾を撮ってから、また茗荷谷に戻って、今度は駅の付近も少し撮り歩く。雨の中ひとり傘もささず、山の手の坂を降りたり登ったり。近くには地下鉄を背景に撮れる趣のある坂があるのだが、いい桜の木もあるようなので、またその季節に訪れることとしよう。その時は晴天であることを願いつつ。しかし、もう今月中には桜の季節ということで、やっぱりまだ内地の季節感覚にピンと来ないことがある。それにしても山の手もいいものである。文京区ということで住環境も良さそうだが、案外安い物件もある。自分は完全に「東側」的人間だと思っているが、この辺に住むのもいいかもしれない。丸の内線で通勤というのも楽しそうだ。いずれにせよ、これまで下町ばかりで山の手を撮ることが決定的に少なかったら、この辺もこれから撮りにくることとなるだろう。

終点池袋まで出て、少し周りを撮ってみようかとも思ったが、雨の中この雑踏に身を置く気もしなかったので、再び改札を通って今度は新線である副都心線へ。現代的な駅舎を見るのも面白い。新宿三丁目で再び丸の内線の荻窪方向へ。終点に至り、また雨の街を歩いてみる。中央線の駅と連絡していて、JR沿線らしい繁華な街並みが広がっている。駅前に数件ある古書店に入り、何故か広重の「江戸百景」複製品が気になったので買い求める。新聞購読の景品として頒布されたもので、そういえば実家にも昔あったような気がする。昭和51年から54年まで頒布されたもので、添えられた解説文も既に歴史的価値のありそうなものとなっている。セットに収録されていたのはB4サイズ71枚でプラス入っていた紙袋と解説文。結構な重量である。

重くなった鞄を背負って再びメトロへ。南阿佐ヶ谷・新高円寺を過ぎて、東高円寺で昔風のタイルの壁面を撮り納める。銀座線と違って丸の内線のホームはほとんどが改修されてしまっているので、そういう意味での楽しみは少ない。中野坂上で降りて、すぐ隣のホームで待っている方南町支線専用の電車に乗り換える。途中、中野新橋・中野富士見町を過ぎて終点方南町とごく短い路線である。方南町駅の上は昔ながらのアーケード街となっていて、荻窪駅とは違って何とも地下鉄的な風景、いや路面電車的なものに近いものとなっている。おそらく丸の内線開業時はこんな街並みばかりだったのだろう。次は中野新橋で降りる。ここはホームゲート以外は昭和37年の開業時から、手が加えられていないのではないかというホーム・駅舎である。この駅は面白かった。

こう色々廻っていると、何だか地下鉄に乗っているうちにタイムスリップしているんじゃないかという気になってくる。今は手元に無いが、久々に浅田次郎の「地下鉄(メトロ)に乗って」を読みたくなってきた。これは地下鉄に乗って様々な時代を行き来して、父子の関係を描いたものである。主な舞台である地下鉄の描写も細かくて、今日廻った丸の内線の駅も重要なシーンで多数登場する。さっそくこの本を買いに行こう。中野新橋から乗って隣の中野坂上で本線に乗換え、四谷・銀座などを過ぎて東京まで。この数年ですっかり新しくなってしまったという丸の内口にある大型書店へ。長い時間色々立ち読みして(実際買って読むよりも立ち読みの方が面白いのはどうしてだろう)、目的の本とアラーキーのエッセイ集を買い求めて、再び丸の内線で大手町に戻る。これで丸の内線は全線乗り切った。

さっそく本を開いて「地下鉄(メトロ)に乗って」の冒頭のシーンと同じ、半蔵門線で押上まで戻る。あとはいつものように買い物をして、食事の準備をして晩酌しつつ、小説を一気に読了する。やはり、地下鉄には他の交通機関とは明確に区別される魅力があるように感じた。暗闇から差し込むヘッドライト、トンネルに響く轟音、それからあの生暖かい風と独特の匂い。感覚に訴えるものがこの大都市の闇を走り続ける乗り物にはあるように思える。さて、順当に進めば、次は日比谷線・東西線となるのだがどうしようかな。まぁ、また雨の休日に当たった時に考えることにしよう。

この日の交通費は普通に乗れば1670円。しっかり710円の元は取れた。

【2018年のひとこと】
震災の約1年前はメトロで東京を縦横無尽。自分で読み返していても「もういいよ」という気分になってくるけど、こうして地下鉄に乗るのが楽しかったんだろうな。茗荷谷の付近や「江戸百」のレプリカを買い求めた荻窪の街は、もしまた東京に住むとしたら部屋を借りてみたいなと思う街である。

 

 

10.03.15 墨田・江東散歩(10.03.14撮影)

この土日は春の陽気で、街歩きには最適であった。しかしながら、土曜日は住宅の設備に不備があって夕方まで足止め。折角の久々の晴天なのに面白くなく、結局友人を誘って日が落ちてから銀座に飲みに出かける。待ち合わせまでの時間、銀座の繁華街を歩いて、写真を見たりと時間をつぶす。結局終電まで飲み歩いて新橋から帰ってきた。この日はコンパクトカメラを手に街を歩いていはいたが、銀座・新橋あたりはまだしっかり撮っていないので、近々訪れることにしたい。

日曜日も引き続き晴天。昼過ぎから出かける。この前中途となっていた深川をもう一度歩くこととする。京成曳舟で降りて、まずは京島の路地に迷い込む。未だによく覚えられていないが、もう散ろうかという梅をバックに電車を撮ったり、いつものように商店街を覗いたり。もうしつこく書いているかもしれないが、震災にも戦災からも残った貴重な地域だが、以前に訪れた時より若干だが、再開発が進んでいるようで、空き地が増えていた。この貴重な下町風景もいずれかは失われてしまうのかもしれないが、町には子供たちや若い家族がたくさん歩いていて、他の下町のように寂れているだけではないというのがとてもいい。そんな街並みをしばらく歩いて抜けて、東武亀戸線の東あずま駅へ。ここから亀戸まで電車に乗る。この亀戸線は曳舟から亀戸までわずか3キロメートルほどの短い路線で、車両も2両編成のワンマンカー。ほとんど路面電車のような風情となっている。運転間隔は大体10~15分ほどで、なかなかの利用があるように感じた。

亀戸駅を降りると、総武線沿線らしく、一気に繁華街の様子となる。交通量の多い京葉道路を渡って、亀戸駅から伸びる貨物専用線に沿って、江東の工場や住宅のある地区へ。横十間川という運河に出てずっと川べりを歩く。川辺を散歩する人、つりをする人などでなかなか賑わっている。川には競技用のボートがすり抜ける。横十間川とやはり運河で隅田川までそそぐ小名木川の交点には、X字型の橋が架かっている。他にも江東区にはいくつかの運河があって、東京が「水都」であった頃の面影を残しているような感じがする。水運に活躍した運河も、今では憩いの場となっているようで、川を整備した公園ではアスレチックジム、貸しボートなどがあって沢山の人々が遊んでいる。全長2キロメートルほどに渡る大きな親水公園のようである。川からそれて、しばし深川の町を歩く。再び北上して今度は錦糸町駅近くに出る。この辺りは東京東部最大の歓楽街である。近年再整備されたであろう小奇麗な通りを歩いて、日没前に両国の横網町公園に辿り着く。

ここには東京都慰霊堂があって、震災や戦災の犠牲者達が祀られている。ここはもと本所被服廠で、関東大震災の際は火災旋風によって、数万人の犠牲者を出した場所である。そのために造られた慰霊堂であったが、東京大空襲で深川は再び壊滅的な被害を受けることなり、その際の犠牲者の遺骨も納められることとなったのである。もっとも被害の大きかった3月10日の空襲の慰霊祭も行われたばかりで、今日深川の町を歩いてきた身としては色々考えさせられることがある。本当に今日は暖かく少し汗ばむほどであったが、日が落ちる頃には風も強くなってきて肌寒くなってくる。

最後は隅田川に出て、日暮れ時の川をしばらく撮影しながら歩く。浅草まで歩いてここから地下鉄に乗って帰路へ。結局亀戸からジグザグに歩いてきたから、結構な距離になったに違いなく、また久しぶりに歩いたのでそれなりに疲れた。しかし、いつまで経っても「東側偏重」はなかなか是正されないものである。次の週末には桜も咲き始めるというので、観桜の名所なども歩いてみたいところであるが。

【2018年のひとこと】
江東区には水路がたくさんあって歩いていて楽しい。その割には結局、より街並みが古い墨田区を中心に歩き回ってはいたのだけど。

 

 

10.03.21 風のニュータウン(10.03.20撮影)

土曜は早々に出かけて活動を開始しようかと思っていたが、前日に結構飲んだので結局午後から出かけることに。さて、どこに出かけようか。いつまで東京に居るのか分からないが(そう長い期間でもないだろう)、是非とも行っておきたかった場所に、三連休の始めは訪れることにした。

浅草線を東日本橋で降りて、新宿線の馬喰横山で乗換。電車の終点は新宿の少し先の笹塚である。ここはもう京王線。この後、明大前・調布と電車を乗り換えて京王永山で降りる。ここは前にも訪れたが、友人と風呂に入って帰っただけなので、今日はじっくりと「多摩ニュータウン」を歩き回ることに。しかしながら、着いたのは午後1時半と、これから日没まで色々回るには少々不足の時間帯である。そういうわけで今回は、ニュータウンの中で最初に入居が開始された永山・諏訪の両地区を巡ることに。永山駅から坂を上がると早速団地群が現れる。二日酔いには延々続くアップダウンはなかなかきつそうである。しかし、この高低差を活かして、団地内には歩道橋が多数架けられていて、人々は自動車の通過を気にせずに歩けるよう設計されている。公園なども適宜配置されていて、さすがニュータウンの代表格として相応しく環境は良さそうである。それにしても、今日は暖かい。20度近くまで上がっていたようで汗をかきながら坂を上る場面も。また風も強くて、口の中はすぐに砂っぽくなってしまう。黄砂もだいぶ飛んでいたのかもしれない。

この団地については詳しく研究しているサイトが沢山あるし、細かいことは良く分からないので割愛するが、さすが最初期の団地らしく撮影欲をそそられる物件が多数存在している。改修工事が行われたものが多く、まさに工事中という棟も沢山あったが、そういうのもなかなかいい。一戸建てのようなテラスハウスから高層棟まで、様々の物件を撮り歩いたところで、「聖蹟桜ヶ丘」行きのバスが通りかかったので、それに乗ることにした。乗客はほとんどの区間で自分一人だけ。丘の上の団地から永山駅を通って、ロードサイドショップの並ぶ幹線道路を通って終点へ。バスに乗るほどの距離でもなかった。聖蹟桜ヶ丘は正式には多摩ニュータウンの範囲ではないが、長らくニュータウンの最寄駅だったという経緯があり、大きなバスターミナルやデパートなどが立ち並ぶ市街地となっている。

駅からしばらく九十九折の急坂を上って、桜ヶ丘の住宅街へ。ニュータウン地区と違って高級な邸宅が多い。またこの住宅地はアニメ映画「耳をすませば」の舞台としても有名である。ここら辺でいよいよ暑くなってくるが、強い風がその汗を乾かしてくれる。同じ風でも都心で感じるのとは違う心地よさがあるなぁ。普段こういうところを歩くことは少ないが、長く郊外の住宅地で育ったこともあって、妙にほっとする瞬間がある。幹線道路に立て看板が並ぶ風景などは、完全に地方の風情を感じさせるもので、懐かしい気分にある。丘を登ってまた下って、永山駅まで戻る。小休止してから今度は小田急線に乗って隣の多摩センター駅。ここはまさにニュータウンの中心地区で、三越などの商業施設や企業のビル、公共施設が計画的に配置されていて、他ではなかなか見ることの出来ない景観が続いている。

ここが始発駅となっている多摩都市モノレールに乗り換える。多摩地域を走る小田急線・京王線・中央線・西武線を南北につなぐ路線で、住宅街のアップダウンや時折緑の中を電車は通り抜ける。高架から街を見下ろすと、多摩丘陵の複雑な地形や、そこにびっしりと張り付く住宅のありようを知ることが出来る。よくこんなところに街を造ったものだ。しかし、都内の他の場所ではなかなか得られない好環境だとも思う。やはり人間の生活には自然が大事であると最近よく感じるものである。

モノレールを「甲州街道」で降りる。周囲はまだ開発の余地が残されているようなところで、モノレールの高架だけが高く伸びている。駅から少し歩くと多摩川に架かる日野橋にさしかかる。この場所は最も敬愛するミュージシャンの一人である真島昌利の作品に、登場する場所である。高校生くらいの頃から一度行ってみたいと思っていたから、かれこれ10年近く経って実現したことになる。この他にも今日訪れた多摩ニュータウンや、今渡っている多摩川、それから国立や花小金井など固有名詞で、彼の生まれ育った場所が沢山登場するので、多摩地域も色々歩いてみたいものである。

しばし橋の上から多摩川を眺める。いつも撮影に出かける時はどこで日没を迎えるかということが重要にしているだが、今日はこの日野橋から多摩川を渡るモノレールを夕日とともにおさめてみた。しばらく河原を歩いて、日のすっかり落ちた立川駅周辺の繁華街を撮り歩く。多摩地域の中心地といえばこの辺か八王子あたりなのだろうか。当然ここも東京都下だけど、「中央」としての東京ではなくて、ひとつの「地方」として東京を感じることができる。今日少し、多摩を歩いていてそういうことを思った。もちろん23区内にも東京という「地方」を感じられる場所が沢山あるので、住んでいなければ見られない風景、他所では住んでいては見過ごしてしまう風景、そんなものを見つけたいと思う。

立川から中央線・総武線を乗り継いで新小岩まで1時間ほどの道のり。やはりなかなか遠い。夜も更けたころから風がかなり強くなってきた。最近の(いやずっと以前からか)興味といえば、こうして街を歩くことと(極端に言えばカメラが無くてもいい)、酒を飲むことと、眠ることだけである。休日のためだけに生きているようで、最近どうも良くないなと思っているが、これはもうどうしようもないかもしれない。

【2018年のひとこと】
ここのところ、どういうわけか再び東京都下、多摩地域のこが気になっている。理由としては本文にもあるように「地方」としての東京を感じてみたいということと、札幌郊外での生活も長くなってきて改めて「郊外」というものを考えてみたいからだと思う。
この当時より街を歩いて、酒を飲んで、寝ることはたっぷりできるようになっているはずだけど、今は今で大変でなかなかそうもいかない。特に飲酒量はだいぶ少なくなってきた。

 

 

 

 

10.03.23 私鉄びいき(10.03.21~22撮影)

この日曜日には小田急線に乗る機会があった。前の日に近くを走る京王線に乗っていて、近いうちに小田急も乗っておきたいと思っていたところで、あまりに早すぎる実現である。友人Hとどこか電車に乗って出かけたいということになって、少しリッチな気分でビールでも空けたいということで、ロマンスカーで小田原・箱根を目指すことに。

この日の東京はかなりの強風で、埼玉・千葉方面を中心にダイヤが乱れていた。家から新宿までの中央・総武線も強風の影響で到着が遅れ、平日の朝ラッシュ時もしのぐような混雑ぶりだった(変に趣向を変えずに地下鉄新宿線を使えばよかった……)。別に風が吹かなくても、いつも混雑を極める新宿駅を、やはり人がぎっしりの普通列車を尻目に缶ビールを開ける。うーん、ラグジュアリーだ……(しかしロマンスカーは実は安上がり)。

席は当然満席で、旅に浮き立つ人々の話し声が車内に充満している。我々も色々会話を交わすうちに、あっという間1時間少しで小田原に到着。小田原城址などを見て箱根の山を登る。箱根湯本駅で降りて温泉街の中心部を歩く。登山電車も乗ってみたかったなぁ…。しかし、今回はとにかく楽に楽に、それでいてプランを決めずに旅を楽しむこととしている。今日はろくに写真も撮らず、土産物屋ひしめく通りを抜けて、適当な所で日帰り温泉に入る。この旅館はリニューアルオープンしたばかりで、風呂もなかなかいい。温泉をしっかり満喫して、食事にして、かなり長い時間休憩にしていると、もう夕暮れなので山を降りて東京で飲むことに。そうはいいつつも、帰りの車内で飲むためのビールはしっかり用意するのだが。自家用車ではこうはいかず、鉄道の旅の醍醐味の一つだろう。

小田急による箱根の観光開発には長い歴史があって(西武グループとの熾烈な争いも有名)、このロマンスカーも箱根観光への演出も「伝統」として定着している。私はこういう私鉄が作り出してきた、「文化」のようなものを大変愛好している。もちろん観光だけではなくて、沿線には必ず系列のスーパーマーケットがあって、住宅地があって、ターミナルにはデパートがある。そういう開発によって生まれた独自の風景も個性があっていいし、発祥が路面電車である場合が多いためか、都市の狭隘な地区を電車がすり抜けていくのもいい。そのルートはできるだけマイナーな町々を結ぶ方がいいし、車両や駅舎も標準化されていないものの方がいい。
いまや、JRも民営の会社でそういう意味では私鉄なのだが、JRの使命は全国の各地域を結ぶことにあって、作り出す文化もどうしてもメジャーな方向に進んでしまい、私が興味を覚えるようなものではない(都市近郊やローカル線の風情などはいいものではあるが)。北海道にはそういう意味で「私鉄」が現在では無いので、よけいに「私鉄びいき」をさせてしまうのかもしれない。

行きとは違って、遊び疲れて眠りに落ちる人を乗せて、日常の場である新宿へロマンスカーは到着する。私も前日はほとんど眠っていなかったので、行き以上にあっという間に着いてしまった。割と遅い時間ではあったが、まだまだ箱根方面に向かう観光目的であろう人々の姿も多かった。東京に比較的近い観光地は他にも色々あるので、また訪れたいものである。
その後、品川まで移動して(さすがにここは山手線を利用した)、終電近くまで酒を飲み続ける。最近どうも考えなければいけないことが多くて、酒量が随分を増えてしまっている。

それはいいとして、京急線の品川に行くと、各方面の終電間際とあって多くの人がホームに出ている。私が乗る浅草線・京成線方面はそんなことはないのに…。この路線は大きく分けて京成・京急・都交通局の2社1局がそれぞれ乗り入れていて、様々な車両・運用を見ることができる以外と稀有な存在である。
「京急久里浜行き・終電車」「北総線印旛日本医大行き・終電車」この首都圏を広域にネットワークする様を見ていると、何故か感慨に近いものを感じてしまう。そういう点ではJRも全く一緒だとは思うが、それぞれの会社で車両や駅などの個性はしっかり主張しているのは何とも好ましい気がする。それでこの沿線に住むことを決めたというのもあるのだが、今後もし引っ越すにしても私鉄(もしくは地下鉄)沿線がいいなぁと思っている。

 

振替休日の月曜日は、京成線に乗っていつもとは逆方向の成田方面に行く。午後の日差しを受けて快速電車は終点佐倉まで向かう。電車先頭部には小さな子供が代わる代わるやってきて、前面に広がる沿線風景を食い入るように見つめる。すれ違うスカイライナーや旧塗装を施した電車に歓声を上げる。自分もそうだったが、彼らにとってはそのスカイライナーやロマンスカーがヒーローに違いない。彼らは私が知らないこの快速電車の停車駅も把握しているし、こうしてまた「私鉄人間」が醸成されていくのだろう。ちなみに私の隣にいた方はどうやら「録り鉄」(走行音などを録音することを趣味とする人)のようで、興奮した子どもの声は不都合だったかもしれない。新交通システムも走る、ユーカリが丘の高層マンション群を抜けると、車窓は突然一面の田園風景に変わる。少し遠くに大きな湖が見えたが、これが印旛沼らしい。佐倉はいかにも地方都市といった風情で、駅前に少し小さな商店がある他に、幹線道路にロードサイドショップが並んでいる。

かつての武家屋敷などの残る城下町や、陸軍師団の町としても知られているらしいが、この町には「国立歴史民俗博物館」がある。国内で唯一通史的に国史の資料収集・研究・展示を行っているところで、やはり高校時代からいつか訪れたいと思っていたところだった。
この度終戦から現代を扱う新しい展示室が出来たとのことで、ようやく訪問が実現した。そもそも閉館の2時間前に訪れたのが間違いで、その最大目的である「現代」をじっくり見るべく、できるだけスキップして展示を見ることとしたが、かつて教科書で写真だけ見たことがある歴史的資料の実物(複製も多かったが)が沢山あって、当然興味深いものばかりで30分ほど経ってもまだ「古墳時代」ということに気付くと、後悔の念がどんどん募ってくる。これはまた訪れなればならないな。成田空港に近いためか、外国人の方の姿も多く見かける。結局、平安時代から幕末くらいまでは早足で見て周り、北海道開拓やアイヌ関係の展示室も既知ということにして、本当にざっとだけ見る。

途中、民俗を扱う展示室もあって、「都市の風景」と題して「盛り場」をテーマとした展示は大変興味深かった。30年ほど前に撮影したと思われる、大阪や東京の写真パネルが大きく壁に並んでいて、その間に祭りで使われたものや、怪しげな占いの店の様子、また居酒屋の店構えなどが「展示」されている。一度こういう事象をじっくり研究してみたいと思った。最近の自分の興味の傾向ではあったが、今回は結局メジャーな歴史的事項よりも、民衆史やその時代ごとの都市・農村の在り様にほとんど興味が行くこととなった。ジオラマなども非常に良く出来ていてじっくり見てしまうのと同時に、施設の名にわざわざ「民俗」を入れた意味を考えた。

ようやく「現在」に到達。閉館間近ということもあって、来館者のほとんどはこの部屋に集まっている。この博物館のあった場所はかつて師団だったということで、兵舎の様子・軍隊関係の資料が多く展示されている。それから闇市の様子などを伝える部屋に移り、戦後高度成長期へ。ここには一番見たかった、公団住宅の1DKの居室がそっくり実物大で復元されていて、当時の様子が家電製品や食器なども当時のものを揃えて展示されている。玄関ドアも本物のようだし、風呂やトイレまである。他にも映像やポスターなど一番好きな昭和時代の展示も沢山あったのだが、残念ながらここで時間切れ。退館を余儀なくされる。やっぱりもっと早く行けば良かったなぁ。
月並みな表現ではあるが、太古からの蓄積があって、この今日も歴史となるのだなと感じて博物館を後にする。

駅まで歩いて周辺の街並みを少し収めてまた電車に乗る。佐倉から立石まで50分くらいで、そこから都心まではさらに20分くらいかかるから、通勤はなかなか大変だと思うが、駅前に多く並ぶ高層マンションを見ていると、通勤者は沢山いるようである。まぁ、1時間くらいの通勤はざらなのかもしれないが、いくら電車移動が好きな人間にも毎日のこととなると少しきつい。しかし、周りは全くの田園風景で環境は良さそうで、こういう暮らしもいいかなと思う。様々な景色を見せてくれる鉄道たち。今度はどこに出かけようか。

【2018年のひとこと】
2010年春の3連休は多摩ニュータウン、箱根、佐倉といつもよりやや広域に縦横無尽に活動していたようだ。特に佐倉の「国立歴史民俗博物館」はゆっくり見ることができなかったので、いつの日か再訪したいものである。といってもまともに見ていると丸一日かかってしまうので、旅行の途中に組み込むのはやっぱり難しいのかもしれないけど。
京王、小田急、京成など私鉄会社それぞれのカラーというのは割とはっきりと分かれていて、それを感じながら小さな旅をするのはとても楽しいことだ。こればかりは首都圏や京阪神などでしか味わうことができない。

 

 

 

10.03.28 新橋・銀座ほか(10.03.27撮影)

先週の土曜日は、晴れ空は広がっているものの、肌寒い一日であった。一応、東京でも開花宣言はなされたが、見頃となるのはまだ先のこととなりそう。何だか、あまり出かける気もしなかったが、その翌日は天気が良くないとのことだったので、用事を見つけて銀座にでも行くことに。いつもと同じ経路を通るのも飽きたので、隣の四ツ木駅から乗ることに。直線距離でいえば立石駅ともあまり変わらない。徐々に高架化工事の準備の用地取得が進んでいる。あと数年もすればこの線路際の風景も一変するだろうなと思いながら、シャッターを切る。ここで電車に乗る。せっかく銀座まで出るからついでに新橋まで行って、あの界隈をひとさらいしておこう。少し写真を撮る気になってきた。

新橋駅で降りて、再開発された高層ビル街をしばらく歩く。海岸も近くて風がとても冷たい。この辺も以前は全く違う光景が広がっていたのだろう。ここ新橋(汐留)は日本の鉄道の発祥地ということで、かつての汐留駅があった場所に当時の姿で駅舎が復元されている。駅舎は資料室とビヤレストランとなっている。新橋には実に個性的なビルがある。黒川紀章設計の「中銀カプセルタワー」は、住居ユニットが交換できるおそらく唯一の高層住宅である。ビルの1階には一室のサンプルが展示されているが、四畳半ほどの「カプセル」に電話やテレビなどの電気機器やユニットバス、もちろん家具などの全ての構成物が作りつけられている。相当センセーショナルな建築だったと思うが、居住性が良いとは思えず、窓も開かないらしい。管理上の問題も多いらしく、数年前に解体が決まったことは、その頃ニュースでも盛んに報道されていた。場所を考えたら賃料は驚くほど安かったので、ちょっと入ってみたい気もするが…困難は大きいだろう。
ほど近くには丹下健三設計の「静岡新聞・静岡放送東京支社」がある。こちらにも中央の幹から枝のように事務所が増設できるというものである。大変に「未来的」なデザインである。いずれの建築も「メタボリズム」という成長する建築を目指した設計思想で、建築史上も重要な施工例がこんなに近くにあるというのは、何とも貴重な思いがする。

その後新橋駅周辺や、有楽町まで続くレンガ造りの高架に沿ってしばらく撮り歩く。そこでふと、高架を横切ると、高架下が歩けるようになっていることに気が付く。シャッターを下ろした元商店街のようなものが、ずっと伸びている。今でもテナントはいくつかあるようだが、土曜の午後に開いている店は皆無であった。時間が止まったような空間、というのは東京にはいくつもあるが、都心にこんな大規模に残されているとは思わなかった。この辺りでだいぶ気分が高揚してきて、しばらく撮り回る。かなり暗いので三脚を持ってくれば良かった。通路を抜けると、再び都心の喧騒の中。鉄道の高架のすぐ隣には高速道路の高架。やはり高架下には商店が沢山入っている。有楽町・銀座の街並みを撮り歩くともう夕方。中央通の歩行者天国も終了となる時間で、四丁目交差点和光の大時計を見上げると午後五時。
写真展を見たり、何店か回って買い物をする。そんなに繁華街が得意なわけではないが、銀座の街は何故か肌に合うので、買い物は大体銀座で済ませている。百貨店などの並びもそうだが、裏通りの感じなどが特に札幌の大通に似ているせいかもしれない。

買い物が終わって、中央通を歩くとバス停があることに気付く。こんなところにバスが通るのか、時刻表を見てみると、午後8時以降の運行らしく、ルートは新橋駅を始点に、銀座を抜けて、勝鬨橋を渡って月島・晴海、豊洲に至って深川の町へ。木場・菊川・本所吾妻橋の各地下鉄駅を結んで、終点は浅草のほど近く東武線の業平橋駅に至る、なかなかに長大な路線である。折角なのでこれに乗らなければならない。高級クラブが居並ぶネオン街を抜けて、始点の新橋駅へと歩く。少しだけ遅れてやってきたバスはさっそく中央通へ。この東京随一の目抜き通りをバスで走れるとは思わなかった。銀座四丁目でかなりの乗客が乗り込んでくる。確かに月島や豊洲方面には鉄道では結構不便かもしれない。いくつかの運河などを渡って、東京湾岸の町を巡る。そのうち訪れたいと思っているところばかり。夜の闇で分からないところが多いが、一度に見回れるのはちょっとした幸福であった。

バスが豊洲を過ぎる頃、久しく会っていない方から連絡があって、御徒町付近で飲むこととなった。さて、ここからどうやって上野方面まで向かおうか。頭の中の路線図を駆使して、バスを菊川駅で降りる。そこから新宿線に乗って隣の森下駅から大江戸線に乗換へ。上野御徒町で降りて、何とか待ち合わせ時間に間に合う。アメ横近くの居酒屋に入って色々積もる話を肴に酒を傾ける。そういえば、久々に写真の話をしたなぁ。

終電近くの京成上野駅に急いで、津田沼行き最終電車に乗り込む。隣の日暮里から沢山乗客が乗り込むが、私を含めて垢抜けない顔ぶれに、この東京の下町から、川を越えて千葉へと向かう京成電鉄への愛着がいよいよ深くなる。電車を青砥で降りるも、そこから立石に向かう電車は既に終了している。この青砥から歩いても家まではそう遠くないので、夜風の冷たい中川沿いをしばらく歩く。酔いを醒ますには十分すぎるほどだ。

時折、コンクリートの堤防にカメラを置いて、深夜の川の水面などを納める。

【2018年のひとこと】
結局あまり回数は多くなかったが、東京の街をバスで走るのもとても楽しい経験だった。特にこの新橋から業平橋駅(現とうきょうスカイツリー駅)までの路線はまた乗ってみたい。上野で呑むこともまたあるだろうか。

 

 

 

10.04.04 東京花見散歩(10.04.03撮影)

4月3日の撮影記録。この日東京では桜が見頃であった。実際はその数日前に満開を迎えており、徐々に散り始め、葉桜になりかけている樹もいくらかあった。翌日は天気も良くなさそうな予報で、花見には最後のチャンスかもしれない。そういうわけで手始めに部屋から歩いてすぐのところの神社で数枚撮影。裏路地に大きく桜の木が伸びている。部屋の前の自動車学校と中川沿いに並木がある他は、この住宅密集地に桜が見られる所はなさそうだ。

さて、どこに桜を見に行こうか。あまりしっかり考えてこなかったが、1箇所だけどうしても見ておきたいところがあったので、押上でメトロに乗換え文京区は茗荷谷へ。以前にも書いたが、この付近に地下鉄と桜を収めることの出来る坂がある。谷の中に地下鉄の高架がある関係で、他にも街と電車を見られるスポットがいくつかあって、しばしこの茗荷谷・小石川周辺を歩く。ここは永井荷風の生地でもあって、その由を示す掲示板もある。次は伝通院など、彼のルーツを探るべく付近を歩き回らなければならない。見事な桜に惹かれて北野神社の石段を登り、またしばらく歩くと後楽園に至る。中央大学を過ぎて、やけに現代的なデザインの公苑にも、見事な桜並木がある。ここは東京都戦没者慰霊墓苑。靖国や千鳥が淵の例をあげるまでもなく、やはり慰霊の場には桜が付き物なのだろうか。そばの公園には花見客が沢山。

桜を見ていると、不意に轟音と歓声が聞こえる。ふと見上げると「後楽園ゆうえんち」のジェットコースター。東京ドームの大屋根も見える。後楽園から地下鉄南北線に乗って、市ヶ谷で降りる。ここから外堀に沿って桜並木をしばらく歩く。そう広くない地面は花見客にすっかり占拠されている。やけにスーツ姿の若者が多いなと思っていたら、そばにある法政大学で入学式が行われていて、ちょっとしたお祭り騒ぎのようであった。それにしても外堀通り・線路沿いの桜も見事なものである。桜と鉄道をおさめられるスポットとしても、多くの人で賑わっていて、良さそうな場所は三脚の列。そうでなくても、カメラを持った人々がここかしこでシャッターを切っている。一体この一日で何カットのシャッターが切られているのだろうかと、途方も無いことを考えてみた。日も暮れてきて少し寒くなってきたが、まだ多くの人が掘のギリギリのところまで腰を下ろして桜を眺めている。宴会の人たちはこれからが本番だろう。

飯田橋まで歩いて、坂を上って靖国神社方面に向かう。境内は大変な人ごみだったので入らず、千鳥が淵方面へ。ここも桜は行列に並んで眺めなければならず、そぞろ歩きでノロノロと花を見上げる。落ち着いて撮影はままならなかったが、やはり名所中の名所とあって、その迫力はなかなかのもの。ここでの絶好の鑑賞スポットといえば、貸しボートからの眺めなのだろうが、それを待つにも長蛇の列。日も暮れてライトアップの時間を狙ってか、数時間待ちでも並び続けるらしい。早くも散り始めた花びらが水面を彩り始め、夜桜が反射する様などはさぞ美しいことだろう。これだけ桜を愛する人々がいるうちは、まだもう少しはこの国も滅びることもないかなと、思いながらようやく雑踏を抜け出す。

その後皇居に沿って歩き竹橋まで歩く。お堀にかかる首都高速と桜の組み合わせなんかも悪くない。周囲のビル街などを撮っているとすっかり日は暮れてしまった。ここから東西線に乗って茅場町で日比谷線に乗り換えて秋葉原まで(この日はメトロの一日乗車券を利用していたのだ)、いつものように買い物などをする。本屋で「東京人」5月号(特集東京と新幹線)、川本三郎「荷風と東京」上下巻を購入。いまだに「断腸亭日乗」の原典を読まず、周縁の解説書ばかり読んでいるのもどうかと思うが、その書によって様々な切り口から読み進めることができて、やはり日記文学の最高峰ではないかと思う。

その後夕食にして、上野公園か隅田川公園の夜桜でも見に行こうかと思ったが、歩き疲れたのと、雨が降ってきたのでやめにした。

【2018年のひとこと】
ある意味で定番スポットを中心に歩き回った2010年の花見。千鳥ヶ淵のボートと市ヶ谷の釣り堀はいつか体験したいものの一つ。

 

 

 

10.04.20 葛西(10.04.17撮影)

この1週間東京では温かい日と冬のように寒い日が交互に訪れ、15日の深夜にはみぞれが降り注ぎ、葛西を訪れたこの土曜日も日中で10数℃と、同時期の札幌とあまり変わらない気候であった。そのためなのかしばらく間の体調を崩してしまい、仕事が終わるとすぐに臥せっていたが、その他にもここ最近変な頭痛が続いている。まぁ、持病のようなもので加えて最近では、目の焦点も時折合わなくなっているが、ともあれ街歩きをしている間は少し忘れることができる。そんなわけでこの土曜は、自宅より10キロ弱ある葛西までバスを乗り継いで訪れてきた。

まずは家の前のバス停からもうひとつの最寄り駅新小岩まで。新小岩は中川を挟んで葛飾区の飛び地のようなところであるが、最大の繁華街となっており、小さな錦糸町のような雰囲気がある。ちなみに隣の江戸川区の区役所の最寄り駅もここである。乗り継ぐバスをしばらく待つ。土曜の午後とあって学生が非常に多い。葛西駅行きのバスが到着する。繁華街を抜け京葉道路を越えると、アーケードの連なる商店街を通る。ここ江戸川区には私が住んでいる葛飾区にもない、空間的な余裕がある。どこか東京離れした印象。都営新宿線の一之江駅もバスは通るが、周囲は大変閑静な印象である。新宿線にはこういう街が結構多く、都心にもそれなりに出易いから住むには好環境かもしれない。

バスが東京都と千葉県を分かつ旧江戸側沿いを走っていると、気になるアパートを見つけたので下車をしてみた。バス停の横には堤防がそびえ立ち、屋形船が停泊している。川の対岸には大きな工場があって、漁村のような風情さえもある。中川と旧江戸川が交差する辺り、大きな水門の脇を通ると、川沿いの交通公園の隣にアパートが並んでいる。築年数は50年くらいだろうか。まだ桜が少し残っていて、足こぎのゴーカートが走り回る中、アパートを数枚収める。

すぐに次のバスが来たから、それに乗り込み終点の東西線葛西駅まで。高架駅のすぐ下にある地下鉄博物館へ。ここを訪れるのは昨年のお盆明け以来二度目。この週末で最終日を迎える企画展「東京周辺における地下鉄ネットワークの変遷~相互直通運転の歴史~」を見るためである。パネル数枚を用いて相互直通運転(他社間の線路を通じて交通ネットワークを構成する)の説明が行われたほか、開業時の記念切符や直通運転の協定書などの実物が展示されていた。他に明治末期から現在にかけての路線図の変遷が見られる。最初の地下鉄が開業したのは昭和2年だが、計画自体は明治の末期から為されていて、「これが銀座線で、これが丸の内線で、これが日比谷線」などと、現在の地下鉄ネットワークに驚くほど共通したものとなっている。つまり現在の地下鉄網は1世紀ほどかけて一応完成したものともいえるが、さすがに郊外に東京が膨張することまでは予見できなかったようである。

また、都市伝説ではあるが、地下鉄の多くは戦前にすでに完成していたという話もあり、帝都の地下への興味はますます深まる。展示を見てからは、例のごとく銀座線の日本最初の地下鉄電車と、丸の内線の赤い電車にしばらく居座る。丸の内線の明るい車内や、逆に銀座線の間接照明の薄暗い電車に身を置くと、遠い過去の東京の地下にいるような気分になる。この頃傾倒している「断腸亭日乗」にも「地下鉄道」の記述は多数登場していて、荷風が赤坂の偏奇館を出て銀座から地下鉄に乗って浅草に出る様子を知ることが出来る。このことが後の作品形成に影響があったという論を読むのも面白かった。

博物館を出て、葛西駅から隣の西葛西駅まで高架下をしばらく歩く。規模は全然違うが、札幌の澄川の高架下を歩いているような気分になる。西葛西に近づくと高架下に大きな商店街が現れ、巨大な高層マンションが余裕を持って計画的に並んでいる様子を見ることが出来る。これは大変東京の郊外らしい風景である。

東西線の鉄橋の真横を歩いて荒川を渡る。対岸は江東区で河口である東京湾も近くなってきた。この付近は東西線の他に、JR京葉線や首都高速湾岸線、一般国道の湾岸道路など、京葉間を結ぶ交通の要衝となっている。当然幅の広い道路や高速道路への出入り口などが多数存在するわけだが、それでもなおこの大河川が流れる上の空は広々としている。フェンスがあるために川面に出ることは適わないが、河川敷も大変広く、ジョギングやサイクリングの人々で結構な「交通量」がある。沈み行く太陽と並んでに川べりを歩き、水面にまぶしく反射する光、または対岸に霞む東京の街並みを撮る。河口にある下水処理場のためなのか、また排気ガスのためなのか、ひどい異臭のする湾岸道路の下を抜け、東京湾に面する葛西臨海公園に到達した頃、太陽は雲の中に隠れ、ひと時だけ真っ赤な夕焼けを広げる。公園を一回りしていると、ここからお台場・両国まで向かう水上バスの最終便があることを知り、乗り場へと急いだが、あと少しのところで出航してしまった。ここから1時間半ほどかけて夕闇が迫ると同時に、次はネオンが煌く東京湾岸の街を見ることができるようだ。南国の植物が多数植えられた浅瀬の近くを歩くと、沖合いには東京湾アクアラインや、羽田空港に次々に離発着する航空機を見ることができる。

対岸の東京ディズニーリゾートを見る頃にはすっかり日も落ちて、大観覧車の照明の他は真っ暗な公園を抜けて葛西臨海公園駅へと向かう。駅前も椰子の並木の南国風の景観。ここで夕食にして京葉線に乗り込む。新木場・潮見と湾岸の広々とした中を、電車は高架で走っていく。少し遠く、東雲あたりだろうか、タワーマンションが数棟立ち並び、闇に向かって赤い光を点滅させている。潮見からは地下に潜り、東京駅へと進む。うわさには聞いていたが、ここから他線への乗換は非常に遠い。この後秋葉原へ行く予定だったから、料金さえ気にしなければ一つ前の八丁堀で日比谷線に乗り換えた方が良かったかもしれない。いくつものエスカレータや動く歩道を経て、10分くらいかかっただろうかようやく山手線ホームに到着。ここから秋葉原へ出て買い物をする。

買い物が済むと隣の浅草橋駅まで少し歩く。元々秋葉原はそんなに広い繁華街でもなく、まして土曜の夜中のオフィス・問屋街は静かなものではあるが、そのコントラストに少しどきりとする。歴史を感じる高架橋とその下の店々を眺めながら、浅草橋駅から地下鉄に乗り帰路に着く。その少し前には人形町から東日本橋(駅前の地図には拓銀の文字が!)浅草橋・蔵前まで歩き、またその前には先の浅草まで歩いたことがあり、頭の中の東京地図がようやく実感を持って結びつき始めてきた。

永井荷風が随筆「放水路」(現在の荒川のこと)に記した、うら寂しく蘆の生い茂る工場地の昭和11年の風景を、高速道路と鉄橋がいくつも渡る現在の葛西に当てはめるのは難しいかもしれないが、それでも他の東京の街にはない開放感や寂寥感、またそこに人を避けて一人歩こうとした散歩者の気持ちはよく感じることが出来る。次は「放水路」の上流の方、比較的自宅からも至近の堀切・小菅あたりの風景も、体調が許せば眺めに行きたいと思っている。

 

【2018年のひとこと】
行ったことのある場所が増えてきて、それが自分の中でつながってくると街歩きがより楽しくなってくる。東京にいる間にそのネットワークはだいぶ出てきてきて、あとは塗り絵を塗りつぶすだけだというところだったが惜しくも時間切れ。でも、東京はとても奥深くてそんなに一筋縄にいかないこともよく理解している。
地下鉄博物館に行く関係で葛西付近は何度か歩いたが、東京郊外らしいややゆったりとした風景は(ただし地下鉄東西線は首都圏トップ率の混雑率だが)、地方都市の郊外に育ったものとしてはどこか馴染みのあるものだった。

 

 

 

 

10.04.25 神保町周辺(10.04.24撮影)

しばらく頭痛がひどかったため、土曜日は予約を入れた大手町の病院へ。午前の問診のあと、少し時間があったので、周辺の高層ビル街を歩くことに。休日のためビジネスマンはほとんどおらず、皇居に向かう外国人観光客が目立つばかり。この頃あまり高層ビルの写真も、うまく撮れなくなっているような気がするが、ともかく都心の一等地とは思えない静けさを歩くことができるのは、貴重な経験である。午後からはMRI撮影。初めてだったが何とも珍妙な経験だ。ある程度要因がまとめられ若干の処方薬をもらったが、今の環境ではなかなか治らない気がする。次の診察は連休明け。それにしてもこの診察代でまた随分と使ってしまった。実に困った状況である。

気を取り直して、大手町から少し歩いてみることに。やはり街を撮り歩くことが気晴らしになり、頭痛には効果的かもしれない。そういいつつ、すぐ近くにある逓信総合博物館「ていぱーく」を見学することに。こういう施設があるとどうしても入場券を買って入場したくなる。この博物館はNHK、NTT、日本郵便の出展する情報・通信に関する博物館で、古代のパピルスから衛星通信網まで様々な事象を学ぶことができる。じっくり見るには数時間かかりそうなものを駆け足で見学する。同時に開催していた古切手・古手紙の展示が面白かった。明治のだいぶ進んだ頃になっても「尾張国」「武州」などと、旧国名で宛名が書かれているものも多くあり興味深かった。

博物館を出て神田橋で首都高速をくぐりしばらく歩くと神田神保町となる。言わずと知れた古書店の街である。ここを訪れるのも初めてで、数件はしごして店を覗き込む。それぞれの店で専門があって、とりわけ美術書・写真集の品揃えも豊富で、これは癖になりそうである。ここでもしばらく時間をつぶし、結局雑誌「東京人」のバックナンバーを1冊買って、神保町を後にする。もう少し色々の余裕が出来たらまた訪れよう。

程なくして中央線の水道橋駅に至る。これから始まる巨人広島戦の観客で少し混みはじめている。後楽園ゆうえんちを覗くと、数多くのコスプレイヤーがいるが、その元ネタはほとんど分からない。次は丸の内線の高架をくぐり、本郷の急坂を登ったり降りたり。墨田区や台東区などに並んで、ここ文京区も古い街並みがよく残されていて、今まで数度歩いたエリアである。東大のそばを通り、湯島を経て上野まで。ここら辺で陽が落ちて、暗くなった上野・入谷あたりを歩いて浅草まで。ここで地下鉄に乗って帰路についたが、さすがに少し歩き疲れた。帰って地図を眺めると、大体6キロメートルくらい歩いたことが分かる。これを見ると東京は広いようで狭いということが分かる。写真の出来は今ひとつだったが、ともかくまたひとつ東京の地図を塗りつぶすことが出来た。

【2018年のひとこと】
もはや持病のようなものだが、この頃は特に頭痛が酷くて病院でMRI検査を受けたときのもの。要は肩こりに起因するようだが、ずっとデスクワークだったこの頃は特に酷かったのだろう。それでも歩き回るのは全く平気なようで、結局は精神的な要因が大きかったのかもしれない。最近はそれほど酷くはないが、それでも少しでも肩がこったりするとすぐ頭痛に悩まされる。おそらく一生付き合っていかなければならないのだろう。
東京にいる間に神保町を訪れたのは3,4回ほど。それぞれの書店は興味深いが、全部見て回ろうと思ったら何年あっても足りないのだろう。起伏のある本郷なども歩いていて楽しい町で、神保町と併せてまた訪れたいものだ。

 

10.04.26 荷風とカメラ(荒川散策10.04.25撮影)

本日は部屋でゆっくり用事を片付け、夕方近く散歩に出かける。今日は体調も悪くない。最近読んだ本で知ったことだが、永井荷風もローライコードというカメラをぶら下げ、墨東や深川の町を歩き回り、その路地や堀にかかる橋、寺社や墓地、または荒川放水路まで足を足を伸ばして、葦の生い茂る河原の様子を撮影したという。タイトルも「西新井橋」「小名木川」などシンプルなもので、徹底した観察者として風景を撮影したものだという。そのほとんどは東京大空襲で失われたといわれているが、私家版の「墨東奇譚」に収められた玉の井の写真などを見ると、なかなかいい。また荒川放水路で撮影された葦原の中に鉄塔が並ぶ写真に強く惹かれる。そんなわけで、部屋から少し歩いて陽の傾く荒川を見に行くことに。

部屋から大通りをはさんですぐ向こうの東四つ木であるが、道路が複雑でいまだに位置関係がよく分からない。いつもは中川や首都高速の分かりやすいところを歩いているが、今日は敢えて少し迷ってみることに。一角だけ雑木林に囲まれた一軒家がある。これはこの周囲がまだ田園であった頃の名残なのだろうか。他にも時が止まったような駄菓子屋や、風化しかけた工場や倉庫もいくつかある。

川に出るといつものように、対岸の東京スカイツリーや野球場、かつしかハープ橋、京成押上線の鉄橋などを撮影。まだ意外と日が高い。高校生などの学生が結構多い。河川敷には若者がよく似合うような気がする。広々とした芝生で演舞の練習などをしている。他にも散歩する人やスポーツの試合などが行われているので、それなりに賑やかであるのだが、その音は空に高く抜けてしまうので、一人歩くには依然として静かなままである。

鉄塔が見えてきた。荷風散人に倣って数枚撮影。街中を歩くのももちろん好きだが、今までの軌跡を考えてみると、やはりこうしたうら寂しい風景が一番好きなのかもしれない。対岸にはこれまで2度訪れた白髭東の巨大団地が、頭上にには首都高速の堀切ジャンクションがある。渋滞ポイントとしても有名な場所だが、こういう風景もとてもいい。京成本線の鉄橋上には、夕焼けが広がり始めている。大きな雲に阻まれ、数々の光芒が空に伸びる。大変に美しい。

ここで本日の夕暮れを見届け、また元来た道を歩く。川沿いを歩いていると、荷風と放水路に関する記述とのある案内板を見つける。断腸亭日乗にでも描かれたのだろうかスケッチも添えられている。他にも映画撮影の舞台であったことが記され、この風景が古くから愛されていたことが分かる。往復でおよそ6キロメートルほど歩いた。札幌の豊平川に置き換えると、豊平橋から環状通の通る南19条橋まで歩いて戻ってきたくらいである。今になると結構疲れてはいるが、あの単調な風景の中では意外と長い距離を苦も無く歩けるから不思議だ。

ちなみに荷風は暗室作業もよく行ったという。当時は撮影と焼付けもセットで「写真撮影」いうところもあったのだろうが、とても現像所には出せないような写真も多く撮影していたというから面白い。

【2018年のひとこと】
写真と街歩き、写真と荒川放水路。自分と荷風が一番シンクロしたと思った日。むしろその後は自分の写真もその影響を受けるようになったというべきか。荒川の魅力については何度も語ってきているけど、おおよそ「東京らしさ」から一番遠いこの場所に一番惹かれるというのはどうしてだろう。その後も東京を訪れた時は必ず四ツ木橋付近は立ち寄ることになっている。
札幌の豊平川も好きでよく歩く方だが、最近はそれほどでもない。ましてや冬季になると雪堆積場などになっていてとても近づけない。

 

 

 

10.05.10 大手町・赤坂渋谷経由・新宿(10.05.08撮影)

私は寒さにも弱いが、暑さには更に弱く、初めての東京の夏を乗り切れるだろうかと戦々恐々している。連休明け5月の上旬でも、20℃を超えるような日が続き、この撮影を行った8日も最高気温は26℃と、夏のような天気の中を歩き続けることになった。これではとても夏は歩き回ることなどできないだろうと、今から撮影計画を練り直している。
さて、本題に戻り、この日の撮影は大手町の病院で受診を終えたところから始まる。もう随分長いこと工事が行われている東京駅丸の内口を通り、華やかなブランドショップが軒を連ねるあたりに、そこで食事にして、少し歩くと内幸町、すぐに日比谷公園である。

ここから虎ノ門方面に進むと千代田区から港区へとなる。外堀通りを東進して霞ヶ関ビルのあたりへ。言わずと知れた国内初の超高層ビルディングであるが、その横には近年建設された霞ヶ関コモンゲートのビルが、更に高く空に伸びている。そこを抜けると首相官邸の裏手となる。少し先には赤坂のTBS社屋が見える。さらに東に進み、首都高速道路をぶつかるところに、本日の唯一目的地らしいところに辿り着く。それは、先ごろ閉鎖のニュースにのぼっていた「グランドプリンスホテル赤坂」で、丹下健三設計のV字型の独特の高層ビルが、周辺のランドマークとなっている。まずは周りをぐるっと回って、屋内も少し見学して裏手へ出る。この丹下設計の新館は1983年竣工であるが、なんと「老朽化」を理由に取り壊すのだという。ちなみに2001年には大規模な改修工事も行われている。長いこと朝鮮を治めた李氏の末裔が併合後日本の貴族となって暮らした、旧館(1930年築)は歴史的にも貴重なものであるから、それを保存するというのはわかるが、新館の超高層ビルを取り壊すというのはどうしても理解できない。これほどの規模の建築がこの程度の築年数で撤去されるという事例は、他に無いのではないだろうか。1960年築の別館の建物もなかなか趣があって、この3つのプリンスホテルの取り合わせもなかなか素晴らしいものなのだが、もしかしたら西武はこの新館が人手に渡ってしまうのを嫌がって、取り壊しを検討しているのかもしれない。とにかく変な前例をつくらないように、この名建築を守るようにしてほしいものである。

赤坂見附から麹町のあたりを抜けて四谷まで。掘割は近くの大学の運動場になっていて、その上手には地上に顔を出した丸の内線が走っている。散歩には大変心地よいエリアだと思う。そのあと赤坂御用地にある迎賓館をフェンス越しに見て、中央線のガードをくぐって信濃町へ。ここは創価学会の本拠地としてもよく知られているところだが、なるほど確かに閑静な坂の多い住宅地の中に、独特の様式で建設された施設がかなりの密度で建てられていて、街中には教団旗がなびいている。信濃町駅前の商店もそれに関係するものばかりで、大いに興味をそそられたが、正直信徒でなければ歩きにくい場所にも感じた。事前に仕入れた情報では、カメラを持って街を歩こうものなら、学会員に「職務質問」されたり、複数の「警備員」に尾行されると聞いていたが、幸いにしてそのようなことは無かった。確かにポスターは公明党のものが非常に多かったが、普段歩くの下町に比べたらそんなに多いものでもなく(共産党のポスターもあった)、学会の施設を除けば坂道の多い東京らしい普通の住宅街であった。

坂を下ると明治神宮外苑である。ヤクルトの本拠地としても知られる神宮球場など、多くの運動施設が配置されている。よく東京には緑が無いといわれるが、都心に限っていれば結構あるものである。皇居をはじめとして、日比谷公園、赤坂御用地、新宿御苑、明治神宮、青山墓地など。ただし、一箇所にまとまっていて、一般には入れない場所も多いから、確かに東京では緑は身近でないといえばそうかもしれない。

青山ブックセンターで立ち読みをしているあたりで、久しく会っていない人から連絡があり、夜に新宿で合流することに。この頃こういう出会いが多くて楽しい。ちなみにこの近くにも丹下建築がある。国際連合大学本部といわれる施設で、建築年代のためか新宿の都庁とテクスチャなど非常によく似ている。ひとまず当面の目的地である渋谷に向かうことに。後から気付いたことだが、これで上京当初意識していた地下鉄銀座線のルートを踏破したことになる。里程標を見ると日本橋まで8.7キロとあったので、それに近い距離を歩いたことになるのだろう。この頃は歩く距離が伸びてきて心身の健康のためには良いと思っているが、果たしてどうだろう。だいぶ歩き疲れてはいたが、待ち合わせまでの時間まで中途半端だったので、再び歩くことに。いつも辟易する渋谷の雑踏をかき分け、今度は原宿駅の人並みである(渋谷に比べたら人込みといえるほどのものではないが)。原宿駅にある皇室専用の宮廷ホームや、代々木にある共産党本部などを眺める。程なくして再び新宿駅東口の雑踏へ。ここも常に何らかの工事が行われているような気がする。

ここで大学時代の友人であるOさんとHさんと会って、そのあと終電近くまで様々の思い出話などをする。もちろん終電間際の新宿駅もなかなかの混雑で、ビルの上にある寒暖計を見るとまだ19℃もある。いよいよ夏を乗り切る自信がなくなってきた。とりあえずは重点的に山手線内を見て歩きたいので、その辺をまずスケジューリングして、盛夏には無理の無い場所で撮影を、とも思っているが、5月上旬でこの気温ではもう遅いかもしれない。

もうこの時間では地下鉄はやっていないので、そのまま総武線を新小岩まで乗り通し、20分ほど歩いて自宅まで。こうなればもう何キロでも歩ける。

【2018年のひとこと】
今も暑さには強くないが、札幌も真夏日、もしくは猛暑日が増えてきているし、外での仕事も増えてきているので、さすがにこの頃ほど弱いということはないかもしれない。それでも内地の暑さとは違うから対応できるかどうかは分からなけど。
この日も頭痛も何のその結構しっかりと歩いている。「赤プリ」の本館はその後、姿を消してしまったけど、いまだにその後を見ていないので赤坂の弁慶堀付近がどうなっているかをうまくイメージすることができない。いずれにしても惜しいことをした。それにしても「信濃町」に関する記述がやけに多いのは当時の興味によるものなのか、とりあえずいい趣味ではないなと思う。
札幌時代の友人と会うのは新宿が多かった。この夜何を話していたかは覚えていないけど、気持ちだけはススキノで飲んでいる大学生のままだったような気がしていた。もっとも当時は卒業からそんなに年数が経っていないし、今も同じようなものかもしれないけど。

 

 

 

10.05.20 新宿・渋谷・六本木周辺(10.05.15撮影)

先週の土曜日はモーリス・ユトリロ展を見に新宿まで。普段あまり絵画を見るということはしないが(この頃は写真でさえも)、少し前にユトリロを知り、彼の描くパリの街並みには写実的手法を強く感じ、写真と共通したものを覚え気になっていたのだが、この度日本で初公開される作品が多数あるというので見に行ってきた。絵をよく見てその背景を知ると、写実的というのは当然で、アルコール依存症治療のため、鉄格子のある部屋で絵葉書を元に描き続けたものだという。その名声が上がって、絵が売れるようになってからは、家族の金づるのような存在になり、贅沢にふける一方、そのまま鉄格子の中で一生を終えたというのだから、急に重々しいものに見えてくる。あまり関係ないけれど、そういう意味では山下清は家族に恵まれたのかなと思う。そうはいっても、やはりその風景画は素晴らしいもので、記念に絵葉書を数枚買い求めた。

この展示が行われたのは損保ジャパン東郷青児美術館だったが、ここはバブル期に大金を積んで求めたゴッホの「ひまわり」を所蔵していることで有名である。当初はそれを見るために大変な行列ができたのだろうけど、今ではガラガラで好きなだけ見ることが出来る。あまりにも有名過ぎて特に感動は覚えなかったが、想像していたのよりもずいぶん大きなサイズに感じた。それにしても、この頃ますます「芸術品の価格」というものがよくわからなくなってきた。

少しスナップしながら新宿駅に戻り、本当は歩いていこうかとも思ったが、なぜか足をつってしまっていたので、山手線で渋谷まで。そこから東急東横線に乗り換え、ホームの様子をしばし撮影。このくし型ホームを持つ渋谷駅は、昭和2年に当時の東京横浜急行のターミナルとして開業したもの。そのホームの形状やところどころ残るクラシカルな意匠から、いかにも私鉄のターミナルといった風情であったが、既に開業している副都心線地下ホームに、あと2年ほどで乗り入れることとなっている。その暁にはこの大きなホームは解体され、渋谷駅全体として大規模な再開発が行われるというから、今のうちに少しでもこの姿を記録しようと思ったのである。

しばしホームをうろうろし、普通列車に乗り込み、すぐ隣の代官山へ。渋谷からはすぐだが結構な利用がある。代官山は今ではファッションの町として名高く、お洒落な店が立ち並んでいるが、元々は郊外の住宅地として発展したところで、その名残も各所にあるような感じがする。やはり有名な同潤会代官山アパートも現存中に見たかったものである。地下化工事が進む東横線沿線を歩いて、高層アパートに登ったり、高級住宅街を歩いたりして広尾方面へ。それにしても、この辺の住宅街はいかにもハイソである。居並ぶ自家用車はほとんど輸入車だし、大使館の多い立地から外国人の姿も増えてくる。

麻布あたりにさしかかるといよいよ外国人の方が多いんじゃないかという風情になる。と同時に道路に並ぶ警官の姿が急に増えてくる。検問も行えるようになっている。すぐ近くに中国大使館があるためである。その後通りかかった飯倉のロシア大使館でも同じような光景が見られた。中国大使館を過ぎると六本木ヒルズが目前に迫る。開業から7年が過ぎ当初よりはだいぶ落ち着いたのだろうが、それでも観光客がたくさんいて、東京の名所として定着した感がある。ただ、こういう小奇麗な街並みを歩くのは、あまり写真に撮るべきものもなく、何か退屈なものである。やっぱり私には下町の風景の方が、はるかに心躍るものであるようだ。

六本木ヒルズから少し歩くと、東京タワーのある芝公園に到達する。東京タワーも意外なことにこちらへ来てから初めて見ることとなった。過去に旅行で訪れた際にも訪れたことがなく、取り立てて興味のなかったので、そのままになっていたのだが、近くで見るとやはりその威容を感じ、これまで長年東京随一のランドマークを担ってきた電波塔の風格を感じることが出来る。日に日に伸びている東京スカイツリーはもう東京タワーの高さを超え、最終的には東京タワーの倍近い高さとなる予定であるが、ランドマークといえば東京タワーという伝統は色濃く残るような気がしている。

近くの神谷町から日比谷線にのり、いつものように秋葉原で買い物。そこから浅草橋まで歩いて浅草線・京成線に乗り帰路につく。あまりピンとくる被写体が無く、この日は多くの枚数を撮らなかったが、写真的にはそう収穫がなくても、早めに山の手線内を制覇すべく色々歩いて、大体の土地勘をつかんでおきたいものである。

今回残したのは赤坂の一部で、後日品川・大崎から歩き回ろうと思っている。そういいつつも、久々に何度目になるか分からないが、向島あたりの迷路をさ迷い歩きたくもある。

【2018年のひとこと】
この日歩いた広尾や麻布などは自分のアンテナに全く引っかからなかったけど、それでも時間を気にせず歩き回れるというのは東京に住んでいるうちだけの特権だったように思う。今は治安的な面であまりウロウロもできないのかもしれない。
渋谷駅の再開発はだいぶ進んでいるし、東京タワー付近の神谷町付近も東京オリンピックに向けて再開発が進んでいるという。結局この日は東京タワーには登らなかったけど、スカイツリーも含めてこういう高いところに登ることは今後あるのだろうか。

 

 

 

10.06.06 赤い電車(10.05.30撮影)

東京品川から川崎・横浜・横須賀を抜けて、三浦半島の各所まで。それから羽田空港のアクセスでも多くの人々が利用しているのが、「京浜急行電鉄」。品川から先は都営浅草線や京成電鉄にも乗り入れているので、この「京急」の車両に乗る機会も非常に多い。他の会社の車両よりもつくりが格段に良いので気に入っている。
それにしても、東京周辺には数々の私鉄が走っているが、その中でもとりわけこの「京急」は鉄道マニアに人気が高いようである。いまどき全車真っ赤に塗装された(例外もあるが)高加速度を誇る車両のためか、東京横浜間の線路に迫る市街地の中を、様々な種別の列車が次々走り抜けるためか、そしてその複雑で、トラブル時には変幻自在の変化するダイヤグラムもその方面の人は楽しませているかもしれない。その秘密を探ろうというわけではないが、 5月30日に京浜急行の車両基地でイベントがあったので、 朝早くから三浦半島は久里浜まで出かけてきた。

まずは、最寄の京成立石から浅草線押上まで「普通三崎口行き(品川から快特)」、京急新1000形に乗る。さっそく京急車とは幸先がいい。このまま乗り続けても良かったのだが、押上からは「エアポート快特羽田空港行き」に乗り換える。車両は京成のもの。5月16日にダイヤ改正が行われ京急線では「エアポート快特」「エアポート急行」が新設された。京成にも羽田と成田を結ぶ「エアポート快速」というものがあるが、それとは別物らしい。しかし列車の方向幕や車内アナウンスが「快特」と「快速」統一していない。いつも通勤時には路線図を眺め続けているが、他にも普通の「快特」や「急行」などの種別があって、その複雑さにはいつも混乱させられる。これはこれで楽しいのだが、やっぱりユーザーには不便なものかもしれない。浅草線内の駅をいくつか通過して品川まで。駅のホームで「三浦半島1DAYパス」(1900円)を買う。品川から金沢八景までの往復切符と、金沢八景から先、三浦半島の各線といくつかのバス路線が乗り放題。京急系列の観光施設なども割引で利用できるようだ。ここからさっき押上で乗り捨てた「快特三崎口行き」に乗る。乗車率は100%を少し超えたくらいの結構な混雑で、金沢八景までしばらく立つことになった。

車窓からは大田区の密集市街地、多摩川を超えて川崎の街並み、そして横浜に到達する。歴史的に併走する東海道線・横須賀線を意識して、 120kmの高速度で横浜まではあっという間。これらの街も撮り歩きたいところばかりだが、まずは東京都内を巡らないとならないから、川崎や横浜などを訪れるのはだいぶ先のこととなるだろう。上大岡を過ぎる頃には住宅地の中を走るようになる。緑が急に増えてきて、山の上までびっしり住宅が張りつく様子は、東京23区内ではなかなか見られない。それにしても金沢八景を過ぎて、横浜市を過ぎ去ったというのに随分と車内は混んでいるなと思ったが、子どもの泣き声がやけに耳に付いた当たりで、ようやくこれが「京急ファミリー鉄道フェスタ」の客であることに気付かされた。案の定、イベント会場のある車両基地の最寄り駅「京急久里浜」で乗客はどっと降りる。会場に向かうバスに乗るために20分ほど行列に並ぶ。いやはや、こんなに混雑するものだと思わなかった。今更ながら京急の人気には恐れ入るものである。

バスに10分ほど乗って会場に到着。工場見学や車両撮影会、部品販売など詳述はしないが、京急の魅力にしっかりと触れることができ、 小さな子供から老齢までの様々な ファンのきわめてマニアックな会話に聞き耳を立てていて、結局その魅力は「マインド」なのかなと思った。アルミニウムに少し帯をつけるだけだったり、全面広告車も多い中、頑なに真っ赤な塗装にこだわっている。 高過速度を誇るその性能にも独特の思想があり、そこで働く人々にもプライドがしっかりあるように感じる。職人気質なようなものも感じられ、その辺がファンを引き続けているように思う。 そういいながらも、真っ青に塗装された車両に人気が集まっていたのは何だか笑える。

帰りもふたたび行列に並び京急久里浜駅に戻る。ここからは実質的な京急本線となっている久里浜線の終点三崎口に向かう。やってきたのは2100形という特急列車のようなつくりの車両で、初めて乗車したがシートの座り心地、静粛性など、追加料金無しで乗る(例外もあり)にはクオリティが高すぎるような気もして、これで通勤できるなんて、これも京急の大きな魅力となろう。そう深くはないが山の中を抜けて三崎口に着く。これまで何となく京浜急行というと海辺を走るイメージがあったのだが、三浦海岸駅付近で少し海が見えるくらいで基本的には丘陵の中を走るようだ。終点の駅の周りには町らしいものはない。というのも、この駅は「一応」三浦市中心部に至る暫定の終点となっていて、今後延伸する免許だけはあるようだが、おそらく線路が延びることはなさそうである。駅前はバスターミナルになっていて、 三浦市街地や葉山・油壺の各所、または横須賀市方面へも玄関口となっている。

その中から三浦半島の突端にある「城ヶ島」行きのバスに乗車。 古くからの観光地らしく、僕のほかにも観光客が結構乗っていた。三崎口は丘の上にあったようだ。バスは坂をどんどん降りて三浦の漁港を通り、30分ほどで終点城ヶ島に到着。周りはいかにも観光地といった感じだが、とても物寂しい風景が広がっている。これからの季節はそれなりに賑わうのかもしれないが。海岸部はところどころ砂浜があるものの、 基本的には岩礁が続いていて、荒涼な風景が広がっている。何とも寂しげで一人旅にはちょうど良いところ。もちろん人と連れ立っても良さそうなところで、今度は岬になる海風がふきつけ若干風化しつつある、こじんまりとした京急ホテルの日帰り温泉でも利用したいと思う。

穏やかな波が打ちつける海岸部や、緑の茂る散策路など島の半分くらいを歩き回る。やはり久しぶりに自然に触れたような感じがする。そのまま橋を渡って島を出て、漁港を少し撮り歩いたところで、三崎口行きのバスがやってきたので、そのまま駅に戻り、再び「快特高砂行き」(新1000形)に乗る。高砂は京成立石の隣の隣の駅だが、こんな遠くからやってくるんだなぁ。逆に普段横浜などから先に行かない人は高砂とか青砥という表示を見ても全くピンと来ないんだろうな。この日はずっと曇り肌寒く小雨が少し降る事もあったが、大きく崩れることはなく、夕暮れ近くには少し晴れてきた。堀の内で「普通浦賀行き」(2000形)に乗り換えて終点の浦賀まで。沿線の性格から水兵服の学生の姿も多い。浦賀駅も山の上にあって少しだけ街の中心部から外れているような気がする。ここはペリー来航の町として有名で、それにちなんだ案内が見られる。

造船ドックなどを見ながら浦賀湾岸を歩いていると、渡し舟の案内があることに気付く。 営業時間ギリギリだったが、呼び出しボタンを押すと程なくして渡し舟が現れて、桟橋から乗り込む。片道150円で、2分ほどですぐ対岸に辿り着く。日本各地にはまだ沢山の渡船があるというが乗ったのは初めてである。船といえば、その昼に訪れた久里浜から対岸の千葉県金谷港を結ぶ東京湾フェリーにも、1年くらい前から乗りに行きたいと思っていたが、少し大掛かりな旅になるのでなかなか実現できずにいる。

「普通品川行き」(新1000形)に乗って堀の内に戻る。ここから「快特品川行き」に乗って次の乗換駅である金沢八景に向かったが、また2100形であまりの快適さで眠り落ちそうになる。金沢八景からは「エアポート急行新逗子行き」(2000形)に乗り換えて終点の新逗子まで。もうすっかり日も落ちていたので周囲の様子はなかなか伺えなかったが、やはり山と住宅街の中を走っていたようである。新逗子駅からだと鎌倉も程近いようだ。これで三浦半島の京急全線を乗り切ったことになる。すぐに折りかえし「エアポート急行羽田空港行き」(2000形)に乗って京急川崎まで。ここはもうフリーパスのエリア外だが大師線にも乗ってみる。

大師線は京急川崎から小島新田までの全長4.5キロのごく短い路線で、 ほとんどが線内折り返しの普通列車で使用車両は1500形のみのようだ。 ここも周囲の様子はほとんど窺い知る事は出来なかったが、新ルートにて地下化工事が始まったということで、数年後にはこの沿線風景が見られなくなるようなので、川崎大師への参拝を兼ねてまた訪れたいものである。

空港線はたまに利用するので、これにて京急全線を乗り通したことになる。だからどうということもないが、これでひとつまた僕の好きな「私鉄」というものを体感できたような気になる。ちなみにこの後川崎から「普通品川行き」(800形)で終点品川へ向かい、 この駅にある京急系列のスーパーで買い物。場所柄を反映してか高級食材も多かったが、 まぁここまで京急に染まってしまえばもう沢山だろう。この後も「普通印旛日本医大行き」(600形)で立石まで、全く家に帰るまで京急京急である。

そういえば、 通勤で使う京成やこの京急の他には小田急や京王、東急、東武とかがあるけど、 西武には全く乗ったことがないな。メトロにも乗ったことのない路線がたくさんあるし、別に「乗り鉄」という自覚は全くないのだけど、東京を知る上でやはり「私鉄」という、独特の街のキャラクターや文化・生活を作り上げてきた存在として、しっかり体感しなくてはとは思っている。

【2018年のひとこと】
中途半端にマニアックだったり、いつもよりも客観性に欠く文章なので収録するのはやめようかと思ったけど、城ヶ島や浦賀を訪れた記録は残しておきたかったので一応収録。三浦半島はとても気に入ってその後も何度か訪れた。

 

 

 

10.06.07 葛飾の旅(10.06.06撮影)

今日は都電荒川線の荒川車庫でイベントがあり、その見学がてら沿線を撮り歩こうかと思っていた。京成本線に乗るために青砥駅まで向かったが、道すがら色々撮り歩いたこともあって時間が思いの外かかり、イベントの時間に間に合わなさそうだったので、荒川区へ向かうのはやめにする。思えば、一度こちらに越して来てから一度亀有に出かけたくらいで、普段は家の周りの立石・四つ木、荒川土手を撮り歩くだけである。

そういうわけで、今日は葛飾区の各所を巡ることにした。青砥駅から京成線に乗り隣の京成高砂駅まで。この駅から京成本線成田方面、京成金町線、北総鉄道線がそれぞれ延びているが、その中から金町線を選ぶことにした。金町線は京成高砂から京成金町までを結ぶわずか2.5キロメートルの路線であるが、唯一の途中駅として柴又駅があるために、観光客の利用が大変多く、ほとんどの乗客は柴又駅で下車することとなる。葛飾というと真っ先に連想されるのがこの柴又である。元々金町線は帝釈天への参詣用の人車鉄道として開業したものだし、映画「男はつらいよ」にもこの金町線はよく登場する。

しかし、この柴又も訪れるのは初めてである。駅からすぐ参道が延びていて2~300メートル歩くと帝釈天に突き当たる。参道は浅草仲見世のような雰囲気で所々醤油団子の匂いが立ち込めている。猿回しなどで賑わう境内の見学はそこそこに、次は金町線の終点である金町駅まで歩き始める。単線に時折列車が走る以外は至って普通の住宅街である。金町駅に辿り着いてしばらく駅前を撮り歩くと、大きな団地があることに気付く。駅のすぐ傍に広いオープンスペースがあるから、何だかニュータウンの駅のようでもある。この公団金町駅前団地は昭和42年入居開始とのことで、他の団地にはない独特のデザインが魅力的であった。

金町駅から常磐線に乗って隣の亀有駅まで。また駅周辺から撮り歩こうと思っていたが、何だかこの辺で力が抜けたようになってしまって、しばらく動けなくなってしまった。激しい頭痛が伴うこともしばしばだが、これも夏独特の症状。思えばこの日の気温は最高25℃でほとんど夏といってよいものである。しばし休憩にして、駅前の商店街で買った鯛焼きを食べながら活動再開。この亀有も柴又と並んで全国的に著名な葛飾区の地名である。その発端となった漫画「こちら葛飾区亀有公園前派出所」関連の、銅像(最近ニュースにもなった)や関連商品の販売などで、すっかり観光地のようになった感もあるが、基本的にはちょっとした歓楽街と古めかしい商店街の広がる、東京の郊外らしい街である。

ここから隣の綾瀬駅周辺までは歩くことにする。ちょうど葛飾区と足立区の境界線あたりを歩いたことになるが、この辺りもごく普通の住宅街が広がるばかりであまり面白味はない。ここも常磐線でショートカットした方がよかったかな。ようやく綾瀬駅に到達。この駅の周辺にもちょっとした歓楽街がある。そういえば、東京ではある程度の規模の駅になると、必ず風俗店を見かけることがあるが、札幌ではススキノを除けばそういう例が無かったのでカルチャーショックであった。

首都高速をくぐると、再び葛飾区小菅に入り、やはり「小菅」というとすぐに連想される東京拘置所が聳え立っているのが見える。といっても、一般的な拘置所のイメージとは離れた、高層マンションのようになっていて、隣接する竣工間際の公務員宿舎とも相まっていよいよ刑務所らしくない景観を示している。また、刑務所の象徴のように思われる高い塀も少し前にすっかり撤去されたらしい。面会用の門前には「差入屋」と呼ばれる商店が2軒ある。いずれも今日は休みだったが、その名の通り「塀の中」に差し入れるためのものを販売するところで、細かい規定に沿った商品が揃えられているという。こうしてみると葛飾区も結構見所が多いものである。

近くの路地で「電波系」と思われる人にひっかかりながらも、荒川土手に出て小菅ジャンクションや京成本線の鉄橋などを見る。やっぱり夕暮れ時にはここを訪れるのに限る。この先の堀切ジャンクション付近はこの前にも訪れた。土手を降りて少し歩くと堀切菖蒲園に至る。ここは江戸時代より数多くの浮世絵などにも登場するアヤメの名所という。アヤメはちょうど見頃で今月初旬から「葛飾菖蒲まつり」も始まったところである。およそ2000株あるというが思ったよりも規模が小さかったような気もした。閉園間際に訪れたので、ざっとだけ見て最後の目的地となった四つ木のスーパーに着いて、色々買い物をして帰ってきた。

それにしても暑い一日だった。思えば6月に入ったわけで、こちらではもうすっかり夏といって良い季節である。体調的にはあまり得意でない夏だが、都市の写真を撮るには最適な季節。今日みたいに近所をじっくり歩いたり、全く知らない街を歩いたりと、残り少ない日々を無駄にはしたくないものである。

【2018年のひとこと】
せっかく葛飾区に住んでいたのだから、柴又・亀有・堀切菖蒲園などと名所巡り。何と言っても立石の飲み屋街もあるし、家賃も安いし、治安もそこそこなのでもっと長く暮らしたかったものだ。

 

 

10.06.13 入梅前の東京(10.06.12~13撮影)

6月12日(土)
いつもは土日の休みのうちどちらかだけ出かけることが多いが、この週末はどちらも出かけることとなった。土曜日は早めに出かけようと思っていたが、ある事情から朝まで眠りにつけず、起き上がったのは正午近く。この日は晴れで、翌日は雨だというので洗濯を済ませて、部屋を出たのは15:00頃。この時間でもなかなか暑い。28℃くらいあるようだ。

元々の予定では八広から京成曳舟あたりから、墨田区の北部を歩いて北千住を経て南千住あたりまで行こうと思っていたが、あまりにも暑いので京成曳舟から少しだけ歩いて、東武鉄道の曳舟からさっそく電車に乗りこむことにした。少し前から気になっていた堀切駅まで乗ろうと思ったが、その一つ前、鐘ヶ淵駅のあたりも面白そうだったので、途中下車して周囲を歩き回ることに。やはりこういう私鉄のあまり大きくない駅に、ちょっと集まっている市街地というのはたまらなく好きなものである。「鐘ヶ淵」という地名が発祥となった「カネボウ(鐘ヶ淵紡績)」の工場を見ながら、迷路状になった路地を歩き回る。前時代の建物が残っているのはもはやこの地域では当然なので、今更驚けなくなってしまったが、この日は地域の神社の例大祭だったらしく、路地で遊ぶ子どもたちに混じって浴衣姿の人々もあるいていて、いよいよ、「今年は昭和何年だっけか」という気になってくる。いつも迷ってしまい、まだ地域の全容を知るには至っていないが、ここは東京に残された隠れ里のような場所である。

荒川の堤防沿いに敷設された線路に沿って歩くと堀切駅に到達する。駅のすぐ傍に大きな水門があって、本当に川沿いにあるような駅である。駅前にラーメン屋が1件あるだけで、市街地からも少し離れていて地方に来たような気分になる。この独特の雰囲気からか、小津安二郎の映画「東京物語」やテレビドラマ「3年B組金八先生」にも登場し、駅のすぐとなりには「桜中学校」のモデルとなった中学校もあるのだが、今では廃校となって私立大学となっている。日光へ向かう特急などの列車が次々行きかう線路の上には首都高速が走っているが、その他は荒川の河川敷が広がるだけで、非常に開放的である。対岸には堀切ジャンクションがあって、先週はこの辺を歩いた。やはりこの辺が東京で一番好きな場所かもしれない。ちなみに駅名の「堀切」は対岸の葛飾の地名で不自然に感じるが、これは鉄道より後に荒川が開削され分断されたためである。

少し歩くと京成関屋駅に辿り着く、通りを挟んですぐ向かいには東武の牛田駅があって容易に乗り換えることが出来る。しばらく見ていたが、結構な乗換客がいる。後で知ったことだけど、歌手の尾崎豊が不自然な死を遂げた「尾崎ハウス」が近くにあるらしい。やはり庶民的な商店街を歩くと、北千住駅へと至る。古くは東北や日光へと向かう宿場町として栄え、今ではJR常磐線・地下鉄日比谷線・地下鉄千代田線・東武伊勢崎線・つくばエクスプレスが集まる、東京の北の大きなターミナルとなっている。ルミネやマルイのようなデパートもあって、足立区らしくないと思ってしまうような都会の様相を示している。あまり大きくない県庁所在地の中心駅のような感じ。しかし、周囲の飲食店街には下町の風情がしっかり残っている。狭い路地に居酒屋・バー・焼肉店・風俗店などがひしめいている。路地の植え込みが鬱蒼と生い茂り、その中に数件の焼肉店があるなど、他では見られなかった光景もある。

他にも商店街がしばらく広がり、そのままこの千住地区を取り囲む荒川・隅田川のいずれかの河川敷でも見に行きたいとも思ったが、次の予定もあったし、何より暑さで疲れてしまったので、さっさと常磐線に乗って日暮里まで向かった。何度も訪れた墨田区北部の「墨東」もそうだが、この千住や町屋あたりも含めまだまだ歩き足りないと感じている。他にも行きたいところは沢山あるのだが、自宅から周りの地域をとことん深めるのもいいかもしれない。

日暮里で友人Hと合流して、来月の旅行の計画を立てながらしばらく飲む。2軒目には日暮里駅前のビルの屋上のバーに行って、涼しい夜風にあたりながらビールを飲む。日暮里舎人ライナーの駅が眼下に見えるだけで、特に眺めなどはよくないのだが、外で飲むというだけで素晴らしいものである。

日暮里から京成本線に乗って青砥まで。そこから中川沿いの風景などを長時間露光で撮影などしていたが、どこかで(それでも自宅のごく近所だが)道を間違えたらしく、結構な時間をかけて部屋に戻ってくることとなった。部屋の周りでも、中川が大きく湾曲するあたりは路地が複雑になっていて、迷ったのは何も酔っているためだけではあるまい。

 

6月13日(日)
姪の誕生祝いをはじめとして、いくつかの買い物があったので日曜日も昼過ぎから出かけた。まずはいつも利用する人形町で降りて、周囲のスナップをしながら日本橋三越へ。ここでは気に入ったものが無かったので、日本橋から神田を経由して秋葉原まで歩くことに。このコースもたまに歩くことがあるが、写真を撮るにしてもやはり面白いところである。秋葉原の喧騒を抜けて、さらに混雑する勝手知ったるヨドバシカメラに行くが、やはり目的のものは見つけられず日比谷線で銀座まで。開放的な歩行者天国を歩きながら、何件か回って、結局銀座三越で目的のものを買い求める。その後はいつも行くような店で服と靴を買って帰路に。やっぱり銀座の街を歩くのも楽しい。

ちなみにさっきのヨドバシもそうだったが、アップルストアでは先日発売された「iPad」を試用する人で大変混雑していた。いまいち機能を理解していないためではあるが、今のところ「iPad」はしばらく自分には必要なさそうなものである(数年後電子書籍がもし一般的になったら考えるだろうけど、その頃にはもっと良い物もあるだろう)。日曜日には雨になるといわれていたが、結局夜に少し降っただけである。

しかしながら、来週はほとんど雨で次の土日も天気は良くなさそうで、どうしようかと色々考えている。そろそろ梅雨にも入ってしまうようで、撮影が進まないのもあるが(僕の場合、雨の日の写真はほとんど撮らない)、この蒸し暑い中また体調を崩すのでは無いだろうか、というのが一番の心配である。

【2020年のひとこと】
やはり梅雨時のべったりとした蒸し暑さは内地独特のもので大変だったけど、蒸し暑い夜の日暮里のビルの上でビールを飲んだときのことを今でも覚えている。姪が生まれて今年で10年。iPadも発売されて10年。タブレットはいまだに導入していない。

 

 

10.06.20 湾岸散歩(10.06.19撮影)

今日は自宅にいるつもりであった。折からの梅雨前線の影響でこの土日は強い雨となるという予報を信じていたために、結局正午過ぎまで蒸し暑さに苦しみながら寝ていたが、カーテンを開けてみると少し雲は多かったが、概ねよい天気といえるような様子であった。こうなればさっそく出かけたいところだが、どういうわけか平日の疲れが大変溜まっていて、充分寝たというのになかなか動き出すことができない。また、外の30℃ほどあるという気温の中を歩くという気にもなかなかなれない。それでも天気の良いうちにと洗濯と食事を済ませ、15:00過ぎに部屋を出ることに。

まだまだだいぶ暑くて駅に向かうだけでも汗まみれになってしまう。でも、ピークよりはだいぶ和らいでいるだろうから、夕方近い時間に出かけて正解だったかもしれない。さて、どこに出かけようか、と電車に乗ってから考え始めることに。本来ならばこういう時間の無い時は近所がいいのだろうが、少しでも涼しい風にあたれるところと考えて、海の近く、江東区の東京湾岸でも歩くことにした。4月20日に葛西に出かけたときに京葉線で走り抜けたあたりを、一度よく見たいとも思っていた。

浅草線を蔵前駅で降りて、長い地上乗換えを経て大江戸線へ。門前仲町で降りる。本当は、清澄白河あたりで降りて、深川の街歩きも兼ねて行いたいと思っていたところだったが、暑さで体力に不安があったのと、日没が近いために門前仲町から海辺に向かって急ぐことにした。それでなくても、深川の町には今後何度も訪れることになるだろう。暑さの中歩きながらふと考えたが、このあたりでは運河ばかりで厳密にいえば海を望むことができない。対岸の晴海や台場辺りに行かないと見ることが出来ないが、気にしないことにした。

時折渡る運河からは生ぬるいながらも風が吹き渡り、若干の涼を感じることが出来る。越中島に至り、倉庫や工場、それから古い都営住宅の中を歩く。江東区内には築40年以上の貴重な団地がたくさんあるようだ。枝川に至り高速道路の下をしばらく歩くと、潮見にたどり着く。ここにある公園でしばらく海を眺める。すぐ対岸にはマンションが並んでいるが。さらに運河を渡って辰巳まで。「辰巳一丁目アパート」とよばれる、広大な団地が広がっている。後で調べたところによると、昭和42年から44年にかけて建設されたもので、竣工時の姿のまま老朽化しているという感じである。立ち並ぶ4階建てほどの低層棟と、後ろにひかえる壁のような高層棟。団地の象徴のような給水等に、団地の中央部には商店街が並んでいる。

これまで見知った団地の特徴が全て揃っている「完璧な団地」。多摩ニュータウンでも見られなかったようなものがある。色々なところを歩いて最近ようやく気付いたことだが、都心に近い(それでいて適度に離れている)場所の方が、昔日の姿を残す物件が多いようである。この辰巳一丁目アパートのほかにも今日は、いくつかの興味深い集合住宅を見ることが出来た。対岸のここ数年内に建てられた超高層マンションとの対比も面白いが、幸いなことに建替え等の計画は今のところないようで、また後日見に来ることができる。
少し歩くと有楽町線の辰巳駅に到達する。ここから有楽町・永田町を経て池袋、埼玉県和光市まで行くことが出来る。駅のロケーションは埋立地の突端で水門もあるようなところだが、すんなりと地下に駅を作ることが出来たのだろうか。

斜張橋を渡って最後は「キャナルコートCODAN」を見学する。平成15年に完成した、伊東豊雄、山本理顕など現代日本を代表する建築家が設計した、最新のデザイナーズマンションである。団地内には商店街が延びていて心地よく歩くことの出来る空間が広がっている。隣接してショッピングセンターがあり、背後には民間の超高層マンション(36階建てという)が聳えている。建設中のものも1棟あったが、あれは以前民主党政府による事業仕分けで贅沢すぎると断罪された公務員宿舎だろうか。

確かに六本木ヒルズのような住むことがステイタスになるような所だが(家賃もべらぼうというほどではないが安くは無い)、本質的にはさっき歩いた老朽化した辰巳アパートと同じ。こちらのキャナルコートには緑が少なく、それが必要かどうかはさておいて、その街の持つ歴史や、悲哀のようなものを感じることができない。あまり新しいものに馴染めない人間にとっては、いくら快適でも住んでいてあまり面白いところではないかもしれない。周囲にも同じような真新しいマンションや、次の建設を待つ広大な空き地が広がるばかりで、殺風景といえば殺風景であるし(その殺風景さもいいものではあるが)。この最新の街の50年後をもし生き延びていたら見てみたいものである。

すっかり日の暮れた中を、豊洲駅まで歩いて有楽町線に乗る。隣駅の月島で大江戸線に乗り換えて、(本日2度目の蔵前乗換えは面倒なので)大門から浅草線に乗換え京成立石に到着。PASMOを見ると月島からここまで100円しか引かれていなかった。人形町からの定期券も含んでいるので、そこから先は当然かからないはずだが、月島から人形町の運賃が100円のはずもなく、履歴を印字して色々研究してみたが、降りてもいない東日本橋の印字があったりして良く分からなかった。

【2018年のひとこと】
当時再開発が進行していた湾岸地域。その後の震災で地質的なリスクも露呈したが、きっと今でもタワーマンションは人気なのだろう。辰巳の団とも含めてここも50年後といわず近いうちにまた見てみたい。

 

 

10.06.28 misty(10.06.27撮影)

金曜日は大学の友人と北千住で飲んで、蒸し暑さの中立石の自宅に倒れこむ。翌日はゆっくり寝ていたが、何故か全身の痛みというか、妙な違和感のためあまり動く気がせず(前日から兆候のようなものはあったが)、雨も少し降っていたので部屋で洗濯や、色々片付け物をしていた。

日曜日こそは早く出かけようかと思ったが、やはり蒸し暑い中あまり出歩く気もしなかったが、友人と合流しようと思って午後から水道橋に。ここから少し歩いて、飯田橋・神楽坂あたりを撮り歩いているうちに連絡があったので、大手町で合流。丸の内にある事業仕分け問題にゆれるJAXA(宇宙航空研究開発機構)のショールームを見学する。人工衛星「はやぶさ」のニュースの影響もあるのか、なかなかの盛況ぶりだった。

見学を終えてどこか街に出ようかと思ったが、この蒸し暑い中歩く気はせず、何か未乗の路線でも乗りに行こうかという話になり、日暮里まで出て、新交通システムの「日暮里舎人ライナー」に乗車する。高い建物の無い下町の風景や、大きく視界を開ける荒川河川敷の風景が広がる。終点の見沼代親水公園は何とも中途半端に見える場所に存在しているが、ここから数100メートル歩くと埼玉県と東京都の境界があるためである。県境にあるマクドナルドで少し休憩して、再び日暮里舎人ライナーに乗って、荒川のそばの扇大橋で降りて、周囲の風景を撮り歩く。やはりこの川沿いの光景というのが、東京で一番好きなものかもしれない。足立小台からまた電車に乗ってすぐに熊野前で降りる。ここから都電荒川線に乗り換えて、終点三ノ輪橋まで。商店街の中にある蕎麦の名店による。三ノ輪橋からバスに乗って浅草雷門。浅草から地下鉄を乗り継いで岩本町(秋葉原のすぐそば)。やや微妙なメイド・バーで飲んで、上野・浅草と回って友人と別れる。

なかなか充実した休日を過ごしたはずだが、結局疲労感は少しも取れなかった。眠りの質もどうにもよくない。おそらくこの高温多湿の気候のためだろう。かといって、冷房の効いた部屋にずっといるのも、具合が良くないので扇風機を回して対応している。平日が忙しいのは仕方ないが、休日もまともに動くことができないようでは、果たしてこの夏は体力的にもつのだろうかとはなはだ不安になる。

【2018年のひとこと】
とにかく身体に合わなくて毎日体調が悪かった梅雨時の頃。それでも色々と出掛けていたようだけど、この気候のことがあるから、また東京で暮らすというのはやっぱり難しいのかもしれない。

 

 

 

10.07.04 World’s End(10.07.03撮影)

今週も起きたのは正午過ぎ。特に今週は身体に堪えることが多く、やはりこの高温多湿な部屋ではあまり休まる感じがしない。冷房をつければ逆に乾燥してしまいどうもよくないし。14:00過ぎに部屋を出て、地下鉄で三田まで出る。そこから15分くらい歩いて、高層マンションの間をモノレールが走り抜ける芝浦の、「フォトギャラリーインターナショナル」に向かう。こんなところにもギャラリーがあるとは。今回見たのは、川田喜久治の「World’s End 2008-2010」どういうわけか、特にこちらへ来てからギャラリーに足を運ぶ習慣がなくなってしまったのだが、この写真展は是非見たいと思った。川田喜久治は東松照明や奈良原一高などともに「VIVO」で活躍した写真家で、特に1965年に発表された「地図」が著名である。「地図」は一度初版本を手にしたことがあるけど、装丁も大変凝っていて日本の写真集の歴史の中でも、記憶されるべきものだと思う。今回の作品は近作であるが、独特の画面構成やノイジーさはそのままである。デジタルカメラが効果的に用いられている。カラーとモノクロは半々くらい。久々に綺麗なプリントが見られ、刺激が与えられた。

ギャラリーを出て埋立地の街をしばらく歩いて品川駅に出る。古い東海道筋に出て京急の北品川駅あたりまで。大きなターミナル駅のそばであるが、昔ながらの商店や一般的な住宅街が広がっている。雨がほんの少しだけ降る中しばらく歩いて大崎駅付近まで。駅の周りには再開発ビルなどがあるが、かつてこの街は工場地帯であったという。今もその名残がいくらか見られる。

更に歩みを進めて五反田駅まで。駅周辺の歓楽街を撮り歩いてビルの4Fにある東急池上線の五反田駅に。そう広くないホームはすぐに人で一杯になる。運用されている電車は3両編成で、どちらかといえば軌道のような感じもする。車内に腰掛けて割とすぐに眠ってしまったが、何度か途中下車してホームなどを撮影して終点蒲田へ。想像していたより規模の大きな頭端式ホームを持つ駅で、JRにすぐに乗り換えることができるようだ。周囲の街並みも大変面白そうだったが、雨も降り始め日も暮れたところだったので、次の機会にすることにしてここから同じく東急の多摩川線に乗り換える。終点の多摩川までは10分足らず。次は目黒線に乗り換えて、そのまま直通先の都営三田線三田駅まで。浅草線に乗り換えて帰路に着く。東急はあと今日乗った目黒線の多摩川から日吉まで、田園都市線の二子玉川から先、終点の中央林間まで乗れば全線制覇になるようだ。

写真としては大きな収穫はなく、また、色々考えなければならないことが増え、精神的には決して良好とはいえないが、とりあえず電車にでも乗っておけば気にすることはなくなる。

【2018年のひとこと】
東京転勤を告げられ、(部屋も自己調達しなければならなかったので)色々と条件を入れて最初に部屋を探したのは、田町・芝浦界隈だった。家賃も比較的安く、浅草線に乗れば日本橋の会社まで一本で行けたし、羽田空港へもアクセスしやすいと思ったからだ。結果的に全く違う町に暮らすことになってそれが大正解だったわけだが、東京湾に近い場所で暮らすという憧れも(もっともそのマンションは首都高速の真横だったが)ちょっとだけ残っている。

 

 

 

10.07.13 すみだ川(10.07.11撮影)

水神大橋 桜橋 (言問橋) 東武伊勢崎線橋梁 吾妻橋 駒形橋 厩橋
蔵前橋 総武線橋梁 (両国橋) (首都高速両国大橋) 新大橋 清洲橋
隅田川大橋 (永代橋) (相生橋) (中央大橋) (佃大橋) 勝鬨橋

これらは墨田区から中央区東京湾まで隅田川に架かる橋で、括弧で閉じられたものは私が渡ったことのないものである。こうして見ると、隅田川はよく訪れているつもりであるが、渡ったことの無い橋も少なくない。また、水神大橋より上流の荒川区・足立区・北区に架かる橋の数々は、訪れたことのないものばかりである。この前の日曜日にこれらの橋を真下からくぐる機会に恵まれた。ある人に誘われて隅田川を行き来する屋形船での宴席に参加することに。

地下鉄蔵前駅に集まって、すぐ近くの厩橋を渡って発着場へ。屋形船はまず、浅草方面へ遡上する。建設中の東京スカイツリーを望んだところで再び河口に向かってターン。数々の橋梁を次々にくぐっていく。隅田川に架かる橋の多くは震災復興事業で架けられたもので、趣のあるリベット打ちの鉄橋ばかりである。時折散歩に出かける河岸の風景も、船から見ると全く異なるものになる。河口に近づくにつれ高層ビルが増えてきて、豊洲・有明などの新開地の脇を通ることになる。船は台場付近で一度停泊する。ここまでくれば完全に湾内なので、広々とした景色が広がる。周りには他にもたくさんの船が浮かんでいて、先にはお台場海浜公園のビーチには、多くの人が出ている。自衛隊の艦船も見える。あまりにも有名なフジテレビ本社屋などの高層ビルが見える。大観覧車も近いはずである。全くの想像でしかないが、ニューヨーク市にあったコニーアイランドは、このような雰囲気だったのだろうか。

曇り空で時折小雨も降る天気であったが、いかにも楽しげな東京らしい水景である。その地名の由来となった「台場」(幕末に建設された砲台跡)を間近に見ながら、再びレインボーブリッジをくぐり隅田川を遡上する。そこから終着の厩橋まではあっという間。船の揺れとも相まって昼間からあっという間に酔っ払ってしまった。初対面の人も多かったが、大変楽しく酒を酌み交わし、下船してからは蔵前駅近くの居酒屋へ。本来ならば多くの人と色々な話をすべきであるが、久々に会った大学の後輩と実にマニアックな話に終始することに。ここでもだいぶ飲んでラーメンを食べて家に帰ったが、それでもまだ午後8時というのは何だか不思議な感覚である。そうはいいつつも、大分酔ってしまったので、選挙特番もそこそこにさっさと眠ってしまった。

この日に備えて、永井荷風の「日和下駄」と「夏の町」を読んだが、その頃の風光明媚な隅田川の様子はもう失われたとしても(既に作中でも過去への憧憬である)、この川の存在はとても大きなものである。以前にも記したが、世界の様々な例も見ても、大都市の成立に河川は欠かせないもので、磯ともドブともつかない匂いを発する隅田川であるが、数々の鉄橋やめまぐるしく変わる都市の風景など、ハドソン川にもセーヌ川にもテムズ川にも負けない存在であると、ひそかな誇りを持ちたいものである。そして、いつの日か船で自由にこの川に漕ぎ出し、隅田川に限らず数々の運河も縦横無尽に走破したいものである。

【2018年のひとこと】
なんだか、やけに壮大な夢で書き終えているが、それほど屋形船遊びは印象的だったのだろう。ましてやいくつかの友人グループ乗り合いとはいえ貸し切りの宴会というのはもう得られない経験かもしれない。だいぶ飲んでいたのでどんな話をしていたのかは覚えていないけれど。
これも何度も書いているかもしれないが、やはり自分は街を捉える基本線に川というものがあって、まずは川沿いを歩いてみようとするので、ある人にひどく呆れられたこともある。

 

 

 

10.07.17 三浦まぐろづくし(10.07.17撮影)

この東京の暑さにはすっかり参っていた。夜は寝苦しく、朝から汗だくで出社し、夜まで肌寒い冷房の中で勤務する。夜中でも以前蒸し暑く、また眠れない夜が続く。そんな日々が続いていたが、今日で大方梅雨は明けたらしく、久々に湿気の無い爽やかな暑さを体感できた。

今日は友人と連れ立って三浦半島へ。今回は京急電鉄の「みさきまぐろきっぷ」を利用する。京急線内の発駅から三崎口までの往復乗車券、三浦半島内での京急バス乗車券、日帰り温泉などの施設利用券、1500円相当のまぐろ料理食事券がついて一人2,980円と大変お得な切符である。品川から快特に乗って途中何度か乗り換えて、まずは終点「三崎口」の一つ前「三浦海岸」で下車する。そこである寿司屋に入って三崎まぐろや地魚の寿司12貫とグラスビールを、企画切符で注文する。久々に寿司を食べたが、北海道の寿司に劣らず美味である。

その後三浦海岸海水浴場に出てビーチをしばらく散歩。海水浴客で賑わっていて、気温30℃の晴天の下本当に気持ち良さそうだ。準備があればすぐにでも海に浸かりたいところである。この三浦海岸海水浴場、なかなか良さそうな海水浴場に思えるが、湘南などに比べると人でぎっしりということもなく、まだまだ余裕があるように感じられた。時期的なものもあったのかもしれないが、もしかしたら穴場なのかもしれない。潮風も心地よく、こちらで初めて夏が快いと感じた。

再び三浦海岸駅に戻りそこから一駅だけ乗って終点の三崎口へ。駅に降り立ったのはおよそ2ヶ月ぶりである。その時訪れた城ヶ島ではなく、今回は油壺に向かうことにして、バスに乗り込んだ。油壺はマリーナや別荘地で知られるリゾート地で、御用邸のある葉山も近い。しかしながら、観光施設といえば油壺マリーナと、水族館の京急油壺マリンパークがあるくらいで、あとは畑と一般家屋、それから別荘が続くという、長期滞在には最適な歴史を感じる静けさがあった。

ホテル京急油壺を訪れ、日帰り入浴を利用する。ここの風呂は温泉ではなく、海水を沸かしたものらしい。確かにかなり塩辛い。ここでしばらく休憩して、再びバスで三崎の街に戻り、もう1件レストランに立ち寄り、夕食もマグロ料理とする。レストランからの眺めの合間には、大変美しい夕日が見られ、海の向こうにある富士山も意外なほどのスケールで、こちらに対峙している。しかし、角度など「絵になる」場所とはいえず、カメラを向けることはなかった。

三度、三浦海岸駅にたどり着き、クロスシートで快適な快特列車で品川まで。京急電鉄の演出する三浦半島の魅力。決してメジャーな場所ばかりとはいえないが、安価な値段でしっかり満喫することができた。日本の鉄道会社には、古くから有名な観光地、社寺仏閣にアクセスするために建設されたものが大変多くあり、また、鉄道会社が主体となって開発された観光地というものもたくさんある。特に私鉄会社ではその会社ごとの個性のようなものがあって、そのような日本独特の「文化」のようなものに、これからも触れていきたいと思っている。次は東武鉄道で日光、もしくは京成電鉄で成田あたりだろうか。

【2018年のひとこと】
前回訪れて気に入っていた三浦半島へ。このように割と地味ながらゆったりと楽しめる場所であるので、機会があればまた訪れてみたいとは思っているが、結局首都圏に暮らしていなければ、なかなか行くという気にはならず、その優先順位は上がることはないだろう。しかしこの三浦半島と、この後に訪れることになる房総半島の夏は北海道とはまた違った独特の心地よさがあった。

 

 

 

10.07.19 湾岸ドライバー1(10.07.18撮影)

この三連休、最初の日は三浦半島に訪れたことは既に書いた。2日目の日曜日(18日)は、午前に秋葉原に出る。ここで札幌からの友人Tと合流する。今日はレンタカーを借りて都内を回ることにする。

東京という都市を捉える上で、その主な軸になっているものは地下鉄などの鉄道だと思うが、もうひとつの骨格になるものは高速道路だと思っている。また、首都高速からの東京の風景も是非見てみたかった(今年の元旦に一度夜の首都高をクルーズしているが)。しかし、自家用車を持たない現状としては、なかなか首都高を走る機会がなく、またその必要もないため、今回はその一部でしかないが、首都高を走ってみることにした。折角なのでカメラのリモートコントローラーを買い求めて、後部座席に三脚を組んで車窓を撮影できるようにした。秋葉原を出て日本橋付近から首都高に乗ろうと思ったが、入口を誤ってしばらく日本橋付近をウロウロ、そうしているうちにセットしていた三脚も倒れ、勤務先の前で直したりしているうちにもう正午になっている。

ようやくのことで1号本町入口から首都高に入り、すぐに江戸橋JCTに至る。なかなかに複雑な構造をしている。近くにある箱崎JCTも複雑怪奇で、とても走りこなせる自信はない。ちなみに江戸橋ジャンクションに関しては本町から入ればさして難しくはない。順調に京橋JCT、(汐留)浜崎橋JCT、(麻生)一ノ橋JCT、(六本木)谷町JCTを経て、都心環状線から3号渋谷線へ。想像していたような混雑は無かったが、次々に分岐や合流が現れ、ナビゲーション無しでは走りこなすのは難しい。普通の高速道路のように左車線から出ればいいというわけでもない。しかしながら、ナビの扱い方に慣れていないせいか、その指示の仕方に戸惑うことが多く、その後も何度か困ったことになる。これなら地図を片手に走った方が良かったかも…。

それにしても、東京タワーや六本木ヒルズや沿道に立ち並ぶビル群など、これまで見たこと無かった角度から東京の景色が高速度で次々と通り過ぎるのは面白い体験である。次は(適度に空いている)夜中に走ってみたいものである。3号をしばらく走ると、大橋JCTに至る。ここは今年の3月に開通した中央環状線に接続するもので、らせん状の導入路が非常に特徴的になっている。しばらくグルグル回り続け、中央環状線山手トンネルへ。ここは西新宿まで10キロメートルも続く、長大なトンネルとなっていて、かなりのスピードが出せそうな感じがする。あと3年後にこのトンネルが大井まで延びたら、中央環状線が完成する見込みである。そうなったら、自動車トンネルとしては日本一の総延長になるらしい。中央環状線を初台南で出て、すぐさまUターンして大橋JCTに戻る。また3号に入って用賀出口で降りるとほどなくたどり着くのは砧公園。

緑の中を歩いて訪れたのは世田谷美術館。25日まで開催されている「フェリックス・ティオリエ写真展」を見る。19世紀末~20世紀初頭に活動していた写真家で、8×10などポジも含まれた原版による美しいモノクロプリントが印象的である。とりわけ万国博覧会の頃のパリの風景に非常に魅かれた。美術館を出て若干流れの悪い環八通りを走って、川崎市の工業地帯に到達する。ここで車を停めて周囲を撮影するはずだったが、どういうわけか高速に乗ってしまい、やはり複雑怪奇な浮島JCTから湾岸線に入ってしまう。どうしようか考えているうちに、すぐに空港出口を過ぎてしまい、どんどん都心に向かって行く。仕方がないのでそのまま湾岸を進むことにした。それにしても大変眺めの良い道路である。いくつかの海底トンネルを抜けて、お台場の臨海副都心・レインボーブリッジなどが次々と迫ってくる。この前は屋形船で通ったところだ。これも何とも東京らしい光景に感じられ気分は高揚する。ほどなく新木場に到達し、ここで高速を下りる。

次に向かうのは東京湾上の埋立地である若洲へ。まだ造成の進む中央防波堤外側処分場と並び、最も海側にあるまさに東京最後のフロンティアといったところである。島には工場や倉庫の他、本格的なゴルフコースやキャンプ場があって、対岸の東京のビル群を前にアウトドアを楽しむことができる。突堤には家族連れを中心に釣り人が沢山糸を垂らしている。今年中に完成するという東京臨港大橋が公園のすぐ上で建設されている。完成すれば湾岸線をさらにショートカットすることになるようだ。橋梁の様子や西日の照りつける東京の街を汗だくになりながら撮影。今までもそういう機会があったが、海から眺める東京の街並みは、海上の大都市でもあるアイデンティティを見るようで大変好きである。隅田川もそうだが、やはりだだっ広い水域というのがいいのかもしれない。

そんな街並みに沈む夕陽も見たかったが、時間の関係もあったので、葛西のジャスコに買い物に出かける。車が無いとなかなか大きい買い物ができないので、やはり車はいいものだが、都内の一般道を走るのは億劫なものでもある。立石に戻って銭湯に行って、部屋で焼肉を焼いて、酒を飲んでこの日は終わり。翌日は早めに出かけることになる。

(つづく)

 

10.07.19[2] 湾岸ドライバー2(10.07.19撮影)

今日(19日)は朝6時に出かける。友人を羽田空港まで送るためである。自宅近くの四つ木入口から入って、荒川堤防上の景色のいい道路を走る。流れも大変良い。また湾岸線を走って、当初予定の20分ほどで羽田空港に着く見通しであったが、最後の最後で空港出口を誤り、昨日迷い込んだ浮島JCTへ。ここから一般道に入り、空港ではない漁村の風情がどこか残る羽田の昔からの町を抜けて、何とか時間ギリギリで出発口へ。危ないところであった。

しかし、まだ朝の7:30で車を返す11:00には時間がまだまだある。折角なのでもう少し湾岸を走ってみることに。最初に訪れたのは空港のすぐ対岸にある城南島海浜公園へ。間近に次々着陸する航空機や潮干狩りもできるという砂浜を撮る。ここにもキャンプ場があって、利用者が徐々に目覚めたところである。東京の都心近くでも海に触れ合える場所は沢山あるようだ。それにしてもこの時点でかなり暑い。既に30℃近くあるようだ。この三連休ずっとこのような晴天で、練馬では36℃を記録したという。来週もこのような猛暑日が続くというが、雨が降らないだけで体感的にはかなり楽である(ずっと直射日光に当たっていると倒れそうにはなったが)。このような暑さなら札幌でも体感している。しかし、これが向こう1ヶ月・2ヶ月続くとなると自信は全く持てない。

再び車を走らせてお台場や豊洲などの臨海都市の中へ。そのまま銀座にでも出てみようかとも思ったが、わざわざ車で行くことも無いと思い、そのまま湾岸を突き進み、三度葛西へ。そこから環七などを通り新小岩駅前で車を返す。だいぶ眠たかったが、そのまま午前中に帰るのももったいない気がしたので、少し近所を歩いてみることに。それにずっと車を運転していたから電車にも乗りたくなった。またごみごみした街並みもまた見てみたい。

新小岩から総武線に乗って隣の小岩まで。近いといえば近いところだが、これまで訪れたことが無かった。駅前からアーケードがずっと伸びる。江戸川区内でもなかなかの商業集積があるところではないだろうか。不動産屋とフィリピンパブ、マッサージ店が多い。あまり暑いので少し歩いただけですぐに疲れてしまう。小1時間歩いたところで駅に戻り、冷房で涼しい電車に乗って次は何となく船橋へ。

1月に訪れたきりであるが、前回と同じように駅西側の飲食店街を歩き回り、やはりすぐに戻ってくる。ここで帰っても良かったのだが、少し思うところがあって京成電車に乗って八幡まで。思ったとおり、駅南側にあった古い商店街が全て取り除かれ、京成百貨店のビルも解体中であった。7月に再開発が始まるという話を、ふと思い出して訪れたのであったが、少し遅かったようだ。ちなみに荷風の終の棲家がある北側の住宅街は何も変わっていなかった。

八幡でしばらく休憩して、京成電車で帰路に着く。途中高砂で乗り換えたが、スカイアクセス開業直後のためか列車撮影などしている人を沢山見かける。その多くは小学生くらいのようだったが、思えば、僕の周りにはこんなに鉄道好きがいたことは無く(鉄道が身近ではなかったという環境のためでもあるが)、何となく羨ましい感じがする。このままスカイアクセス試乗でもよかったのだが、どういうわけか替えのメモリカードを忘れてしまい、またいい加減疲れてきたので、買い物してさっさと帰ることに。そうして、まだ明るいうちに久しぶりの料理を行い、酒を飲んで今に至るわけである。

このように、プライベートではこの頃ますます充実してきている。しかしながら、それ以外となると疑問が多く、そのコントラストが今は恐ろしくて仕方が無い。いつかバランスが崩れて重大な事態になりそうな気がする。とりあえず、またそのうち車でも借りて、今回走らなかった首都高のその他の大部分を走破することにして、様々な角度から東京の街を見て行きたいものである。

【2018年のひとこと】
東京にいると自動車を使う必要性があまりないし(仕事内容にもよるが)、マイカーを持てるような経済状況でもないので、ほとんど車に乗ることもなかったが、この時はいろいろ都合があったのと、単純に久しぶりに車を運転してみたいというのがあったので、ほぼ初めての首都高速に右往左往する2日間となった。こんなメチャクチャな行程に、挙句の果てに飛行機の出発ギリギリになってしまい、友人はよく付き合ってくれたなと思う。

こうして友人と遊ぶなどプライベートは充実しつつも、仕事はあまり上手くいかず、なかなか大変だった。本文中で「いつかバランスが崩れて重大な事態になりそうな気がする。」と危惧しているが、結局ほぼその通りになってしまった。他にも色々あって、さっさと引き上げてきてしまったけど、結局当時の交友関係が札幌時代からほぼそのまま引き継がれたためというのもあったのかもしれない。

 

 

 

 

10.07.25 猛暑の東京(10.07.24撮影)

連日35℃を越す猛暑が続いている。すっかり参ってしまっているが、徐々に慣れてもきている。かといって、来年もう一度この気候を味わいたいと問われれば、それは厳しいものではあるが……。土曜日は昼過ぎまで部屋にいて、14時ごろ出かけようかと思ったが、快晴の下ではあまりにコンクリートの照り返しがきつそうで、冷房の効いた部屋から一歩も出る気にならず。それなら涼しいところに行ってみよう。また近々に撮るべきものがあったので、久しぶりに地下鉄に乗りに行くことに。といっても、ほとんどがこれまで乗ったところばかりである。

浅草線浅草から銀座線に乗換え、先頭部からトンネルを眺めつつ、上野・神田・赤坂見附とホームを撮り歩く。赤坂見附駅銀座線側のホーム壁は以前訪れた時は、昭和13年の開業時のコンクリート壁が見えていたが、新しい壁面が取り付けられつつあった。もしかしたら、前に見たのはこれまでの壁を剥がした跡だったのかもしれない。

丸の内線に乗り換えて、国会議事堂駅、御茶ノ水駅のホームを撮る。次は茗荷谷駅に行こうかと思っていたが、後楽園駅で地上に出たところで、文京区役所・シビックセンターの高いビルが不意に目につき、前から気になっていたのを思い出したので、ここで下車することに。トンネルの中ですっかり涼んだ後に駅から出ると、夕方に近いがやはり暑い。シビックセンターの25階は展望台になっていて、東京の北西・北東部を眺望することができる。入場は無料とあって、多くの人が出ているが、それでも今まで訪れた有料の展望台よりも空いているような気がした。まだまだ穴場スポットといったところだろうか。

夕暮れに霞む池袋や新宿の副都心や、東京スカイツリーや大手町の高層ビル群などが見える。若干冷房の効きすぎた展望室で充分景色を堪能していると、すぐ近くには寺院の大屋根がある。案内を見るとあれが伝通院らしい。無量山傳通院は、1435年開山の浄土宗の寺院で、徳川家康の生母が埋葬された菩提寺として、幕府の庇護を受けて、その大伽藍を誇った時代があったという。墓所もしばらく歩いたが、北海道ではまず出会えないような古い時代の墳墓が沢山ある。傳通院を知ったのは永井荷風の随筆「伝通院」で、生誕の地である小石川の情景と、パリのノートルダム寺院にあるように東京には伝通院がある、との記述が印象的であった。荷風の生家跡も近いということで、案内図を頼りに近くを歩いたが、文京区の入りくみ、また高低差のある住宅街で、それを見つけることは難しく、結局「川口アパートメント」(1964年築)という、趣き深いヴィンテージマンションを眺めてから、再び後楽園駅に戻ってきた。

結局すっかり汗だくになってしまった。もう一度涼むのと、夕焼けがいい感じになってきたので、再びシビックタワーの展望台に向かい、夕暮れ直後の街並みを眺める。靄はすっかり晴れていたが、雲が増えていて期待したような夕焼けは望めなかった。また地下鉄に乗って霞ヶ関で日比谷線に乗換え、茅場町で改修前の昭和30年代の雰囲気が残るホームを撮影してから、最後は秋葉原で様々の買い物。結局帰りは遅くなってしまったが、暑さはある程度回避することは出来た。しかしながら、駅から部屋までの道で元通り汗だくになる。空はずっと稲妻が光っていたが、雨にはならなかったようだ。

日曜日はある用事があって、午前から市ヶ谷の法政大学へ。14時ごろ解散となって中央総武線で秋葉原。中央総武線の飯田橋から四谷にかけて、濠と並走する車窓が好きである。スーツを着ていなかったら猛暑をおしてでも少し歩きたいくらいだ。秋葉原・新小岩で買い物を済ませ明るいうちに帰宅。これから様々な作業を行う。猛暑もこれからますます本番といったところ。本来ならば色々街を撮り歩きたいところではあるが、とても身体が持ちそうになく、涼しいところに出かけるか、久しぶりに制作でも行おうかと考えている。

【2018年のひとこと】
引き続き、とにかく東京の蒸し暑さに参っていた頃。札幌にいても大変なのだから、やはりどうしても体質的に馴染めるものではなかったのだろう。もしあと数度の夏を重ねていたらどうなっていただろうという興味も無いこともないが。
そして、これを読み返していて、この時東京都交通局の職員採用試験を受けていたことを思い出した。当然のように筆記試験の段階でダメだったようだが、もし採用されて地下鉄の駅員にでもなっていたら今頃どうなっているやら。しかし、確固たる信念の無い行き当たりばったりの自由な職業選択は今も変わらず。

 

 

 

 

10.08.12 江戸川を超えて(10.08.07撮影)

連日の猛暑はずっと続いている。いつになっても慣れるということはない。しばらく撮影に出かけるつもりもなかった。それでも、午後には風が吹いて涼しくなったような気がして、また葛西に用を思い出したので、午後3時ごろカメラを持って部屋を出ることに。まずは自宅最寄の京成立石駅近くの、本奥戸橋というあまり大きいともいえない、中川に架かる橋を見に行く。この橋のたもとにある地蔵尊・馬頭観音の由来を示す看板に、断腸亭日乗の一文が記載されているという話を本を読んで、改めて訪れてみたものである。こんな決してメジャーとはいえない街まで、荷風は訪れたのかと思うと、何か感慨深いものとその街歩きの深さに感心する。ちなみに立石を舞台とした小説もあるという。

立石から京成電車に乗って成田方面へ。この頃ここから千葉県に向かうことが多い。東京に出ればいいものをわざわざ船橋で買い物したりする。やはり自分にはこういう地方都市のようなところがしっくりするようだ。京成電車は江戸川を越える。ここで東京都と千葉県を分かち、江戸川(東京都江戸川区)と国府台(千葉県市川市)の駅がそれぞれ、川を挟むように並んでいる。毎日通る京成押上線の荒川を越えるポイントによく似ている。こちらは八広(墨田区)と四つ木(葛飾区)。ただ、江戸川は自然の河川なので、荒川よりはカーブと緑が多いように見える。「国府台」という地名が示すように、ここは古代においては東国の政治の中心地であったという。万葉集にも詠われた手児奈という美女伝説に基づく古跡もあるといい、荷風の「葛飾土産」をさらに読み込んだ後に歩いてみたいと思っている。

京成西船で降りる。線路のすぐそばに立ち飲み屋が並んでいて、日が暮れれば面白そうな風景が見られることだろう。10分ほど歩くとJR総武線・武蔵野線、地下鉄東西線、東葉高速鉄道線が集まる、西船橋駅に辿り着く。このように多くの路線が集まるところだから、隣の船橋駅のように賑やかな場所だと思っていたが、周辺は築年数のだいぶ経った飲み屋がわずかに集積しているのみであった。あまり高い建物というものも、大きな商業施設も無い。

ここから地下鉄東西線に乗る。葛西での用事は無くなってしまったので、快速電車で都心方面に向かうことに。あっという間に浦安・東陽町に至る。その途中、やはり江戸川が気になったので、東陽町で降りて妙典まで降りることに。そういえば、今日はやけに浴衣姿の人が多い。まだ日没までは2時間ほどあるが、この江戸川河川敷で行われる花火大会のために、妙典駅にも多くの人が降り川へ向かっていった。

川には既に結構な人手があり、また昼からバーベキューをしている人たちも多く見られた。頭上の鉄橋を電車が渡るのを聞きながら、これも河川敷らしい風景だと感じた。また、数件の釣り船屋があって多くの船が川に係留されている。川べりには多くの葦やススキが伸びていて、これも荒川より自然に近い感じがしたが、地図を見て、後で調べてみると、この江戸川下流部も荒川と同時期に開削された放水路であることが分かる。旧江戸川の方には寺院が沢山並んでいて、これが「妙典」の地名の由来になっているという。次はこの界隈も歩きたいものである。

暑さもだいぶ和らいで、海からの風も草原にだいぶ吹くものだから、何だか秋のような感じがする。夏の終わりから秋の始まりにかけての、寂しさが風景に滲み出る頃が、僕の最も好きな季節である。かつてよく通った石狩湾の風景を思い出し、その頃になったらまた訪れてみようと思った。ダイナミックな夕暮れが展開され、建設から半世紀以上経った古い稼働堰を渡る頃、いよいよ花火見物の人手は多くなってきた。やはりその秋らしい風情に人々は声を出す。それでも汗ばむほどの気温はあったのだが。僕はその群集とは反対方向にバスに乗って、やはり見物客の多い本八幡駅に向かって、そこから少し歩いて京成八幡から再び江戸川を越えて葛飾区に戻ってきた。立石駅から自宅への道すがら、江戸川で打ち上げられている数多くの花火の音が聞こえ、その明かりの一部が空に映っているが見えた。もしかしたら、マンションの階段の踊り場くらいからは見えたかもしれない。

「千葉都民」という言葉がある。千葉に住居を持ちながらも、東京へ通勤・通学しているため、地域へのつながりが希薄とも指摘されることがあるが、千葉・東京それぞれにゆるやかながらもバックボーンを持つというのが、より正しい理解だと思う。他の「埼玉都民」や「神奈川都民」も同様で、意識の中心はもはや東京にあるかもしれないが、その郊外での生活もある程度享受できるという存在なのかもしれない。

僕は現在都内に住んでいるが、メンタル的には「千葉都民」と同じようなものを持っているという気がしている。やはり郊外の住宅地で育ったというバックボーンから離れることはできないのだ。自分の「都心志向」も依然として根強いが(できれば墨田・江東あたりに住みたいと思っている)、東京には無い地方としてのアイデンティティも持つ「千葉都民」になるのもいいかもしれない。

【2018年のひとこと】
立石を舞台にした荷風の小説は「老人」。何ということのない短編なので、恐らく今では全集でなければ読めないと思う。相変わらず荷風への憧憬と、葛飾(=千葉県西部)へのあこがれもあった頃だったが、その後新しく住もうと思った街はこれとは全く別の街(後述)。でも、この酷暑のあとの妙典の夕暮れはなぜか忘れがたい。こういう光景にホッとしたり、わざわざ船橋に買い物にいったりするのは、本文にもあるが基本的には「郊外の子」のゆえだろうと思う。

 

 

 

10.08.13 房総半島(10.08.08撮影)

日曜日には友人Kと合流して房総半島に出かけることに。新小岩から総武線に乗って蘇我まで出る。ここは東京から千葉に至るもう一つのルート京葉線と連絡している。ここで東京から来た特急さざなみ号に乗る友人と合流して外房線を走る。蘇我を出て少しすると早くも田畑がそう広くは無い山間に広がるのが見える。首都圏の近くでこんなに田舎らしい風景を見たのは初めてである。大原駅で乗り換え、113系という国鉄当時の姿をそのまま残す列車が、さらに旅情をかきたてる。少しだけ北海道の郡部の風景も想起させる。

普通列車を上総興津駅で降りる。ここも国鉄時代の姿のままの駅舎で、駅前はコンビニも無い閑散とした様子だが、さすがにこの時期は海水浴客の姿も多く、わずかにある商店には浮き輪などが売られている。海水浴場には遊ぶ人が多く見られる。しかしそれでもスペースには余裕のある様子。そう、何も狭苦しい思いをして湘南の海岸に大挙して押し寄せる必要は無いのである。東京から1時間と少しで良質な砂浜に多く触れることができる。すぐ外洋となるのでサーフィンに適した海岸も多いという。小さな海水浴場でも必ず海の家や貸しボート屋があるのは北海道では見られない光景。こうして海辺の鄙びた街並みや、日蓮宗開祖の寺など、次の列車到着ギリギリまで撮り歩いた。

次の到着地は外房線の終着駅、安房鴨川駅。ここは南房総の中心都市のひとつであるが、駅前のジャスコ以外はやはり寂しげな街である。様々の調達をした後、ここから内房線に乗って館山まで。ちなみに安房鴨川からは内房線・外房線がそれぞれ発着するので、行き先は千葉のみである。夜から始まる花火大会に向けて、近隣の住人が次々に列車に乗り込む。内房線は内陸を走るので海はほとんど見えない。

館山駅に到着する。花火が始まるまで回転寿司屋で腹ごしらえをして、駅から徒歩5分の花火会場へ。さすがに多くの人出がある。何とか場所を確保して約15000発、1時間弱の館山湾に展開される花火を楽しむ。ずっと花火も撮影していたが、いかんせん撮影経験が少なく、手持ち撮影だったとはいえ結果はなかなか厳しいのがある。

見物客で大変混雑する内房線で東京方面へ。普段の朝ラッシュのような様子であるが(もっとも僕の路線・時間はあまり混雑しないが)、予想に反して結局終点千葉まであまり空くことはなかった。かなりの人が東京から出かけていたらしい。館山から3時間ほどかけてようやく新小岩に到着。駅前で一杯やって深夜に帰宅。雨が少し降っていた。この週末に市部と郡部の風景、それぞれに千葉県の魅力を改めて発見した。いかにも日本の田舎といった風景も大変良かったが、次は木更津あたりの臨海工業地域の様子、また県都千葉などにも訪れたいと思っている。

【2018年のひとこと】
1日で房総半島を周ろうとするとどうしても慌ただしくなってしまう。本文だと割と気軽に訪れている印象だが、普通列車で3時間は身近とは言い難い。もしこの頃につげ義春氏(同じ葛飾区内に住んでいるということくらいは知っていたが)の作品に深く触れていることがあれば、房総半島にもっと親しむことができたのかなと今では思う。きっと写真の撮り方などにも大きな影響を与えたことだろう。

 

 

 

10.08.15 九段・神保町・日比谷(10.08.15撮影)

土曜日は疲労と腹痛から終日自宅に。しかし、部屋の掃除はだいぶ進んだ。日曜日はさらに暑い日となったが、どうしても今日は出かけなければ。

京成電車を押上で乗り換え、半蔵門線で九段下まで。ここまで書けばどこに行ったのかは分かると思うが、昔から一度終戦記念日に靖国神社に行きたいと思っていたのである。しかしながら、かつての自分とは違って、このところ政治的な事にほとんど興味が持てなくしまっている。これは、就職してから趣味・思考が変わったためか、政権交代が起こったタイミングかは分からないが、とにかく政治的なことに何にも考えが持てなくなってしまった今、この日に九段に行くことは相応しくないのは初めからわかっていた。なので、今日の靖国行きは全くの興味本位である。

地下鉄九段下駅にはコンコース内にすでに、数人の機動隊員が待機している。階段を登って駅を出ると、境内に向かって九段坂を登る雑踏の中、大変多くの団体がそれぞれの政治主張を行っていた。「外国人参政権反対」「朝鮮学校無償化反対」「尖閣諸島不法占拠への糾弾」「チベット・ウイグルへの中共政府による弾圧糾弾」など、さすがに左寄りな人は見当たらない。すぐそばには黒塗りの騒乱を目的にした車両が、大音響をならしながら控えているからろくなことにはならないのであろう。

境内は大変な人出である。本殿で参拝するためには長時間並ばなければならないらしい。最高気温35℃の炎天下で並ぶ元気はとてもない。やはり体調を崩す人が多いようで(高齢者も多いだろう)、救急車が次々に到着する。裏手の「VIP専用」の参拝口に回ると、多くの報道陣と野次馬が取り巻いている。どうしたものだろうと、自分も野次馬に加わるとやがて大きな歓声が、列の最前で日章旗を振る人たちを中心に湧き上がったところから判断すると、どうも石原慎太郎東京都知事が参拝を終えたところらしい。

現政権の閣僚全員が靖国参拝をしないというのは、自分にとってはどうでもいいことだが、何も8月15日に参拝することもなかろうかと思う。むしろ英霊達にただ「安らかに」と願うことしかできないのであれば、やはりこの日は避けるべきなのかもしれない。境内に多数存在するミリタリールック(もちろん旧軍の衣装である)の集団にも違和感を覚えつつ、靖国神社を後にする。その後、千鳥が淵戦没者墓苑も訪れようかと思っていたが、同じような混雑になることを危惧して後日にすることにした。

坂を降りて神田神保町に向かう。数軒の店をまわって冷房で涼みながら文庫本を数冊買う。久しぶりにこの街を訪れたが、店舗ごとに細かく専門分野が分かれていて、それを渡り歩くだけで本当に面白い。欲しい本も多数あったが、全部買ったら本当に破産してしまいそうだ。行きたいと思っていた古地図の専門店が休みだったので、そのうち訪れることになろう。マクドナルドで休憩しようと思っていたら、店前には多数の機動隊員が並んでいる。そういえば、神保町交差点を中心に警察車両も多数並んでいる。何だろうと思って見ていると、多数の右翼団体の車両が大音響で叫び声をあげながら、通りになだれ込み警察隊とちょっとしたもみ合いとなっていた。どうでもいいことだが、郷里の6月に行われる某祭典にも少し似ている。

毎年のことなのだろうが、全くこちらが「憂国の情」が湧き上がってくる。政治に興味は無いといったが、こういうどうでもいい連中が思想の左右、また政治家・マスコミなど各階層の区別なく存在していて、ただ純粋に戦没者への慰霊や感謝の気持ちを祈ろうとする一般の国民の心が、踏みにじられているような気持ちになる。何とか、この靖国の場が政治や思想、報道などと全く関係が無く、心ある国民とやがては天皇陛下も参拝できる場にならないだろうか、いや、決してならないだろうなと絶望的な気持ちになりながら、続いては皇居前まで歩く。

神保町からさして距離は無いのだが、この炎天下歩くとかなりの体力が消耗される。休み休みでまるで老人のようだ。全くこんな日でも「皇居ラン」を楽しむ人々には、その壮健な身体に本当に敬服するばかりだ。皇居周辺は人もまばらである。そしていつものように外国人の割合の方が多い。二重橋を少し見て、また色々な事を考えながら、日比谷公園を少し散策して、そこから地下鉄に乗って帰路に着く。全く疲れて、頭痛もひどくなってきてしまった。また色々出かけたいところが出てきたのだが、やはりしばらく休んでいた方が良かろう。

さて、終戦記念日とは艦船ミズーリ号上で降伏文書に調印した、9月2日が正式なものだと言われている。連合国側ではこの日が「対日戦勝記念日」とされている。それでもこの8月15日が「戦歿者を追悼し平和を祈念する日」として、政令で定められ、各地で関連した式典が行われ、一般国民の間に「戦争が終わった日」として浸透しているのは、昭和天皇が「終戦の詔勅」がラジオ放送されたという歴史のほか、盆の中日であるという宗教・習慣的要因が大きいのであろう。やはり8月15日は本来ただ安らかにと戦没者のため祈るべき日なのだろう。久々に妙な持論を展開してしまった。このような事に触れたのはここでは初めてかもしれない。後は勝手に棕櫚箒というのが実際のところだが。

【2018年のひとこと】
政治的なことに関心が無いとは言っているが、今思うと急激に「レフトターン」していったのがこの頃。のちの大震災や原発事故の色々でそのスタンスは決定的なものになって今に至るといった感じ。この時はせっかく東京にいるから物見遊山的な気持ちで終戦記念日に靖国神社に行ってみたが、恐らくもう訪れることは無いだろう。この夏で一番暑さが厳しかった日だった。

 

 

 

10.08.22 短い散歩(10.08.21撮影)

今日も部屋で掃除などする他は、夕方まで全く無為に過ごしていた。それでも部屋に射す西日を見ながら、また色々の買い物をしなければならないので、近くの荒川でも見に行くことに。部屋を出て少し歩くと、通りの一つを締め切って縁日が開かれていた。地元の自治会による素朴なものだが、しっかりと櫓も組まれていて盆踊りの輪も出来ていた。

いつものように「マカロニ橋」に向かう。いつものようにと書いたが、思えば4月の末以来ここを訪れていないことが分かり、つまらないことも多かったがこの春から夏にかけての時間の流れの早さを感じさせる。その間に東京スカイツリーも半分を超えてさらに延び続けている。私にはもうすっかり見慣れてしまったが、何となく、その全体像も具体的に想像できる段階にもなってきた。きっとこの週末の押上駅も多くの見物客で賑わうのだろう。果たしてこの目で完成を見届けることはあるのだろうか。

土手では長く伸びたアシが川からの風に騒いでいる。帽子が飛ばされそうになるくらいの強い風でなかなかに涼しい。やはりいつものように、木根川橋に出て荒川を渡る電車を数本見届けながら、しばらくの間川面を見つめる。いつも電車の窓から眺める荒川は干潮の時刻なので、川底の一部が覗かれる状態なのだが、今日見る荒川は満潮時刻のあととあって、その印象も幾分か異なる。

それにしても偶然ではあったが、そこまで人口が密集しているという感じもなく、それなりの下町風情が残っていて(成立自体は古いが浅草や深川のような古い街の歴史を持つわけではない)、そして何より広大な荒川を望むことのできる場所に暮らすことができて、全く幸運だったと思っている。それで何とか持ち堪えているという気もしないでもない。もちろんそういう地域は他にも何箇所かあるのではあるが、夕方になると更に賑わいを増す立石仲見世商店街など、他の街にはない魅力も確かに存在するわけである。そして、近くの四ツ木駅から一駅だけ乗って立石駅へ。そこで買い物をして大体2時間くらいの散歩を終えた。

【2018年のひとこと】
何があったというわけではないけど、いやそれゆえか、不思議と印象に残っている一日。本文にあるようにこの街で住むことや写真を撮ることが当時の自分にとって、自分で思っている以上の支えになっていたのかもしれない。荒川河川敷のことを思うとき、頭の中にはいつもPerfumeの「マカロニ」が流れている。

 

 

 

10.08.29 秩父路(10.08.29撮影)

ひどい肩こりと、靴擦れによる出血と、寝不足で色々なので手短に。

土曜日は夕方近くまで仕事。銀座で友人Kと待ち合わせをして、中央通の歩行者天国を歩きながら汐留で休憩。地下鉄に乗って新宿に出る。すぐに京王線に乗って終点橋本まで。これで京王線の乗車区間もまた少し増えた。JR相模線に乗って上溝駅まで。小奇麗な小都市といった風情だが、政令指定都市という感じがあまりしない駅前広場を抜けて、歩道橋の上から少しだけ花火を垣間見て、すぐに橋本に戻る。

その後、京王相模原線若葉台駅前にある、最近話題となっている話題の焼酎が無料の居酒屋に行ってみる。並ぶということはなかったが、周囲の静かなニュータウン内にあるフードコートにしては、賑わいがあるように感じた。いずれも誘われなければまず行かないであろう場所ばかりである。帰りは小田急線を利用して代々木上原、千代田線に乗り換えて大手町。半蔵門線で押上。京成線最終電車でようやく立石に着く。やはり多摩からは随分と遠い。思えば多摩も3月にニュータウンを撮影したきりである。そんなに頻繁に訪れる場所ではないと思うが、この頃無機的な郊外の風景もいいなとまた思い始めていて、晩秋の頃までには訪れてみたいと思っている。

少しだけ眠って(友人も泊まっている)日曜はまず池袋に出る。そこから西武鉄道の特急に乗って秩父の山奥まで。池袋を出て武蔵野台地を西に向かうと、どんどん畑地の混在した田舎じみた風景に変わってくる。所沢を過ぎると農地や山林の方が多くなってくる。都心へ通勤をするとしたら大変そうだが、豊かな山林をバックに庭付きの一戸建てに暮らすという生活様式に憧れることがある。自分の消費行動を省みても、ロードサイド系の大型店舗などを利用する方が、何故か自然に感じられ、どうしても生まれ育った環境から、抜け出すことはできないなと感じているところである。自然豊かな環境をとは言わないが、地方都市の暮らしやすさをこの頃随分と思い出させる事象が随分とあった。

秩父の山間を、荒川の渓谷に沿って電車は進む。勿論のことだが普段眺めている荒川の趣きとは全然異なる。後に訪れる長瀞では岩畳などの奇景や川下りなどの観光資源が豊富なのだが、今回は時間の関係でゆっくりと眺めることができなかった。また見に来たいとは思うが、この秩父に訪れることもそうはなかろう。秩父では秩父鉄道を利用する。西武秩父駅からの乗換駅は御花畑駅。そこから昔の都営地下鉄の車両に乗って終点三峰口駅まで。周囲の田園風景を眺めつつ折り返して長瀞まで。秩父地域の観光の拠点のような場所である。昔ながらの旅館や土産物屋が続いていて、なかなかの人手が出ている。荒川の澄んだ渓谷もすぐそば。

ここで大急ぎで入浴と食事を済ませ長瀞駅に戻る。ここからは蒸気機関車の牽引する列車に乗り込む。勿論蒸気機関車自体は何度か見たことがあるが、実際に火を入れて走っているところに乗り込むのは初めてである。独特のリズム感でゆっくりとやはり秩父の山間を走る。終点となっている熊谷まで乗って、乗換えて羽生まで。これで秩父鉄道の営業線の全てを乗ったことになる。まさかこのタイミングで達成させるとは思わなかった。他にも旧国鉄の101系電車も数多く活躍していて、以前から一度行ってみたいとは思っていたが。いずれにせよ、北海道でも決して見られない雄大な自然に魅せられたので、次回はゆっくりと一日かけて秩父路を巡りたいものである。

羽生からは東武鉄道で東京押上まで戻る。その一部東武動物公園駅から先は以前栃木県に住んでいた頃にはたまに利用していたルートだ。しばらく沿線に広がるのは農地と低い住宅。そしてたまに現れる大型店舗ばかりである。春日部あたりから都会らしくなってくるが、完全に住宅やビルに埋め尽くされるのは、都内に入ってしばらく経ってからのことである。

今はどうしても都内に住むほうが色々と都合がいいのだが、本当はもう少し郊外に住んで余裕を得たいと切に思う。とはいえ、通勤にかかるストレスはかなり増えると思うが。今まで「独特の」画一化された風景を持つ郊外を撮るということもあまりしてこなかったので、いつか挑戦したいと思っているが、思っているそばからそれは難題かもしれないと考え始めている。久しぶりにホンマタカシ氏の写真でも見ながら、そのうちかやってみよう。

それよりもしばらく中断している東京の街撮りも、少しずつ再開させたいとも思っている。酷暑に負けて体調が良くなかったり、色々な用事があったせいもあるが、今月は神保町から日比谷のあたりを少し歩いただけだ。あとは少しでも涼しいところに退避していたのだが、9月も引き続き猛暑が続くというので、死にそうになりながら少しだけでも撮っておく必要はあるかもしれない。候補地は相変らず東京の東側ばかりであるが。結局いつもの通りどうでもいい長文を書いてしまった。間接の痛みはいよいよ厳しく(重い重い機材を運んだせいだろう)、明日まともに起きられる自信が無い。

【2018年のひとこと】
冒頭では「手短に」とあるがちっとも短くない。すっかりくたびれていた頃だと思うが、色々出かけていたようだ(そして更に疲れる)。そして結構な移動範囲。首都圏も広い。短い滞在時間ではあったが、秩父の夏は涼しく非常に身も心も癒やされたという印象。再訪は難しいかもしれないが、できればまた夏に行ってみたい。SLに乗ったのもこの時が初めて。この次の回にも郊外を訪れているが、郊外への憧れが非常に強い時期だったようだ。

 

 

 

10.09.05 大宮・柏(10.09.04撮影)

ここのところ、電車に遠くへ出かけ駅の周りを撮り歩くということが多いが、理由は簡単であまりの暑さに長時間歩き回りたくないためである。あとは、東京近郊の私鉄を中心に色々な路線を乗り潰したいと思っているからである。金曜の夜にふと思い立って、友人Eに連絡してさいたま市の大宮で飲むことに。上野から宇都宮線の快速で20分ほど。今まで何となく遠いところだと思っていたが、時間的にはどうも横浜よりも近いらしい。大宮駅近くの繁華街は、週末を楽しむ多くの酔客と、それ以上の客引きで大変賑わっている。何件か飲み歩いてさいたま新都心駅近くの友人宅で一泊。

翌日は昼過ぎに出発。この日のさいたまの最高気温は36℃でなかなか出る気にならなかったが、せっかくなので周囲を見て歩いてから帰ることに。まずは歩いて10分ほどのさいたま新都心駅周辺へ。さいたまスーパーアリーナや、合同庁舎の高層ビルが並ぶ新しい街だが、未開発地も多くて広々とした印象。それでもファッションショーがあったため、多くの若い人達が沢山集まっていた。一駅だけ乗って大宮駅へ。昨夜も少しだけ撮っていたが、改めて東口の歓楽街を中心に細かく撮り回っていた。こうなることが分かっていれば、一眼レフカメラを持ってきていたところだが、やはりコンパクトカメラの方が、暑い中フットワークが軽くて正解だったか。仕事帰りのため荷物も多かったし。これまでは通り過ぎるだけだった大宮の街だが、120万都市の中心地らしく、様々な機能が集まっていて、特に細い路地にずっと広がる飲食店街は面白い。また、駅の北側にある「特殊浴場」の集まる一角も見に行った。以前にも書いたが、やはりこれくらいの規模の都市が、自分には一番ぴったりくるようだ。駅の西側にも繁華街は広がっているが、さすがに暑い中疲れてきたので、他日の機会とすることに。

せっかくなので、大宮からは東武野田線に乗って戻ることにした。東武野田線は大宮から野田・柏を経て船橋まで至る路線で、何か機会がなければまず乗らないであろう路線である。単線区間も多く何となくローカルなイメージを持っていたが、利用客は学生を中心にそれなりの数があった。しかし、大宮から3駅くらいもすると、早くも農地の広がる風景に出会うことになる。駅舎などもかなり「地方」の雰囲気を伝えるもので、ローカル線風情は十分にある。列車の終点である柏に降りる。野田線は実質的にこの駅を境界にして、大宮方面・船橋方面別々に列車が運用されている。

ここ柏もこれまで持っていたイメージとは異なる街だった。何となく一般的な地方都市の小奇麗な、またどこにでもありそうな、印象を持っていたが(もちろんそういう面もあったが)、西口に高島屋、東口にそごう、ビックカメラなどがある、それなりに規模の大きい街であった。駅前通には数多くの商店、もちろん飲食店や風俗店などもあり、全体として懐かしい雰囲気。特に東口のペデストリアンデッキは、そごうの人工地盤の下にバスターミナルがあって、札幌駅のそれを彷彿とさせるものがあった。後で調べてみると、1973年に建設された日本最初のペデストリアンデッキであるということ。周囲のビルのデザインなども統一され、程よい古さになっている。きっと自分にとって懐かしい風景とは、狭い路地裏や飲食店街ではなくて、このような70~80年代の「新しい」街並み、郊外に広がる住宅地、または幹線道路沿いの大型店舗のことをいうのだろうな。結構な時間を柏で使った。ここもよっぽどの用事がなければ、当分は訪れることもないだろう。やはりこの頃東京の街を細かく周る事よりも、千葉県の色々な地方都市を見て周ることの方が多いという、一応都民としては不思議な状態になっている。

再び野田線に乗って新鎌ヶ谷駅で降りる。ここは他に北総鉄道(成田スカイアクセス)・新京成線が連絡する、比較的新しい駅で、周囲の開発はまだまだこれからといった感じ。駅にあった30年ほど前の航空写真を見ると、その頃はほとんど純然たる農村地帯という感じであった。その後千葉ニュータウンの建設が始まり、ベットタウンとして栄えることになったという。しかしながらこのニュータウン地区を走る北総線(かつての北総公団線)、様々な経緯のため運賃が非常に高額となっている。初めから分かっていたことだが、ここからそのまま京成線の高砂まで北総線で一直線というのも、馬鹿馬鹿しい気がしてきたので、新京成線に乗って京成津田沼に出て家に戻ることにした。それでも運賃はあまり変わりないのであるが。

津田沼で乗換えて、定期券を買うために浅草線の本所吾妻橋駅まで。そこからようやく立石に戻ってきた。思えば随分と長い外出となってしまった。最初は午前中くらいに大宮からJR線で戻って、別の用事を足そうと思っていたところだったから。ともあれ、これでまた東京近郊の都市をまた押さえることができた。やはりどうも軸足が郊外に移ってきているような気が自分でしているが、もうそろそろ東京都心の写真も撮りたいと考えてもいる。しかし、この酷暑はなかなか終わりそうにないようである。

【2018年のひとこと】
引き続き東京近郊の街を歩いていたが、こういう所も東京に住んでいないとなかなか訪れる機会も無いだろう。そういった意味ではこれも貴重な体験。その中で柏は駅前に1970年代の街並みが続いていて、幼少の頃の札幌中心部を思い出させた(同様の感覚は新潟駅前などにもあった)。

 

 

 

10.09.11 北千住の女(10.09.11撮影)

まだまだ酷暑の続く先週の日曜日(2010年9月5日)久々に大学の後輩たちと押上で飲んでいて、その後ラーメンを何故か北千住で食べて(押上からだと東武線で5駅ほど)、さっさと帰ろうと思っていた。日曜日の夜とはいえ、まだ22時前くらい。城北最大のターミナル・歓楽街には、多くの人が歩いている。

飲食店などがびっしりひしめく仲通りを駅の戻りながら、前方から千鳥足の女が歩いてくるのが見えた。それが少し酔っている程度ではなく、私もまたいくらか酔っていたので、大丈夫かと気軽に声をかけたところ、薄ら笑いを浮かべて「大丈夫じゃないですう」と、今にも倒れこみそうな様子である。駅に向かうというが方向が全くの反対である。「話聞いてくれます?」と、さっき5年交際した恋人と別れたばかりだという。このまま駅の南側にある電車がひっきりなしに行き交う大踏切に入られても困るので、とりあえず駅まで連れて行くことに。

私は酔っ払って街を歩く事も、酔っ払いと街を歩く事も、カメラを持って歩くのと同じくらい好きである。ふと見ると彼女の左手首にはいくつかの傷跡がある。名古屋出身という彼女に部屋の場所を聞くと、六町に住んでいるという。私の頭の中の地図には全く入力されていない地名。同行の友人に聞けばここから「つくばエクスプレス」で2駅、ぎりぎり足立区内とのこと。送って行ってもいいし、どこか別のところでお連れしてもよかったのかもしれないが、色々面倒になってきたので、彼女をつくばエクスプレスの改札口まで送り届け、私たちはさっさと東武線に乗って押上に戻ってしまった。

後で思うと、美人局のようなものだったのかもしれないし、何のことはなく元の恋人の鞘に戻っているかもしれない。翌朝には顔も忘れてしまったのだが、六町という場所は何となく印象に残った。

 

およそ1週間後の土曜日の午後、また私は北千住駅に居た。駅の窓口で買い物を済ませてから、つくばエクスプレスの乗り場まで。六町というところに向かうことにしたのだ。その前に北千住の歓楽街を少し歩く。例の現場となったのはこのあたり。つくばエクスプレスは5年前に開業した首都圏で一番新しい鉄道の一つで、東京の秋葉原とつくば学研都市を結んでいる。駅舎や車両などは未来的なイメージとなっている。

北千住から荒川を鉄橋で渡り、すぐに地下深くに潜る。見事な円形のシールドトンネルを走り抜けると六町駅。どうしてこんなに深くする必要があるのだろうというくらいの深さで、エスカレータを何本か乗り継ぐ。地上に出ると、広々とした真新しい車寄せと、少し遠くに大きなスーパーマーケットがひとつある。高圧線が走っている他には目立った建物はない。東京も郊外ということは分かってはいたが、もう少しマンションでも立ち並んでいそうなイメージだったので、少し面食らうことに。札幌で言えば東豊線栄町周辺をもう少し寂しくしたくらいか、札沼線の篠路駅周辺のような感じである。彼女は北千住の陋巷から、いかにも新興住宅地という所に帰ろうとしていたのか。何となく画になりそうである。

駅のすぐ近くでは新築住宅地の建設が行われている。札幌並みの広々とした土地だが、物件の価格も驚くほど安い。このあたりは2階建ての戸建が続くが、大体2,000万円中盤くらいから用意されており、ワンルームのアパートであれば3万円台のものも発見した。そして農地もいくらか残っている。23区内といえばすっかり市街地化されてしまったと思っていたが、これは意外なことであった。そういえば練馬区の外れの方もこんな感じではあった。その他にはロードサイドショップがいくつかあるくらいで、私が育った場所をいくらか想起させ懐かしい気分になる。しばらく続く住宅街を、少しは和らいだが、まだまだ続く暑さの中歩き続けるのはなかなか辛い。

保塚町・東六月町・保木間など、全く聞きなれない住宅街を小一時間歩き続け、ようやく竹ノ塚駅へ。ここは東武伊勢崎線で都内最北に位置する駅で、周囲はやはり飲食店や商店街が続くが、駅前には団地も広がり、この団地の造成とともに、急激に街が発展したことを想像させた。この駅の南北に位置する踏切は、「開かずの踏切」として有名なものの一つで、過去には重大な事故も起こっているほどである。確かに土曜日の夕方であったが、6本の線路は常に列車が通過していて、渡るまでにかなりの時間を要した。折角ここまで来たのだから、電車に乗って西新井大師まで行く事にした。竹ノ塚の隣の西新井で大師線に乗換えて、わずか1キロメートル1駅で終点大師前に到着する。夕方6時前ともなれば参道の土産物屋なども店じまいをしていて、大きな寺院は閑散としている。特に見るべきものも無かったので、すぐに西新井に戻って再び北千住で様々な買い物。ここしばらくひどい腰痛に悩まされているので、新しい椅子を買ってきた。

今回で足立区内のほとんどの地域を見てまわったことになる(鉄道から離れた地域は何となくしか印象が分からないが)。治安や貧困の問題からとかく悪いイメージを持たれがちな区ではあるが、住宅や道路の事情、公園などの環境はとても良く、また鉄道も北千住まで出ればJR・東武・地下鉄・TXと便利なところではあるし(どれも非常に混雑するのが難点であるが)何より家賃がとても安いのが魅力で、郊外育ちには最適な環境であるのではという気さえしてくる。また都心近くの住宅を歩けばそこに魅せられてしまうのだろうが。そんな事を考えながら、また面白いことはないだろうかと、北千住を歩いて帰ってきた。

【2018年のひとこと】
北千住駅付近には実際に酔っぱらいを装った美人局がいるらしい。彼女がそうだったかは分からないけど、ひとまずは何も難がなくてよかったと思うべきだったかもしれない。勿論、すすきのでも出会ったことも無いし、ともかく最もエキサイティングな出来事の一つ。そうでなければ、六町という都内でもかなりマイナーと思われる町を歩くこともなかったし、そこに微かに札幌の雰囲気があることも知らなかっただろう。
北千住はよく散歩したり、買い物したり、飲みに行ったりと親しみがあったはずだが、結局そこまで足立区内には住みたいとは思わなかった。

 

 

 

10.09.13 夜の散歩(10.09.13撮影)

今日は少し早めに仕事が終わって、人形町駅の近くで本を買っていたのだが、どうしても歩き回りたい願望が抑えきれず、またこの頃の不調は運動不足によるもののような気もするので、隅田川まで涼みに行くことにした。しかし、まだまだ蒸し暑さは続いていて、結局は汗だくになってしまうのだが。夜が更けてもなお賑やかさのある人形町の通りを抜けると、すぐに水天宮に辿りつく。上空にはその複雑さで著名な箱崎ジャンクションがある。思えばここも去年の4月以来で、東京へ出てきてから訪れていないのは意外なことであった。

読売新聞社のビルのあたりから隅田川に出る。テラスにはジョギングの人たちが数人いる限り。右手には首都高速、左手には自分が最も美しいと感じている橋の一つである清洲橋が、隅田川を渡っている。水面はすぐ前面に迫って、その独特の臭気を放っているが、隅田川は東京都心の風景にはどうしても欠かせないものである。それに対するのが東京郊外を流れる荒川沿いの風景であろう。

空には雷が光り始めた。どうりでやけに蒸し暑いわけだ。今にも雨が降りそうである。ライトアップされた清洲橋を渡る。上流の新大橋、下流の永代橋もライトアップされていて、なかなか賑やかなものである。いつも鞄にはコンパクトカメラを入れているが、やはり暗所ではほとんど使い物にならない。かといって1キログラム以上ある一眼レフカメラいつも持ち歩くという気にもなれない。橋を渡って深川の街へ。ここもまた歩き回りたい街の一つである。清澄白河駅から半蔵門線に乗って押上まで。電車を立石で降りると、一雨降ったあとのようであった。遅めの夕立といったところだが、所によっては大変な豪雨になったらしい。

こうして適度な疲れを携えて部屋に戻ってきたが、やはり街を歩くのは楽しいことである。時間がある時には地下鉄に乗ったり、部屋の近所を歩き回ったりしているが、それでもなお翌朝の出社が憂鬱なのが残念なところである。

【2018年のひとこと】
この頃から仕事の進め方が変わって、定時(19:30)で帰れることが多くなってきた。もしこのまま仕事を続けていれば、もう少し暗所に強いカメラにしてこうして隅田川沿いに歩く日もあったかもしれない。
そしてこうして時折歩いて帰っていたことが、大震災後の帰宅難民になった時もあまり違和感なく歩くことができて、思いがけず役に立つことになった。

 

 

 

10.09.18 続・夜の散歩

月曜日の隅田川散歩に続いて、火曜日は馬込に80年前に作られた我が国最初のインターチェンジを見に行き、水曜日は雨の中浅草寺を見学して、吾妻橋を渡って帰ってきた。木曜日は休み、金曜の夜は日本橋からてくてくと本所まで歩くことに。本当は家でやらなければならないことがあるのだが、なかなかに充実している。恐らくもう少しすればまたこんな余裕はなくなってしまうが。日本橋から本所まで、歩いた距離は恐らく5キロもないくらい。だいぶ涼しくなったとはいえ、少しくたびれてしまった。約5キロというと(直線距離でいうと)、東京駅から北は鶯谷、南は浜松町、西は信濃町、東は亀戸くらいで、歩くにはちょうどいいくらい。

今の時期どこの町でも例祭が行われていて、この土日がクライマックスといったところで、その日訪れた本所の町でも路地をしめ切ってやぐらが組まれ、縁日が設けられ、地元の人たちが多く集まっている。中心には由緒のありそうな神輿が鎮座している。同種の祭りは北海道にもあるが、何か特別なことをしているわけでもないのに、格式というが長い歴史が滲み出ているような気がして、全く別のようなものに感じた。狭い路地や瓦屋根が並ぶ雑然とした感じが、また並ぶ提灯をよく調和させているのかもしれない。

そんな連休の入口。結局東京にいることにしたので、また残暑が戻るようだが、色々出かけてこようかと思う。

【2018年のひとこと】
最近は毎日10キロメートルほど歩くのを目標にしていて、その距離感に抵抗感も無くなったが(ただし時間はかかる)、この頃だと仕事の後だとはいえ5キロメートルがいいところだったようで。それでも休日の撮影だと10キロメートルくらいは歩いていたはず。
もしいまだに東京にいたら、いくらでも歩くべき場所があるので、10キロメートルほどのルートを設定するのも苦にならないのだろう。

 

 

 

 

10.09.19 佃・晴海・竹橋(10.09.18撮影)

久々の本格的な東京散歩。やはり、いつものごとく東側になってしまうのだが、地下鉄を乗り継いで降りたのは八丁堀駅。今日はここから晴海埠頭まで歩くことにする。霊岸島の端を歩き中央大橋で隅田川を渡り、40階建てほどの高層マンションの立ち並ぶ石川島に入る。ここは以前は造船所のあった場所として有名。今ではすっかり再開発されて、旧来の狭い路地を持つ町と並存することになるが、運河や船溜まりにも変に調和していて、歩くのが楽しい。また数棟もの高層マンションが立ち並ぶ姿は、隅田川と非常によく調和していて、この手の開発としては珍しく気に入ったものとなっている。

程なくして月島に到達。また運河を渡って晴海へ。ここは昭和初年に埋立てが完了して開かれた町だが、元々は昭和15年に開催される予定だった万国博覧会の会場になる予定だったという。万博は戦争のため中止されたが、戦後になってからは初の高層アパートが建設されたり、見本市会場のある場所として知られたり、また誘致に失敗した東京オリンピックのメイン会場として計画されていたりと、常に時代の先端をいく場所であると言える。近年開発されたオフィスタワー群やショッピングセンター、そしてやはり50階建てほどのマンションが立ち並ぶ街ではあるが、全体的に空き地も多くなかなか東京では見られない広々とした光景が広がる。もっとも更に沖にある豊洲や台場などはそれ以上のものであるが。

一方、各所で築40年くらいであろうか、かつての高層マンションが解体されている現場も見かけた。地域にある倉庫やホテルなども老朽化が進んでいて、また見本市会場跡地には警察署の移転も予定されていて、今は静かなこの街も、数年後には姿を新たにしていそうだ。しかし、銀座から2,3キロという好立地にもかかわらず、アクセスはあまりよくない。一番最寄になりそうなのが大江戸線の勝どき駅だが、ここから動く歩道など使って運河を渡っても、おそらく20分くらいはかかりそうな印象。主な交通機関は路線バスのようで、再開発が進んでも、この静かな環境は変わらないかもしれない。

晴海埠頭に到着する。練習船が係留されている横を歩きながら、眼前にかかるレインボーブリッジを一望する。新橋や品川の高層ビル群も橋の向こうに望まれる。そして、当然対岸にはお台場などの新都心が控えているのが見て取れる。東京では海を眺めに来ることも多いが、広い海と高層ビル群や高速道路、それから貨物船や屋形船などが、並ぶ風景も大変気に入ったものの一つとなっている。川の場合もそうだが、基本的には広々とした風景が好きなようである。晴海埠頭は客船が発着するところで、船がある時以外は閑散としているところと聞いたが、ターミナルまで歩くと様子が少し違う。

アニメなどの衣装をまとったコスプレイヤーたちが、数多く集まっていて、撮影会などを行っている。この方面には全く詳しくないので、その光景に茫然としながら旅客ターミナルを歩く。彼ら彼女らもそれぞれ仕事や学校などのコミュニティを別に持っているわけで、当然のことながら仮装をしたまま生活することも出歩くこともできるはずがない(会場外はコスプレで歩いてはならないのは基本的なルールらしい)。しかしながら、この埠頭ではつかの間の開放感を満喫しているように感じられ、その他散策している人たちや浮浪者などを見ても、こういう一般社会と離れた存在も受け入れるべき場所なのが、この臨海地帯なのかなと考えた。

晴海埠頭からバスに乗って都心に戻ることに。ここからだと、東京駅・錦糸町駅・四ツ谷駅行きがあるらしい。どうして四ツ谷行きなのか分からないが、たまたまそのバスがやってきたので乗り込むことに。乗客は私一人だけである。晴海の町に入ると、徐々に客は増え始め、それぞれ銀座や有楽町などで降り立っていく。私は終点の少し前の半蔵門で降りることにした。この様子だと晴海から四谷も案外すぐに辿りつけそうである。半蔵門から千鳥が淵公園を歩いて、首都高速の見える場所へ。ここはお濠の上を高速道路が通っていて、低めに作られた高架橋や微妙なカーブがよく調和していて、首都高でも最も景観の良い場所と言われているところである。道路をしばらく眺めているところで日も暮れてしまったので、大手町から地下鉄に乗って帰宅。

まだまだ残暑も厳しかったが、それでもピークの35℃くらいに比べたらだいぶ楽。徐々に頭の中の東京地図が繋がり、広がっているが、やはり東京の街歩きは非常に興味深いものである。

【2018年のひとこと】
佃島付近は特に好きな場所の一つで後年訪れた時にも撮り歩いた。ウォーターフロントの再開発はまだまだ続いていて、その後誘致に成功してしまった東京オリンピックの頃には、この当時と比べても姿はまた変わっているのだろう。
ようやく東京の街歩きの「1周目」が終わりつつあった頃。このまま何年かかけて地図を丹念に塗りつぶしていれば、それなりのものが出来上がっていたのかもしれないけど、そればかりはどうなるかは分からない。

 

 

 

10.09.26 Sky Walk(10.09.25撮影)

今週の秋雨で一気に気温が下がり、ジャケットが必要となるほどである。雨も上がりようやく街歩きに適した季節になってきたところだが、数日前あるニュースを目にしたので横浜方面へ向かうことに。その前に、六本木は東京ミッドタウンへ立ち寄る。ここにある富士フイルムのギャラリーで30日まで行われている、「昭和の風貌展」を見に行く。昭和・今上の2代の天皇にはじまり、主に戦後活躍した文学者・俳優・政治家・スポーツ選手など、あまりに有名な昭和史を彩った人々の肖像が、モノクロームで数多く展示されていた。撮影者も土門拳などビッグネームが並びさすが見ごたえがあった。併設されているギャラリーのアンセル・アダムスのオリジナルプリントも、貴重だったと思う。

六本木から日比谷線に乗って中目黒、ここから東横線に乗り入れて自由が丘、更に大井町線に乗換えて二子玉川、その次は田園都市線に乗換えて終点中央林間へ。田園都市線はその名の通り「東急田園都市」の中を走り抜けるのだが、延々と住宅が続き、そのラッシュの混雑の凄まじさで有名である。それでも終点に近づくと緑がだいぶ増えてくる。長い間かかったが、これにて東急電鉄の全線に乗り切ったことに。中央林間から小田急江ノ島線に乗換える。ついでに小田急線も乗り潰せるところだったが、時間がなくなってきたので大和から相鉄線に乗換えて横浜駅まで、この一日だけでもまた神奈川県内の私鉄を知ることとなったが、その印象等はまた後日。

ずっと鉄道に乗り続けているが、横浜から京浜東北線に乗って鶴見まで。駅前のバス乗り場に並ぶ。結構な人がいる気がするが、それもそのはずで、これから向かうのは横浜ベイブリッジ、そこにある展望台「スカイウォーク」がこの週末で閉鎖されるためである。展望台は橋の中ほどにあり、横浜港が一望できるというが、閉鎖のニュースを聞くまでその存在を知らなかった。開業した21年前は多くの人を集めたというが、最近では赤字が続いていたという。

鶴見の工業地帯を走り抜けてスカイウォーク前へ。最終入場時刻ぎりぎりで入場して、展望台からみなとみらい地区、反対側の港湾地区を見渡す。展望台への長い通路は自動車専用道路と並んでいて風にもあたることができて、閉鎖するには惜しいような気もするが、その他の設備の陳腐化や開館時間の縮小などで、入場料と見合わなくなってしまい、客足が遠のく結果となったのだろう。閉館ぎりぎりまで居たが、数多くの人が最後まで惜しむように港の風景をカメラに収めていた。この場所に思い出のある人も多いだろう。展望台下の海辺の公園も多くの人出。ここから見る横浜市街地も大変美しい。地元のカメラマンの方と話をしていたが、普段はこんな人が集まることはないという。巨大豪華客船「飛鳥」がベイブリッジをくぐる様子も間近で見ることが出来、いつかここで横浜市街の夜景でも撮りたいと思う。

再びバスで街に戻る。今度は鶴見駅ではなく横浜駅へ向かうことに。バスに乗ると「C4バース」「T2バース」など無機質なバス停名が続き、大黒ふ頭の工業地帯の夜景もしっかり堪能することができる。30分ほど同じようなところをグルグルと周り、また最初の場所に戻り、うんざりしたところで、次の停留所は「横浜駅西口」。つまり大黒ふ頭から横浜駅まで直行するという。しかも経由するのは首都高速道路、ベイブリッジを渡る。路線バスで高速道路を走るとは思わなかった。巨大な大黒ジャンクションのループをぐるぐると上り、ベイブリッジへ。工業地帯の明りの上に真っ赤な満月が昇り始めた。バスはその後も高速道路を走り続け15分ほどで横浜駅へ。なかなか貴重な経験だったと思うが、法改正で来週からは一般道経由になるという。

ともあれ、短い時間で横浜の市街を色々見ることができた。今まで数度しか訪れたことは無かったが、そろそろどこか撮り歩きたいと始めている。横浜から東横線に乗って川崎市の元住吉駅へ。友人Tと久しぶりに会って飲む。ここから立石の自宅まの道のりもなかなか遠かった。

【2018年のひとこと】
この日も結構派手に電車移動を繰り返していた模様。今はここまでの行動力はあるかな。高速道路を走る路線バスに乗ったのも貴重な体験。

 

 

 

10.10.10 雨の杉並(10.10.09撮影)

連休初日は終日雨の予報。雨脚は強くなるばかりだが、午後から部屋を出る。押上からメトロに乗って大手町へ。思うことがあって今日は杉並方面に向かうことに。丸の内線の新宿・荻窪方面に乗換える。電車は四ツ谷駅で一度地上に上がるが、この時の雰囲気にはいつか惹かれるものがある。車内でウトウトしているうちに、電車は新宿を過ぎて、終点荻窪へ。前にこの街を訪れた時も雨だったような気がする。駅の周りをしばらく歩き回る。前時代的な商店街が広がっているが、それを過ぎると閑静な住宅が続くようになる。雨はさらに強くなり全身びしょぬれになる。

隣の南阿佐ヶ谷駅周辺はさらに静かで、グレードの高い邸宅が広がっている。杉並の町は震災後住宅地として開けたところで、政財界の名士、文士・将官の邸宅が多数建てられた(近衛文麿の荻外荘が有名)。緑の多い住宅地を抜けて、公団阿佐ヶ谷住宅へ。ここを訪れたのは去年の8月以来である。その頃はこの団地の取り壊し目前と言われていたが、その後の協議が難航しているらしく、以前より空き家は増えていたが、その趣きにあまり変わりは無かった。その後は新中野の駅辺りも見て、再び地下鉄に。少し靴を乾かそうと思って、副都心線に乗換えて小竹向原まで。こっちの方面も悪くない。

そうしているうちに、いい時間になったので友人Hと渋谷駅で合流。学芸大学駅近く、新宿三丁目と飲み歩いて、最終の中央・総武線で帰宅。ついに一日中雨であった。

【2018年のひとこと】
この当時、職場が2011年春頃に東新宿に移転するという話があって(その後その話は流れたようだが)、また立石に借りた部屋の更新料支払いにも差し掛かる頃にもなるので、どこか新しい部屋を探そうかと思っていた。
せっかくなら東新宿からJRほどは混まない地下鉄沿線の、それなりに家賃の安い場所と考えているうちに荻窪付近がその候補地になった。荻窪や南阿佐ヶ谷、新中野付近の感じも良かったので、もし本当に引っ越すならその辺になっていた可能性はあるけど、結局はそのまま立石に住み続けていた方がよかったということになるのかもしれない。それにしても東京独自の賃貸物件の更新料という制度はなんとかならないものか。

 

 

 

10.10.11 葛飾高砂(10.10.11撮影)

今日は早めに起きて(平日と同じくらい)日本橋の町を巡ろうかと思っていたが、昨日からの喉の腫れが一向に改善しないので、まずは高砂にある休日当番医の耳鼻咽喉科へ向かうことに。高砂は葛飾区内、立石からは京成電車で2駅。京成本線の他に、ここから千葉ニュータウン・成田空港へ至る北総線・スカイアクセス線、柴又帝釈天への参詣客で賑わう金町線が分岐している。

件の耳鼻咽喉科は小児科もやっていて、なかなかの混雑振りである。90分待ちというのでしばしば周囲を歩く。ただ、若干発熱もあるようなのであまり遠くへは歩きたくない。駅の周辺の商店街を撮り歩いても、まだ30分しか経っていない。仕方がないので、高砂駅から北総線に乗って東松戸まで行って戻ってきたりしていた。北総線は近年、未開発地に開業したものなので、線路の線形が良く時速120キロメートルほどのスピードでぶっとばしていく。ちなみにこの線を走るスカイライナーは時速160キロメートルで、在来線では国内最高速度である。そんなスカイライナーなどの雄姿をおさめつつ病院に戻ったが、まだまだ混雑していて結局2時間半ほど待つことに。診断結果は軽い扁桃腺炎。後で処方された抗生物質を服用したが、やはり効果てきめんである。

そんなこんなでもう午後2時過ぎ。今から都心へ出るのも億劫なので、しばし周囲を歩くと「都営高砂団地」という、築50年くらいは経っていそうな味な物件を発見。この手の団地には必ずある給水塔がランドマークになっている。団地内をしばらくウロウロ。近所の幼稚園では運動会が行われている。プレイロットで遊ぶ子供の声、案外豊かな緑からは鳥のさえずり、それからどこかの部屋からは「勤行」を上げる声が。どれも「らしい」ものばかりである。その他は全く静かなものである。

再び高砂駅に戻って立ち食い蕎麦で昼食。ここから京成電車に乗って江戸川駅まで。たまに通る時に気になっていたが、いい機会だったので駅を降りて、そのすぐ下にある江戸川河川敷をしばらく散歩。今日の最高気温は27℃近くあったという。そのためなのか、微熱のためなのか分からないが、とにかくくたびれてきたので買物をしてすぐに駅に戻る。といってもまだまだ明るかったので、高砂駅からまた北総線に乗って終点の印旛日本医大(松虫姫)へ。北総線は千葉ニュータウンの中を高速で走りぬけるのだが、ほとんどが掘割の中にあるので周囲の街並みをうかがう事はあまりできない。それでも駅の近くには大型のロードサイドショップやインターチェンジがあり、また住宅の他に農地もたくさん広がっていることも知ることが出来る。終点から乗り継いでこの7月に開業した成田スカイアクセス、成田湯川駅へ。その機能からいって新幹線のそれと同じような構造の駅だ。160キロメートルのスピードでスカイライナーが走り抜ける。ここから立石へは40分くらい。薬が効いてきたのか車内ではほとんど眠っていた。いつかの機会にはニュータウンの様子も見たいものだが、何せ広大なので自動車を使いたいところである。

最後に、今ローカル局で見た地元のニュースを。家の近所にある東四つ木の浄光寺で薬師如来像が1,150年ぶりに全身開帳されるという。本日訪れた印旛日本医大駅の副称である「松虫姫」は、1,300年前聖武天皇の皇女がらい病の治療に訪れた伝説に基づくもので、今住む立石の地名の由来となった「立石様」も古墳の一部から由来するのではないかといわれている。北海道ではなかなか触れることのできない古い歴史が身近にあるのは、とても面白いことだ。

【2018年のひとこと】
日頃から細かく風邪をひく方ではあるが、扁桃腺炎になったのは恐らくこのときだけ。それでもあちこちウロウロしているので、病院に行くほどではなかったのかもしれない。
そういえば、その当時家では「テレビ埼玉」や「千葉テレビ」などのローカル局やケーブルテレビの番組を見ることができたので、時折こうしたローカル情報を知ることができた。キー局を見ていると「テレビは東京のことばかり」という印象もあるけど、ローカル情報にアクセスするのは逆に難しかったりもする。

 

 

 

10.10.17 日本橋散歩(10.10.16撮影)

結局目覚めたのは11時前。朝食と部屋の掃除を済ませて、撮影を始めたのは午後2時。今日のスタート地は人形町駅。日頃から利用している駅である。今日はじっくり日本橋の各町を巡ろうと思っていたが、日に日に短くなる日没までの時間は3時間ほど。大体北側半分に焦点を定めることにする。うろこ雲が広がり秋晴れの一日であったが、最高気温は25℃ほど。今日は一応長袖で出かけたが、半袖シャツでも十分な暑さであった。

まずは日本橋人形町の中心にある甘酒横丁を歩く。和菓子屋などの老舗飲食店などが続いていて、行列の続く店もある。鯛焼き発祥の店とのこと。会社に近いながら、この辺は歩いたことが無かったが、碁盤の目と一方通行ばかりの街割りは、札幌のそれを思い出させ、よく見知った街を歩くような感覚になる。しばらく歩くと明治座・浜町公園、そして隅田川へと行き当たる。公園の上には高速道路が走っていて、川の向こうには両国ジャンクション。

少し高速道路に沿って歩くとすぐに現れるのは箱崎ジャンクション。その複雑な構造と渋滞とで有名である。ジャンクションの下には「東京シティエアターミナル」という、羽田・成田の両空港と都心を結ぶリムジンバスのターミナル、さらにその地下には半蔵門線の水天宮駅があり、交通の要衝となっている。バスターミナルに入ってみる。造りやサイン類などは80年代調で、何となく昔の千歳空港を思い出させる。中を少し撮っているとすぐに警備員が飛んできて、施設内の撮影には事前申請が必要との由。次は見つからないようにやろう。

更に歩き続けて日本橋川へ。その名の通り川に架かっている日本橋に由来している。川の上に高速道路が走っていることでも知られているが、日本橋の上にかかる高速道路も東京らしい風景で、個人的には気に入っているものである。川のすぐ傍には東京証券取引所がある。江戸の昔から現在まで日本の経済活動の中心は変わらない。

次に室町の会社の近くなどを撮り歩き、日本橋三越本店前に出る。周囲は現在、再開発が進められていて、今月中には新しい商業施設「COREDO室町」がオープンする。また、近隣のビルの取り壊し工事も次々進められている。老舗の刃物屋「木屋」・その地下にある老舗喫茶店同じく「木屋」。岡本太郎によるロゴマーク・サイン類が印象的であった「タロー書房」が入っている、三越室町別館も全て閉鎖され、クラシカルなタイル貼りの地下鉄三越前駅の出入口を残すのみとなった。以前に、木屋の方に聞いた話では昭和29年築とのこと。その時には当時のままに稼働しているという電気室の機器を見せてもらった。各テナントは隣の「COREDO室町」に移るようだが、このクラシカルなビルを失うのはあまりに惜しい。特にタイル貼りのA4出口から三越本店を見るのは、日本・東京の中心でありながら、どこか外国の街並みをメトロから眺めているようで、好きな風景だっただけに尚更である。

話は少し逸れるが、明治・大正・昭和戦前の建築は丁重に保存される一方、戦後高度成長期に建設されたビル、その後のポストモダン建築などは、その美的価値が一般にはなかなか理解されにくく(クラシカルな装飾・重厚な建材などが見られない)、老朽化・再開発の名の下に姿を失うのは、長い目で見て大きな損失であるような気がする。昭和初期の建築でも解体されるという信じられない暴挙も、まだこの国では行なわれているということもあるようだが。

三越本店の屋上で少しだけ休憩。ここも休憩時間にたまに訪れるところだが、やはり休日ともなればいつもより人の姿が多い。午後4時。既に日がだいぶ傾いている。少し急ぎ足で(すぐにそんな事も忘れてしまったが)、三越本店から日本銀行のある日本橋本石町、「べったら祭り」の準備が進む大伝馬町・小伝馬町を抜け(そういえば上京する少し前にこの辺を歩いたことを思い出した)、繊維・衣料関係の問屋・商店が集まる馬喰町・横山町を歩き、最後は台東区の浅草橋駅に至る。

世界の他の例を知らないが、こんなに一つの業界関係で集まる町というものはあるものなのだろうか。築地の食品関係は言わずもがな、神田神保町の大古書街や、浅草合羽橋の飲食調理用品、日本橋本町の製薬会社の本社の集積など、それなりの長さの歴史と格式を持って作られた町を歩くのは面白い。そのエッセンスの多くがこの日本橋地区にはあるような気がする。その他に狭い路地に集まる飲食店や、意外にたくさんある住宅の様子など、いつも以上に面白い街の風景に出会うことができ、わずか3時間ほどの漫歩だったが、その収穫は少なくなかった。次は日本橋川から南側、八重洲や京橋・茅場町あたりを歩いてみたいと思っている。やはりどうしても「東側偏重」は是正されそうにない。

【2018年のひとこと】
この当時から日本橋の再開発はだいぶ進んでいたが、今では大体完了しているようで、2016年に歩いた時にはすっかり別の町になっていた。もちろん三越本店や三井本館などは昔のまま保存されているが。短い間だったが、こういう過渡期を見られたというのも貴重だったのかもしれない。
個人的にはそのままでもいいとは思っているが、いずれは日本橋の上にかかる高速道路も姿を消すという。

 

 

 

 

10.10.23 元はちまん(10.10.23撮影)

秋晴れの東京。気温も少し肌寒いくらいで、街を撮り歩くには最適の天候である。今日は前回の撮影の続きをしようと思って日本橋駅まで。日本橋川には何かのイベントか、レストランのように客席を数席並べたはしけ舟のようなものが通り過ぎていった。その後、日本橋高島屋あたりまで出てきたが、どういうわけか倦怠感に襲われ、撮影を続けようという気が全く起きない。できれば人のいない広々とした場所に出たい気がする。併せて発生した頭痛のためか。近くにあった八重洲ブックセンターに入る。しばらく書店に入っていなかったので、長い間あれこれ書籍を手にとって、地図など数冊を買い求める。

結局街を歩く気にはどうしてもならなかったが、せっかく街に出てきたからどこか歩いてはみたいと思い、近くの京橋駅からすぐ日本橋駅で東西線に乗換え南砂町へ。対岸は葛西の荒川河口にも程近い、昭和に入ってから本格的に埋立て・開発が始まったという新開地である。今でも駅の周辺は大きな工場が立ち並び、町外れといった印象が強い。駅前の公園には、だいぶ荒廃してしまっているが、かつて東西線で走った車両が保存され、子供たちの遊具となっている。

工場や倉庫の間を通り抜け(勿論少し先には団地や商店街などもあるが)、街の片隅にある神社にたどり着く。ここは「富賀岡八幡宮」といい、「深川の八幡宮」といえば門前仲町にあるそれが有名であるが、元々はこの地に勧進されたもので、そのため「元八幡」といわれている。といっても、寛永年間という遠い昔の話ではあるが。手元にある広重の「江戸百景」の「砂むら元はちまん」を見ると、このあたりは延々砂浜の続く景勝地であったことが確認できる。背後にマンションが迫っている以外は、普通の神社にしか見えない。しかし、薄暮の砂町を歩く中偶然それを発見した驚きと喜びが存分に描写されている永井荷風の「元はちまん」をつい先日も読んでいたので、是非訪れたいと思っていたのである。

さらに荷風に倣い、荒川の土手へと進む。この頃になってようやく調子が出てきた。荷風が歩いた頃は、遠くに砂町の煙突や電線がわずかに認められるだけで、また暗闇の中ようやく「葛西橋」の表記が読み取れるほどといったような、全く無人の地で、散歩に適した場所ということだったが、今では東京と千葉を結ぶ交通の要衝として、多数の自動車・電車が引っ切り無しに行き交い、空には羽田空港を離陸したばかりの航空機が飛んでいる。また、河川敷にはジョギングなどをする人はもちろん、多くの釣り人が川に糸を垂らしている。荷風の頃とは趣きは違うかもしれないが、やはり市街地の喧騒から離れたい人々を寄せ付ける魅力は変わらず、思った通りの風景に出会えて少し嬉しくなる。

とそこへ、ちょうど長大なる葛西橋を渡っていたところだが、昼に日本橋で見かけたはしけ舟が、私の下を通り抜け、東京湾へと消えていくのを確認した。何でもないことだが、更に嬉しい気分になる。しかし、秋の深まりとともに日はすっかり短くなってしまい、午後5時を過ぎるとほとんど真っ暗になってしまう。西葛西からバスに乗って遠く秋葉原に出てみるのも面白そうではあったが、ちょうど良く自宅最寄り駅である新小岩駅行きのバスが来たので、それに乗り込み、バスの揺れにまどろみながら、新小岩駅まで向かい、夕食の材料を買い込んで戻ってきた。

【2018年のひとこと】
これだけ毎週撮り歩いていれば十分じゃないか、と思われるかもしれないが、やはりたまには今ひとつ気分が乗らないという時もある。それでも、少し無理をして歩いてみると案外いい結果が出ることも経験上よく知っている。本文に登場する「江戸百景」はこの少し前に荻窪の古本店で購入したもの(昭和50年頃の読売新聞の付録だった)で、街歩きの参考にしていた。砂町や葛西も住みよい感じのするところで、実際住みたい町ランキングの上位にも上がってくるが、東西線の朝ラッシュは殺人的だという。

 

 

 

10.11.10 向島(10.11.06撮影)

先日、大阪の飛田遊郭を歩いた際、自宅のごく近所にある「玉の井」地区の跡地を訪れたくなった。ここも「銘酒屋」という名で飛田と同じような商売が続けられていたが、それも昭和30年代前半までで、最寄り駅も今では「東向島」と改称され、地区の通称としての玉の井も薄れつつある。永井荷風の「墨東奇譚」を読まなければ今ではなかなか意識されないかもしれない。今回はその舞台となった遊郭の跡地を中心に歩いてみようと思う。ちなみに川崎・横浜のある歓楽街には数年前の一斉摘発まで飛田のような稼業が行われていたから、より雰囲気が残っているのだろう。

立石から2駅、荒川を渡ってすぐの八広駅で下車。さっそく墨東の迷路に紛れ込んで鐘ヶ淵駅近くに出る。地名はその近くの隅田川の底に沈んでいた鐘に由来するものとされており、この地発祥の有名企業として「鐘ヶ淵紡績」すなわち「カネボウ(現在のクラシエ)」があり、現在でも工場が稼働している。墨田区北部は隅田川と荒川に挟まれたあたかも半島のようになっていて、どんなに複雑で方向感覚を失わせる路地の中でもいずれかの川を目指せば、辛うじて自分の位置を確認することができる。路地に迷い込んでいるうちに荒川に行き当たり河川敷の風景を眺める。何度も訪れているところであるが、やはり一番心奪われる場所に変わりが無い。

そのまま北上して6月以来の堀切駅へ。あの頃の蒸し暑さはとうに消え失せ秋晴れの快適な気候だったが、他の閑散とした雰囲気は何も変わることが無く、その時記したようにまさに東京に残された隠れ里のような地である。再び南下してようやく目的地である東向島駅周辺に出る。相変らずの細く曲がりくねった道に、商店や住宅が密集している。もはや「銘酒屋」の後など何も無いかと思われるが、数軒だけその独特の様式を持った建物を見ることができる。今ではスナックなどの飲食店、また多くは一般の家屋となって街に存在している。全くのどかな下町の風景で、かつて男たちが押し寄せて、隆盛を極めたという遊び場の風景はなかなか想起できない。もっとも、墨東奇譚のひとつの主題である零落した感じというか、一種の物悲しい感じはしっかり息づいているようにも思えた。

東向島駅の高架下にある東武博物館を見学する。ここには東武鉄道でかつて活躍した車両などの資料が展示されていて、その日はかつて日光の街を走りいろは坂の手前、馬返(うまがえし)まで連絡したという、「日光軌道」に関する企画展が行われていた。日光には何度か訪れているが、豪奢な駅舎と観光地らしい街並みの続くところに走る路面電車というのは、何とも風情があるもので廃止されてしまったのを残念に思う。いずれにせよ休日は渋滞に巻き込まれてしまうことが多いから、電車で寺社めぐりというのもスマートだったかもしれない。また東武博物館には鉄道に関する展示の他に、この向島に関する展示室があることに感心した。近世より景勝地として親しまれ、向島を彩った植物、また数多くの文豪が愛し残した作品たち、または現在も続く祭典や伝統工芸などについて紹介されている。

東向島からは東武電車で浅草に出る。線路のすぐ横には東京スカイツリー(これは東武鉄道によるもの)が見えて、気分はだんだんと平成22年に引き戻されていく。浅草駅の地下道や地下鉄銀座線には昭和の香りがまた多く残っているが、三越前で降りて、先週オープンしたばかりの「COREDO室町」に訪れた時には、完全に現代に戻されてしまったような格好である。しかし、この新しい商業施設は「江戸情緒」をテーマとしていて、その向かいの三越本店や三井本館の昭和初期から変わらない街並みのために、何だか妙な歴史の断層にぶちあたったような感覚にもなる。

友人Hと待ち合わせてその名も「北海道八雲町」で食事。八雲町の食材を扱う居酒屋型のアンテナショップである。それから蛎殻町周辺をうろうろしてから、小網町の非常に地味な場所にあるバーに。いずれも地下鉄人形町駅か水天宮前の付近で、バーもこの前の散歩でたまたま見つけたものである。この街に通うようになって間もなくで一年。本当に伝統もあり面白そうな店がたくさんあるのだが、なかなか開拓は進んでいない。

【2018年のひとこと】
当時は知らなかっただけかもしれないが、こういう「遊郭趣味」とでも言うべきものが、最近の方がより盛んになっているという印象がある。年が進むにつれて、こうした光景が姿を消しているのかもしれないが。どういうわけか個人的にはこの頃よりはこうしたものに対する興味は薄れてしまった。
それでも向島や鐘ヶ淵、堀切付近は東京でもっとも好きな場所といっても過言ではなく、その後も何度も訪れているが、いつになってもあの迷路からは抜け出せそうにもない。日本橋や人形町で飲むというと何だか風流な感じもするけど、庶民的な居酒屋などもたくさんあって、なかなか居心地のいい町ではあった。

 

 

 

10.11.21 岩淵水門(10.11.20撮影)

元より川の側を歩くことは好きであった。決して川が身近なところに育ったわけではなかったが(あるにはあるが渓谷といってもいい所で、あまり近づくべき場所ではなかった)、写真を撮り始めてからは豊平川によく出かけたし、黒磯では那珂川の河畔にも数度出かけたことがあった。

そして東京では隅田川は時折歩き、船に乗ったこともあったし、江戸川や多摩川に出たこともあったが、やはり、何と言っても荒川(かつては荒川放水路)には、幾度となく訪れ、その広々とした風景に魅せられ続けている。全くの偶然ではあったが、この荒川の近くに住地を求めたのも幸運なことであった。とはいうものの、都内を流れる荒川の放水路部分22キロメートルのうち、訪れたことがあるのは、自宅近くの木根川橋から堀切橋のあたり、または東京湾に注ぐ葛西の河口付近、それに足立区と荒川区を結ぶ扇大橋を渡ったのみである。

どこを歩いてもさして風景は変わらないと言われればそれまでであるが、他にも荒川の持つ風景を見てみたく思い、今回は荒川と隅田川を分かつ岩淵水門を訪ねた。元々は現在の隅田川が荒川の本流であった。徳川家康の江戸入府より数々の治水事業が行われてきたが、明治43年の大洪水を教訓に、東京の外郭を大きく迂回する放水路の建設が始められ、完成したのが昭和5年。これが現在の荒川で、この岩淵水門は新たに開削された荒川のスタート地点となっている。その水門は大正13年に完成した「旧岩淵水門」で赤水門などと呼ばれている。その少し下流には昭和57年に完成した現行の岩淵水門があり、治水上の東京の北門として機能している。こちらもなかなか風情があるものだ。旧い水門の近くには「摂政殿下(後の昭和天皇)御野立之跡」と記された石碑がある。

川辺には多くの人が出ていて遊んでいる姿が見える。また、自転車乗りも大変多い。堤の上には数十台の消防自動車が集結していて、防災訓練が行われており、川面に向かって放水を続けている。それにしても、11月も下旬となると日が傾くのが大変早い。訪れた午後2時では既に日が西に向き始めていて、1時間ほど川べりを歩いた後、水門近くにある資料館で荒川に関する情報を仕入れた頃、午後4時前にはすっかり薄暮の土手沿いの景色が広がっていた。

川の向こうは埼玉県の川口市。高層マンションが数多く立ち並んでいる。野球の練習をしている間を歩く。まだ決して上手いとは言えないが、どこか哀しげで風情のあるトランペットの音色が聞こえる。いよいよ葦の広がる川辺に趣きが加わった。京浜東北線・東北線、また貨物線の3路線6本の線路にもなる、大きな鉄橋からの轟音もいい。最初に訪れた赤羽岩淵駅に戻る頃に日没を迎え、その後地下鉄を乗り継いで訪れた神保町の交差点に上がった頃には、すっかり夜となっていた。まだ5時過ぎだというのに。

神保町交差点近くにある古書店で、数日前に在庫を確認した「荷風全集」(全29巻)を購入。さすがに持ち帰られる量ではなく発送してもらうことにしたが、わずか7,800円でおそらく一生楽しめるとすれば、安い買物だとも言える。実は2009年から(生誕130年没後50年を記念したものだろうか)新たに全集が刊行され始めているが、こちらは新書で1冊5,250円、まだ発刊されていないものも多い。また、荷風の作品は意外と文庫で読めるものが少ないので、以前から適当な古い全集を探していたのである。

しかし、買ったはいいがその置き場は一体どうしたらいいものか。元々家具の少ない(移動が多いからできるだけ荷物は少なくしている)6畳の部屋であるので、大した本棚などなく、仕方なく床に積み上げることになりそうである。引越しの際も大変な荷物になりそうだが、安住の地を目指してゆっくりでも読破したいものである。来週火曜日の配達が楽しみである。そういうわけで空っ腹を抱えて錦糸町で買物。自宅で低コストの夕食となった。明日も天気が良さそうならもう少し荒川沿いを歩いてみたいものである。

【2018年のひとこと】
人工的につくられた荒川の放水路部分の歩くという目標は、いまだ船堀のあたりを中途半端に残したまま。その達成は簡単なようでなかなか難しいかもしれない。
「断腸亭日乗」の全部を読みたくて買い求めた荷風全集だったが、これは東京にいる頃で一番いい買い物をしたかもしれない。今ならインターネットで買えるものもあるかもしれないが、古い全集で手頃な価格のものはやはりなかなか見つからない。全部読むのはなかなか大変だが、今でも時折本を開くことがあるので、そういう意味では順調に「一生楽しめ」ている。

 

 

 

 

10.11.22 続・荒川散歩(10.11.21撮影)

今日もどこか撮影に出かけようかと思ったが、空には雲が多くいまいち出かける気にならない。「雨の写真は雨の日でないと撮れない」というが、どうしても僕は雨の日や雲の厚い日には出かける気になれないのである。そんなわけで、部屋で家事のようなことをしていたが、雲が切れてきて西日が美しくベランダから見えたので、少し出かけてみることにした。

まずは、高い堤防の続く中川を歩く。しばらく歩いていなかったのだろう、川辺に出られるデッキの整備がだいぶ進められていた。完成が楽しみである。昨日宣言したように、荒川沿いを歩くことにしたが、結局いつものコースをとって、まずは東四つ木避難橋へ。以前にも書いたが、ここはPVの撮影地にちなんで「マカロニ橋」と読んでいる。もはや荒川を歩く時のBGMはPerfumeのマカロニと定まってしまった。この橋からスカイツリーを撮るのも毎度のこととなり、ちょっとした定点観測になっている。ちなみに最初にこの場を訪れたのは昨年の12月。この頃、スカイツリーはまだ3分の1ほどであった。開業まで残すところ1年余り。東京に居る限りはまた幾度かここを訪れることになるだろう。

木根川橋を渡って墨田区側へ。橋の袂の案内板にも荷風先生がいた。また、こちら岸から見る首都高速「かつしかハープ橋」の姿も美しい。江戸川区方面に向かってしばらく歩く。あまり景色は変わらないが、数キロでも歩けそうな気がする。標識を見ると河口まで8キロあるという。午前から出かけていれば十分歩ける距離である。しかし今日は日没も近い。やはりこの東京らしくて東京ばなれした風景は魅力的である。草原のような場所や、海のように見える場所もある。最後は川を渡る総武線の橋梁を見てから、新小岩駅周辺の繁華街へ。

ここもしばしば利用するというのに、今までまともに歩いたり、撮影したりしたことは無かった。最も平均的というか、新しくも古くも無い街並みで、あまり得意なものではなかったのだが、今日歩くと賑やかな商店街、やたらに多いフィリピンパブ、ある目的のためのホテルが立ち並ぶ怪しげな界隈などが密集している。他に小岩や本八幡など総武線沿線の共通した雑多で猥雑な感じがあり、例えば中央線や他の私鉄沿線とまた違った雰囲気があり面白いと思っている。しかし、すっかり日も落ちていたので本格的な撮影は行わず他日に期することにする。雨の日もそうだが、夜の撮影もなかなか行わないのである。

新小岩駅近くで買物をしてバスで帰宅。だいたい3時間の散歩。Google Mapで距離を調べたら約8キロとなった。思ったより歩いていたようである。

【2018年のひとこと】
震災の影響もあって開業が伸びたということもあったが、結局スカイツリーの完成を待たずに東京を離れることになった。その後何度か押上駅付近は訪れることはあったが、いまだにあまり興味が持てないというかスカイツリーに登るまでには至っていない。それでも荒川河川敷からの「定点観測」はやめられずにいる。

ちなみにこの記事はもともと写真を添付していたので、文章表現に違和感があるかもしれない。その他の記事はほとんどテキストメインだが、こうしてまとめ直す時はその方が良さそうだ。

 

 

 

10.11.24 荷風的休日(10.11.23撮影)

今朝目覚めた頃、荷物が届いたとの知らせを受ける。この前の土曜日に神保町で買った荷風全集全29巻、やはりなかなかの大荷物である。さっそく梱包を解いて一冊ごと本を開く。本にかけられた薄紙のカバーはボロボロになって、その数も少なかったが、他には汚れなどもなく長年楽しめそうである。奥付を見ると昭和38年から41年にかけて発刊されたものとわかる。食事にしながら短編をいくつか読んでいたが、朝には雨であった天気も良くなってきたので、外に出かけてみることに。ほとんど出かけられなかった真夏の分をリカバリするようでもある。もう紅葉も終わりかけている頃だったから、上野公園でも見に行こうかと思ったが、ふと気が変わり京成本線を町屋駅で降りる。

ここから荒川の下町でも歩いてから、上野方面に出ることにしよう。大きな柏の葉が歩道にたくさん落ちている。町屋駅周辺は昭和初期からの非常に古い京成電鉄の高架線が続いている。今では耐震補修のためか新たに手を加えられてしまったが、少し前までは高架下にずっと商店や住宅が建てこんでいて、今でもその名残が少しある。町屋から三河島駅周辺を歩く。日暮里にある水泳の北島選手の実家として有名になった惣菜店の脇を歩いて、下町の建て込んだ町を歩く。しかし、街並みはほとんど碁盤の目である。子どもの姿が大変多い。いつの間にか三ノ輪駅周辺に着く。ここもおよそ1年前に撮り歩いたところだが(それ以外の用事では8月に一度訪れている)、地下鉄駅がリニューアルされていた。

前と同じように浄閑寺やアラーキーの実家のあったあたりを歩く。ずっと同じような下町を歩き続けたが、その中に突然現れる吉原の特殊浴場群にはやはり驚かされる。しかし、その一角は周りより地形が盛り上がっていて、かつて廓(くるわ)があったことを感じさせる。そうしているうちに早くも日が暮れて、程なくして結局浅草へと行き着いた。花やしきのあたりや仲見世はやはり多くの人で賑わっていて、昼間のような明るさである。

せっかく浅草に出てきたので(毎日通り過ぎてはいるのだが)、荷風が昭和24年から、特に死去までの2,3年はほぼ毎日のように通っていた、洋食店「アリゾナキッチン」を尋ねてみることにした。当時の様子は分からないがアメリカのカントリーサイドのような雰囲気、店内には大きく荷風の写真が掲げられている。オーダーは荷風と同じ牛レバーとタマネギのソテーと、ライス、それからビールにした。まだ5時過ぎだったためか結局客は私一人のみであった。

食後もう少しだけ浅草をぶらついて地下鉄で帰宅。晩年の荷風は京成電車で毎日市川の八幡から浅草に通っていた。その頃はまだ浅草までの地下鉄線が開通しておらず、隅田川対岸にある押上からバスに乗るか歩くかして、ここまで訪れていたのだろう。それとも上野から歩くか地下鉄かで通っていたのだろうか。次は八幡駅前にあるやはり荷風が毎日通ったという大黒屋でもいってみようか。

いつものように長々とまとまりもないまま書いてしまったが、最晩年の断腸亭日常風に記せば、「十一月二十三日。祭日。陰のちに晴。京成電車を町屋にて降りて浅草まで歩む。アリゾナにて飰す」とでもなろうか。文が中途半端なせいではあるが、貧弱な日本語ワープロでは古い漢字などうまく再現することができない。多分Webブラウザのせいもあるだろう。それにしても、他人からすれば失笑を買ってしまうような傾倒ぶりである。

【2018年のひとこと】
どこかの記事にもコメントしたかもしれないが、今ではSNSとかネット記事ばかりで本を読むことがすっかり少なくなってしまった。写真さえもディスプレイ越しで見ることの方が多いかもしれない。既にメディアがそういう傾向に進んでいるかもしれないが、若干依存症的な感じもあるので、本を読んでデトックスする必要があるのかもしれない。この記事ももちろんコンピュータを使って書いてあるけど、この頃よりは古い漢字なんかも出しやすくはなっているかもしれない。

 

 

 

10.11.28 新宿(10.11.27撮影)

目覚めたのは午前11時。前の晩に夜更かししすぎたせいもあるが、どうしても昔から朝が非常に弱い。夜ならば何時まででも起きていられるが、特に朝の6時から9時くらいまではどうにも動くことができず、平日の勤務中は大変辛い。日中はずっと真夜中のような感じで倦怠感の中で過ごし、ようやく元気になってくるのは夕方になってから。この生活習慣・体質を何とかしなければとは思っているが、年を追ってその傾向が強くなってくるような気がする。昼食を作ったり、「龍馬伝」の再放送を見たりしていると、早くも午後2時。日は既に西に傾いている。

撮影には不向きだが、一度行っておきたい場所があったため、久々に東京の西側、新宿へ出かける。今後深く関わるかもしれない場所になるためである。浅草線を蔵前で降りて地上を300メートル以上歩き、交差点を渡って大江戸線の蔵前駅へ。本当にどうしようもない「乗換え」だが、元々全く違う駅を乗換駅にしてもらっている、くらいに考えた方が、精神衛生上良さそうである。

蔵前から15分ほど乗車して東新宿で降りる。新大久保のコリアタウンにも程近い。しばらく周囲の住宅地を歩く。スーパーマーケットやコンビニの便にはあまり恵まれていなさそうだが、古くからあるいかにも閑静な住宅街といった風情。単身者向けのアパートもいくらかあり、手頃な家賃であれば越してみたい気もする。適度に坂道のアップダウンのある街並みは、日頃見慣れないもので軽快だし、崖や屋敷に配される木々もまた以外に東京の東側では触れにくいものである。特に、かつての尾張藩邸で、陸軍の軍事施設、戦後は米軍住宅にもなっていた、戸山ハイツ周辺の自然の豊かさは新宿といえば雑多な繁華街や、スカイスクレイパーばかり連想している身としては、新鮮な驚きと感動があった。それなりに深い森の中にあった「箱根山」は標高44.8メートルで、山手線内では一番高い山だという。その後も若松町や河田町、荷風の旧居「断腸亭」のあった余丁町などを歩き、新宿線の曙橋付近で日没を迎える。住宅地では子どもの姿も大変多く見られ、全く山手線内の大きな繁華街が近くにあることを全く忘れさせるものである。

曙橋から一駅だけ乗って新宿三丁目まで。友人との待ち合わせまで、新宿駅東口近くから新宿ゴールデン街の戦後の雰囲気を残すような飲食店街、それから歌舞伎町の大繁華街などをしばらく間撮り歩いていた。歌舞伎町は店舗の照明で全く明るいから昼間と同じような露出で撮影ができる。そういえば、歌舞伎町を端から端まで歩いたのは初めてかもしれない。馴染みがあまり無いためか、あまり得意な方ではなかったが、新宿の街並みを撮り歩くのもなかなか面白かった。

それにしても、土曜の夜のためにどこを歩いても大変な人ごみである。これは銀座や品川などの東側でもなかなか見られないもので、改めて新宿のエネルギーの大きさを感じさせるものである。ここから友人と合流して少し酒を飲んで帰ってきた。やはりここから自宅までは近いとは言い難いが、1時間と少し位なので回数を重ねればそのうち慣れてくるのだろう。そろそろ西側にも本格的に目を向けるべき頃かもしれないし。

【2018年のひとこと】
今でも朝は弱く、できればいつまでも寝ていたいというのは変わらないが、この頃よりはすっきり起きることができるようになった。今は早い時間の仕事が多くなったためか、当時よりは幾分か健康的な生活になったためか。それでも何だか無為に過ごしているうちに夕方になって、損した気分になるというのは今も変わらず。
この時も、当時の勤務先が移転予定だった東新宿付近を歩き回っている。当時は地味な町だったが、今では再開発ですっかり変わっているのだろう。

 

 

 

 

10.11.29 白金・竹芝(10.11.28撮影)

涼しくなって順調に撮影を進めている。どうせ夏にはほとんど動けないのだから、今のうちに貯金をしておこう(もっとも来年夏に東京にいるのかどうか分からない)。そういえば、東京に出てきてから1年が経過した。その時建設が始まった曳舟のイトーヨーカドーが、この土曜日にオープンしてなかなか賑わっているようだ。程近くにある東京スカイツリーも順調に伸びている。

さっきまでこの1年の撮影地などを見返していた。年内には公開できるようにして、改めてあれこれ総評したいところ。また、ちょっと見ただけでも記事の書き間違い等が大変多く、何とかしなければと思っている。それで思い出したことがあった。当初は早い段階でまず山手線内の町を歩きつくして、追って郊外に足を伸ばそうと思っていたのだが、実際は自分の住む東京東部の街やいくつかの繁華街に集中する結果となり、それはそれでいいのだが、まだ歩いていない山手線内の街があるのも口惜しいので、今日も午後から少し歩くことに。

地下鉄を高輪台で降りて、狭い路地と坂道を抜けて白金台の住宅地を歩く。昨日歩いた新宿区の住宅街にも似ているが、より閑静で高級感がある。しかし、住宅地を歩いていてもあまり面白いこともなく、東京大学の付属病院内の見事なイチョウなどを見たほかは、ずっと坂を降りたり登ったり。やはり早くも夕暮れが迫り、少し疲れてもしまったので、予定では白金から六本木・赤坂方面まで歩こうかと思っていたが、麻布十番から大江戸線で大門まで。JRとモノレールの浜松町との乗換駅でもある。

ここから10分ほど歩くと、竹芝桟橋に行き当たる。この桟橋から伊豆諸島・小笠原諸島への航路、または東京湾内のクルーズ船などが出ている。ここで日没前後のレインボーブリッジ・台場の明り、また東雲や佃、都心方向の高層ビルの明りが煌いているのが見える。丁度出航した船は結婚式の披露宴が行われている。そういえば、今日は白金の結婚式場にも人が集まっていた。今日は日中15℃近くまで上がり、歩いていると若干汗ばむほどであったが、さすがに日が落ちると少し寒い。結局当初の目的のようにはなかなか行かず、少し開けた海の景色を見て満足して帰ってきた。

 

【2018年のひとこと】
相変わらずハイペースで撮り歩いているが、本文にもあるように、もうそんなに長く東京にはいられない気がしていたので、多少無理をしておいてよかったと思っている。そうでなければ、高輪とか白金というところは訪れることもなかっただろう。

 

 

 

10.12.05 上野・日暮里・大塚(10.12.04撮影)

先週東京は紅葉が真っ盛りであった。この週末には一応撮っておかないと、と思っていたが、前日に降った豪雨のせいで、その多くがが落ちてしまった。

さて、今日はわずかに残った紅葉を惜しむように、まずは上野公園を散策した。ここも1年ぶりで、今日も多くの人が出ている。園路を歩いていると、時折地中から轟音が聞こえる。これは今日乗ってきた京成本線の地下部分のものだが、割と浅い所を通っているようだ。そのまま寛永寺の墓所を歩いて、ラブホテルの多数立ち並ぶ鶯谷駅へ。ここから日暮里方面へ歩いて、京成線のトンネルの入口やら、昭和モダン感じられる高架とスカイライナーの撮り合わせなどを撮っていた。

このまま、京成電車を愛でる旅でも良かったのだが、やはり日がだいぶ傾いてきたので、どこか行ったことの無い町に行ってみたくなり、日暮里から山手線に乗って5駅大塚まで。池袋もすぐ近くでサンシャイン60が聳えているのが見える。夕暮れ迫る街を一通り撮って、しばし休憩。一杯ひっかける。やはりここも山の手らしくアップダウンのある歓楽街で、格安の風俗店がやけに多いのが印象的であった。かつての岡場所か青線の名残なのだろう。また、ここで交差する都電荒川線の情景もとても良い。

さて、ここから夜の池袋へ出てから帰ろうと思ったが、大塚から錦糸町まで出るバスが丁度来ていたので、それに乗り込むことに。山の手の大塚から城東の中心地錦糸町まで、なかなかの距離であるが、かつての都電の路線を継承したものであるらしい。春日・上野・蔵前などを経由して錦糸町までおよそ1時間。ずっと大通りを走ってきたためか、思ったよりスムーズにバスは流れた。駅前で少し買物をして、次は葛飾区の青戸車庫行きのバスに乗換える。自宅にも幾分か近い。都営バスの料金は1乗車200円だが、ICカードで乗車の場合2回目の乗車は100円となる。

バスは押上・八広の古くからの商店街を抜けて、四つ木橋で荒川を渡る。いずれも時折散歩に出かける所ばかりである。葛飾警察署前で降りて再び買物をして、都合よく到着した京成タウンバスで自宅最寄のバス停まで。結構な長旅となった。

乗車中には、もう8年位前の事になってしまったが、しばしば札幌の路線バスに乗っていたことを思い出していた。丁度当時の市営バスが民間移管された頃だったと思うが、麻生や新川、厚別に西野など数多くの街に出かけた。厚別区山本の原野にポツンとあるポンプ場から延々歩き続けたり、真冬の真っ暗な当時造成中のモエレ沼公園で、本当に凍える思いをしたのもいい思い出である。

やはり街を手っ取り早く知るためには、街の中を走るバスに乗るのが一番で、それは東京でも何ら変わる事ではない。むしろ東京は地下鉄や鉄道を中心に街が形成されていて、その周りは賑やかな場所も多いから、より住人に近い実感、散歩に近い視点を得るためには、街の細い通りも通るバスの方がいいのかもしれない。まだ都内のバス路線を把握するには全く至っていないが、面白そうな路線を見つけたら少しずつでも乗ってみたいものである。また、昔の事を思い出しながらバスも使って、札幌の街ももう一度取り直してみたいと強く思ってもいる。

【2020年のひとこと】
この過去の記事のまとめ自体も、1年半ぶりくらいに再開。2020年4月はいわゆるコロナ禍で世の中が一変してしまった。外出は自粛を「要請」され、もちろん東京を訪れるのも当面は難しいだろう。そもそもオリンピックが終わるまではしばらく行けないなとも思っていたが、そのオリンピック自体開催されるか誰にもわからない。
さて、この日は路線バスにずっと乗っていたらしい。本文中にもあるように、街歩きにとって非常に重要なツールではあるのだが、最近はあまり乗ることもなくなってしまった。この先どうなるかわからないけど、世の中が落ち着いたら、またバスにでも乗って街を撮り歩きたい。

 

 

 

10.12.06 東京ラプソディ(10.12.05撮影)

今日は午後までダラダラとしていたが、 昨日に引き続き快晴の天気だったので(最高気温は18度もあったらしい)、久々に銀座でも出かけてみようと思った。意外な事だったが、仕事を含めても銀座の街にはもう3ヶ月も訪れていなかったのである。それにちゃんとカメラを持って歩いたのも数度しかなく、記録に残っている限りでは3月末のみとなっている。

しかしながら、歩行者天国の賑わいはいつもと変わらぬよう。何故か高級な犬がたくさんいて、歩行者の目を引く。彼らは一体どこから来てどこに戻るのだろう。通りから一本入ると高級外車が並ぶのもいつもの銀座らしい風景。出がけからずっと頭痛に見舞われているが、有楽町から新橋にかけて何度も行き来しながら撮影。前にも書いたと思うが、銀座の街には札幌の大通と共通する風景がたくさんある。デパートや専門店が並ぶ様子は勿論だが、恐らく札幌の大通公園より南側(いわゆる民地)の区割りと、同じスケールで碁盤の目状に街が区切られているためと思われる。いずれもルーツは江戸の町人地の町割りらしい。そのために、この銀座には他の東京の街よりも、いくらか親近感を覚えるのかもしれない。

銀座の街を歩いていると、「東京ラプソディ」という歌を思い出す。昭和を代表する歌手、藤山一郎の70年以上前の歌だが、昭和初期のモダン文化や大衆文化が一気に花開いた、東京の繁栄をよく現しているようでよく愛聴している。この頃の銀座の写真を見ると、今よりも数段美しい街並みがある。敷石の街路には路面電車が行き交い、その沿道には石造りのビルが立ち並んでいる。また、街のシンボルとも言われる柳の並木や、今では高速道路となってしまった川の流れも見られ、戦前の日本の繁栄のピークがここにはあったのだろう。もっとも現在でも他の街に比べると、スカイライン(ビルの高さ)が揃えられていたり、景観にも所々配慮されていて、それが東京の中心地としてのプライドを保っているのだろう。また、現代の高層ビルや高速道路が混在する風景もそれはそれで悪くないのかもしれない。

一通り歩いた後は靴を買い求める。こんな暖かさで冬物を買うのも馬鹿馬鹿しく、また1シーズンに数度も降らない雪のために、しっかり冬道対策された靴底のものを買っても、徒にすり減らしてしまうだけである。そのためなかなか目的のものが見つからなかったが、結局いつも愛用しているブランドのものとなった。冬用のコートも欲しいと思っているが、やはり同様の理由で恐らく必要ないのであろう。そんな日が暮れてからも生暖かい銀座の街であったが、各通りやビルディングには、イルミネーションが灯されクリスマスムードが満点である。

昨日の続きというわけではないが、銀座からはバス乗って帰宅の途に着く。3月末にも一部乗車したものであるが、新橋を出て銀座・勝どき・月島・木場・菊川など、江東区の色々な町を巡って墨田区の東武線業平橋駅(東京スカイツリーのたもと)まで結ぶ路線である。終点のひとつ前、浅草線の駅がある本所吾妻橋まで乗車。地下鉄に乗ってしまえば20分ほどで済んでしまうところを、およそ1時間と少しをかける。小さな旅を楽しむにはちょうど良い時間であろう。

さて、次週はどの街を訪れようか。先日から少しずつ過去の記事の手直しや、全体の構成の見直しを行っていて、それもできれば年内に終わらせたいところでもあるが。

【2020年のひとこと】
「年内」(2010年当時)に終わらせたいとしていた記事の手直しは、2020年になってやっと一段落ついた。しかし写真の整理はほとんど手つかずである。もっとも一切の需要もないので、もう何年かかけてゆっくりやりたいとは思っているが。
銀座は今も好きな街の一つ。この頃から外国人観光客が増えてきていて、2020年頃にはピークを迎える見通しであったが、この疫病禍で全てが幻になった。今後どうなるかは誰にもわからない。

 

 

10.12.20 六郷の土手(10.12.19撮影)

やはり、境目の風景というのが好きである。今日は多摩川を第一京浜六郷橋で神奈川県川崎市まで歩いた。といっても、ここの境目は赤羽の荒川や、葛西の江戸川に比べると、川の側までビルが迫っていて、あまり辺境という感じはしない。その前に大田区は京急蒲田で降りて周囲を撮り歩く。むしろこれが今日のメインであった。京急蒲田からJR蒲田までは1キロほど離れていて、その間には商店や飲食店がひしめいている。JR蒲田駅には東急多摩川線・池上線も乗り入れていて、東急の駅ビル屋上には小さな遊園地と観覧車があり、子どもたちで賑わっていた。いわゆる下町の雰囲気とは少し違うが、独特の活気があって好きな場所がまたひとつ増えた。半島や大陸系の飲食店が多いのは東京の端っこらしい特徴であろう。

再び京急蒲田駅に戻って普通列車で2駅、六郷土手駅で降りる。その名の通り多摩川の土手にかかってホームが伸びていて、ホームの先はすぐに鉄橋である。快特列車が高速度で通過していく。独特の開放感があってこの駅もなかなか気に入ってしまった。六郷土手駅から少し歩くと、多摩川にかかる六郷橋にさしかかる。東京都側にはゴルフ練習所が、神奈川県側には浮浪者の小屋がまるで団地や別荘地のように、茂みの中に多数建て込んでいる。鉄橋の下は雨露を凌ぐには最適かもしれないが、列車のあの轟音にも慣れてしまうものなのだろうか。ここには京急本線の他に東海道線と京浜東北線の鉄橋もあり、いずれも大幹線であるからかなりの通過本数がある。ここの住人なのだろうか、幾人か集まって麻雀をしていた。

川崎市側から川を渡る列車をしばらく撮影して、川崎駅に至る。有名な川崎大師へ向かう京急大師線もそばを走っている。川崎の街には今年の冬のある深夜に飲みに行っただけで、記憶も定かではない。よって周囲をちゃんと歩いたのは初めてであるが、クリスマス前とあってなかなかの人手。今度はもう少し駅の周りを歩くとともに、今や重要な観光資源にもなりつつある京浜工業地帯の風景も眺めてみたいものである。または、初詣に川崎大師に訪れるのもいいかもしれない。

【2020年のひとこと】
蒲田や六郷、糀谷付近も住んでみたいと思った町。もちろん町の雰囲気も良かったが、当時は北海道に向かうのに羽田空港を利用していたので利便性という面でも。そして川崎市も歩いてみたいと書かれているが、結局それはかなわなかった。

 

 

 

 

10.12.23 天長節(10.12.23撮影)

今日は休日であるが、平日と同じ時間に出かける。快晴の小春日和に向かう先は皇居。言うまでもなく、天皇誕生日の一般参賀のためで、天皇皇后両陛下らのお出ましがあるためである。昨年も皇居には行ったが、午後からの記帳のみであった。その後、新年の一般参賀にも訪れているが、今日はやはり東京近郊の人々が中心だからだろうか、正月よりもずっと人は少なく、労せずして陛下のお姿を拝見することができた。やはり、外国人観光客の姿が多く見られた。

桔梗門から皇居を出て、日比谷公園へ。この時の気温が15℃くらいで歩いていると少し暑いくらいである。園内をしばらく散歩したり野外音楽堂でのコンサートに耳を傾けたりする。公園を出て、霞ヶ関の官庁街へ。人気の全く無い場所を歩くのは好きだが、さすがに休日の霞ヶ関はあまりに味気の無いものである。坂を登れば、国会議事堂や首相官邸に行き当たるが、今ではあまり見たくないものである。

引き続き歩いて、六本木まで。再開発されたオフィスビルや高層マンションが建ち並んでいて、此処かしこで建設工事が行われている。しかし、裏路地に目を転じてみると、坂の多い街には昔ながらの住居も意外と多く残っている。この六本木にある永井荷風の旧居「偏奇館」跡地には以前から訪れたいと思っていたが、あまり好んで歩く街でもないため、ついに1年経ってしまった。その旧居があった場所は現在「泉ガーデンタワー」という、オフィスビルとなっていて、それを示す掲示板があるとのことだったが、結局、見つけ出すことができなかった。再開発によって偏奇館のあった地形すら失われたという。この後六本木や赤坂の繁華街を歩いて、地下鉄に乗って世田谷まで出かけた。

降り立ったのは小田急線の豪徳寺駅。都内に残る路面電車の一つ(といってもほぼ全線専用軌道だが)東急世田谷線とも連絡していて、駅の周りには狭い路地に商店続いていて、私の住む立石の雰囲気によく似ている。本当に静かな住宅街を歩いていると、ひときわ目立つ、ツタの絡まったコンクリート造のマンションがある。ここは荒木経惟氏の住まいであり、氏の写真集には必ず登場し、その象徴とも言えるバルコニーらしきものも見える。築40年くらいという感じがするが、全く人のいる気配が無かったのが不思議であった。

また豪徳寺駅周辺の街並みを見て、今度は京王線の下高井戸へ。世田谷には適切でない用語法であるが(どちらかというと山の手に属するので)、ここにも庶民的な下町風情が溢れている。続いて訪れた明大前はその名の通り、大学生がたくさん歩いている。もう一息入れて、日没後の新宿か渋谷に出ようとも思っていたが、歩き疲れてしまったのと(この1週間は異様な疲労感に襲われている)、またも頭痛に苛まれてしまったので帰宅の途に着く。この後笹塚で(京王新線)・地下鉄新宿線に乗換えてから、馬喰横山の乗換までほとんど寝通しであった。

そろそろ、年末年始の予定でも立ててみなければならない。特にこれといったものもなく、いつもの休日のように過ぎてしまいそうであるが。

【2020年のひとこと】
あれから10年。政治体制も変われば(長期独裁政権)、元号も変わった。そしてアラーキー氏の評価も大きく変わった。もちろん上皇陛下として御存命だけど、もう皇居のバルコニーに立つ姿が見られないとなると少し寂しくはある。
六本木は2019年にも少し歩く機会があったが、世田谷方面はまた歩くことはあるだろうか。下高井戸はもう一度ちゃんと歩いておきたいし、三軒茶屋には行ったことがない。

 

 

 

 

10.12.26 葛西・浦安(10.12.26撮影)

昨日の土曜日は出社して、久々に撮影業務をしていた。相変らず風邪のような状態が続いているが、ちょっとした用件があったので、地下鉄で一度都心を経由して葛西まで出かけた。今日は寒波が到来していて、最高気温は10度前後と、この冬一番の寒さだというが、北海道にくらべれば晩秋のようなものである。それでも寒いものは寒い。葛西では毎度お馴染みの地下鉄博物館へ。企画展の「地下鉄におけるパブリックアートの変遷展」を見て、2011年カレンダー入りの大判路線図を買い求める。これも毎度のことだが、たくさん訪れている子どもたちが大変騒がしく、あまりゆっくり展示を見られるという事は無い。

博物館を出て、東西線の高架沿いにしばらく歩く。やがて東京都と千葉県を分かつ旧江戸川に架かる浦安橋に差し掛かり、同じく川を渡る東西線の鉄橋を望むと、そこには何隻かの釣り船や屋形船が停泊しているのが見える。この浦安市は市域のほとんどが埋立地で、東京ディズニーリゾートで有名な、ベッドタウンとなっているが、埋立てが進み、東西線の開通する昭和40年代までは、純然たる漁村であったという。今では河口にある釣り船だけが、その名残を感じさせるものである。浦安から東西線の快速に乗って終点西船橋まで。まだまだ明るかったが、相変らずの疲労感と、寒風が身体に障る気がするので、歩いて5分ほどの京成西船まで行って、そこから帰ってきた。冬至を過ぎると急に日が延びたような感じになる。

相変らずのまとまりの無さではあるが、今年の撮り納めもまた意外な場所になるかもしれない。

【2020年のひとこと】
葛西へは地下鉄博物館のために何度か訪れていた。河口の町というのも非常に好きで、北海道に戻るとなかなかいいところがないので、この界隈も非常に懐かしく思える。

 

 

 

 

10.12.31 千葉ニュータウン(10.12.31撮影)

今年も残すところ一日。大晦日らしく御徒町のアメ横か浅草寺あたりを歩こうかとも思ったが、いつもより本当に静かな立石の町から向かった先は京成高砂駅。ここから北総鉄道北総線に入る。年末年始の時期には全線1000円で乗れる一日乗車券が発売されているためである。この路線は建設時の複雑な経緯のために通常運賃が非常に高く、隣の駅に行くのにも300円ほどかかる区間さえあり、自宅から比較的近いというのに、あまり気軽に出かけられる場所ではなかった。以前にも北総線区間は乗車した事があるものの、今日は気になった所で降りてみることができる。相変らずの高規格の線路を100キロ超のスピードで飛ばしていく(成田空港に向かうスカイライナーは新幹線を除くと国内最速の160km/hで走行している)。線路の両側は掘割だったり、広大な空き地だったりするので、周囲の様子はあまりよく分からない。この空き地には本八幡から千葉ニュータウンへ延びる別ルートや、成田新幹線のための用地らしいがいずれも頓挫して、現在では所々自動車道の整備が進められている。

最初に降り立ったのは千葉ニュータウン中央駅。説明するまでもないが、千葉県北西部にある千葉ニュータウンの中心部に位置する。周囲には大型のショッピングモールや、ありとあらゆるロードサイド型業態の大型店舗が集まっている。ディズニーランドに匹敵する集客を誇る一帯だという。しかし、駅の周辺は妙に閑散としていて、やけに広い広場があるだけである。そのショッピングモールも高層マンションも、ずっと広がる戸建住宅は、線路より少し離れた場所にある。一見華やかではあるが、無味乾燥とした街並みで、歩いていると途方も無い気分にさせられるが、それもそれで悪くは無い。やはり郊外の住宅地で育ったためだろうか。シムシティなどのシミュレーションゲームの街並みを具現化したようでもある。

駅の周辺を30分くらい歩いて、次は北総線の終端、印旛日本医大(松虫姫)駅へ。今年の7月からはここからさらに成田空港まで、成田スカイアクセス線が開業したが、それまではしばらくはここが終点。駅の副称である松虫姫は聖武天皇の皇女にまつわる伝説に由来するという、大変歴史の古い場所であるが、駅の周りはこぎれいな広場とマンションが一棟、それから交番ではなく駐在所があるのみである。数年前までこの場所は印旛村に位置していたが(現在は印西市)、都心から来る電車の終着地がこことすると、何だか感慨深いものがある。それにしても、本当に最果てのような感じがする。

最後には今日訪れた千葉ニュータウンと印旛日本医大の中間にある、印西牧の原駅へ。ここにもロードサイド型店舗が集積していて、この広大なニュータウンには不似合いな観覧車まであるが、年末のためか人通りも少なく、札幌北部のニュータウン、あいの里地区よりもがらんとした印象を受ける。しかし、周囲の広幅員の道路は少し渋滞しているので、やはりここは自動車を中心とした都市構造のようだ。高額な運賃のせいなのか電車はほとんどガラガラであった。しかし、千葉ニュータウンは広大な台地の上にあるためか、非常に広々としていて夕暮れ空が一面に見渡せる。この日はほとんど快晴で、全く今年最後の散歩には相応しいものであった。日が沈んでコダクロームのようなビビッドなグラデーションの広がる空を見ながら、北総線は京成高砂に向かう。非常に高速ではあるがそれでも印旛日本医大からは30分以上かかる。

この一年は東京を中心に歩き回っていたが、こうした最果ての場所で締めくくるのもなかなか悪くないかもしれない。また、明日から早速撮り初めとなりそうではあるが

【2020年のひとこと】
当時の千葉ニュータウン近辺は首都圏の最果てという印象があったが、今では成田空港を利用することが増えたので、東京の入り口という感じもする。それでも電車は掘割の中を高速で走るので、周りの風景はあまり分からないし、やはり東京都心までは1時間近くかかるのではあるが。
あまり写真を撮るには向かないが、たまには郊外のだだっ広いニュータウの風景を見ないと落ち着かないというのは相変わらずである。