写真都市

Yasushi Ito Portfolio Page

2005~2011 ブログ「写真都市」に投稿したもの

ブログ「写真都市」より

今(2020年)と考え方は違う部分も多いけど、変遷として載せておきます。

 

(05.10.29)
さしずめの命題は「写真に言葉は必要か」ということです。
僕はただ適当に「無題」とか言っちゃうのがとても嫌いだが、
言葉のイメージで作品を規定してしまうのも非常に危険なことだと思う。

言葉のイメージが、 強すぎると表層的、 弱すぎても興ざめ となってどちらも写真をダメにしてしまう。
もちろん見せ方その他も重要な要素であって、これも今回の反省点に大きく含まれている。
とりあえず、今の表現方法はずっと持っていたいと思っている。
どんなことでも10年続けていればそれなりにモノになると思うからである。

それに、今のプリントはある意味、今の僕にしか出来ないものかもしれないとも思っている。
その上で、様々な表現方法を見につけ、自分の中に沢山の引き出しを作っていくことも大事なことである。
具体的には、カラー写真、デジタル写真などである。とにかく続けることが大事ではないか。
おそらく、写真を全く撮れなくなる日は来ると思う。それを乗り越えないと多分本物ではない。
実は、人生に絡めて考えているから余計に面倒なのである。
経済手段として、生涯の趣味として。 現在、写真のない人生は全く想定していない。
そうなると、尚更生半可な態度で向き合うことはできないだろう。
もっとストイックにやらないとダメだ。

どうして僕の写真は黒いのか、 コントラストが高いのか、
不安定さをその要素に抱えているのか、 考え出すとキリがない。

 

(06.03.20)
写真を始めた高校時代のネガを焼き直していたのですが、
セレクトされた作品は、 どれも被写体と一定の距離を持った、
撮影者の意図がある程度働くものばかりでした。
プリントもできるだけ「普通」な感じにしてみました。
これも自分にとっては新鮮なことでした。
焼いている最中は、まるで他人のネガを焼いているようで、
それもプリントに反映されているような感じがします。
また、被写体への距離感は、今でこそある程度の意識はありますが、
当初から(それこそ人生1本目のモノクロネガから)その志向が一貫していたことは、自分としては発見でした。
最も自分の中で馴染みの深い「街」の風景を記憶するために、
最も客観的であると考えられる「写真」というメディアで記録する、
これは、会場のキャプションに記したような、その根本的な問いへの回答の一部でしかありませんが、
この展示から今後の活動に反映されることは多いだろうと思います。
過去とは手法の差こそあれ、ある対象へ出来るだけフラットな出力ができればと思います。

 

(07.02.08)
高校で最初に写真をはじめた動機は、本当にはっきりとしなくて今でも不思議に思うのだが、
とりあえずは街の風景を写してみたいし、なんとなく記録をしてみたいなーと思って、
札幌市内を一日乗車券で色々撮り歩いたこともあった。

そんなことを1年半くらい続けていたが、何となく飽きてしまって、
別の趣味や活動も続けていたので、 大学に入るまでそのペースはかなり落ちていた(月1本とかそういうレベル)。
それで、大学入学してしばらく、 もう一度ちゃんと写真をやってみようと思い(実は高3くらいから徐々にそんな気はしてたが)写真部に入部。
人並みのプリント技術はあったので、それなりに充実した活動をしていた。

そこで、やはり写真についての本でも読まないといけないと思い、確か大学の図書館だったと思うが、
何気なくモノクロームの写真を見たときに何だか分からないが衝撃を受けた。
タイトルは確か「東京-網目の世界」。
巻末の著者一覧を見ると(オムニバス形式だった)、「森山大道」の名前。

とにかく衝撃だったのだと思う。
モノクロ写真ってこんなに格好いいものだったのだなとか、
何気ない街角もこんなにインパクトを与えられるのだなとか、
これまで撮ってきた写真に何か符号するものがあって、
「ちゃんと写真をやってみよう」という思いを新たにして、
彼の写真を可能な限り見て、 ほとんど真似のような写真ばかり撮っていた(今でもそうだが…)。

それから、いろんな写真を見て、色々な考え方に触れて、
少しずつ自分独自の考え方や写真なんかも少し出来るようになってきたかなと、最近では少し思っている。

 

(07.03.29)
さて、今日は僕の好きな写真のフォーマットについて。
使用するレンズは大概28mmくらいで、
発表するほとんどは横位置、 使うフィルムは35ミリモノクローム、横長にトリミングすることもある。

まあ、運用上の都合というのがもともとのきっかけだが、
いつも写真を撮るときは「映画のような」ひとコマを意識する、というスタイルのためである。
しかし、「意識する」という言い方も変で、この三原則は人間の視点にもっとも近いもので、
「無意識」を「意識」できるフォーマットと考えている。

もちろん縦位置で撮って焼くときもあるが、それは撮る対象と空間の広がりを明確に意識して、
切り取っているときで、それはそれで大切にしているが。

 

(07.10.31)
自分としては、 写真を撮るときにはフラグメントとシーケンスの二つのモードがあるように思う。
カメラで風景・事物を切り取る場合と、一連の流れ・余韻を捉えようとする場合。

前者は多くが縦位置写真で、静的なものを切り取り、
後者では横位置である程度の時間の流れを記録するように意識している。
行為としては、前者こそが風景をカメラに焼き付けているとするならば、
後者はムービーカメラを回しているような印象である。

もはや自分でも何を言いたいのかよく分らなくなってきたのでこの辺にするが、
この二つのモードをより強く意識した撮影・制作を行っていきたいと思っている。

また、今までの話と大きく矛盾するようではあるが、
最近は「フラット/客観的」に写真を撮っていこうという思いもある。
「客観性/主観性」については、 以前このブログでも長々と書き連ねたので省略するが、
あの時よりは気楽に写真を撮って持続させることができたらなーと思っている。

そこで、最近はとみにこのブログでも掲載される機会の多いデジタルカメラで撮影された写真。
仕事用に最近一台買ったのだが、これが今後の表現のためのキーになるかなぁと思っている。
勿論、銀塩の粒子を捨てることはしないが。
デジタル写真論についてはまた今度。

 

(07.11.24)
いつもの仕事もしつつ、今週は割と時間が作れたので、個展に向けての作品選定を進めていた。
焼いたのは大キャビネ判で100枚超。 2,300枚あった候補から半分以上削られたわけである。
これから追加で撮影する分もあるだろうから、本番までにこれをあと4分の1くらいにしたいところである。

しかし次々削っていくと、最終的には4つくらいのパターンに単純化されてくる。
自分でも妙に感心してしまうのだが、よくもまあ同じように一定して捉えられるなぁ。
そうなってくると、絞込みも簡単に思われるかもしれないが、
この段階になってくるとどれもこれもそれなりに思い入れがあり、
気に入っている写真ばかりだから、ますます苦悩は深まる。

ともあれ、できるだけ一定の品質のものを提示したいし、
そのために分母は大きければ大きいほどいいと思っているので、
これからわずかな期間ではあるが、 さらに撮ってさらに焼いていきたいところである。
セレクトを他者に託すという方法もあるのだし。

何を削って、 何を残すか。
写真は彫塑のようでもある。

 

(08.01.21)
最近、大学を卒業した後の制作の方法について色々考えている。
今までのように専用の暗室があれば最高なのだが、現在の住宅事情やコストの面を考えると難が残る。
家に仮設の暗室を作るとしても管理が大変だし、あまり大きなプリントには対応できなさそう。
専用の暗室を構えるとしたらやはり数人でシェアしないと効率が悪い。
それにだいたい今後はそんなにまとまった時間も取りにくくなるかもしれない。
とりあえず制作をやめるという選択肢は設けないこととして、
じゃあ、コストも比較的押さえられて、 時間がかからないカラー写真のラボプリントにするか。
当然選択しうる方法ではあるが、やはり「モノクロプリント」から離れるのは感覚的に難しい。
それにこれまでのように自分であれこれプリントを調節したいというのもある。
というより、ご存知の通りそっちが今までのメインの活動だったわけで。

そこで有力な選択肢として浮上してくるのが、モノクロ向けインクジェットプリンタによる出力。
正直「入力」については(デジタルカメラかフィルムカメラ)はそんなに大した問題ではなく、
状況に応じて使い分けていけばいいと思っているが、
やはりモノクロの「出力」についてが自分にとっての大きな関心となる。
最近インクジェットプリンタによる美しいモノクロプリントを見る機会に恵まれて、
色々考えるうちにコストや時間の現実なことを考えると、この選択は最適かなぁと思っている。

問題となるのは、思い通りのプリントを作ることが出来る「技術」があるかどうかである。
今のところ、画像処理も素人レベルだし、デジタル技術に関する知識もほとんどない。
果たして、これまでの銀塩プリントのような表現が(別に今のプリントが最高だとも思っていないが)、
デジタルでも再現できるのか、どれくらいかかるか分らないが研究してみたいと思っている。

数年後は自分の表現手法も大きく変わっているかもしれないが、
やっぱりモノクロからはなかなか抜けられそうもないだろう。

 

(08.11.19)
デジタルカメラを手にして1年と少しになる。
この春からデジタルカメラで撮影する機会が格段に増えたため(というかデジタルカメラしか使っていない)、
毎日のように画像をアップし続けている。

意外と自分の写真を撮る時間があるということも大きいが、
結論を言えばデジタルカメラを手にして、 「自由」を得ることが出来たと思っている。
導入前は色々と文句をつけて懐疑的だったものが、暗室を使えなくなったというのがかなり大きいけれども、
自分の撮影スタイルにマッチしているということが分かったのだ。

撮る写真はストリートスナップが中心だから、自然と枚数が多くなる。
しかし、今までのように残り枚数を気にすることなく、撮影に集中することができる。
そのために、写真が散漫になってしまったことも否めないが、色々なパターンを試すこともできるようになった。
また、データとして写真をシスティマティックに管理できるようになったのも、整理な苦手な僕にとって大きなメリットだ。
もっとも、バックアップの問題など新たに気にしなければいけないことも沢山あるが。

最近では、RAW形式で撮影することが主となっているが、
その「現像」というプロセスや、 その後のフォトレタッチの作業は、
これまで行っていた暗室での現像作業に共通する要素が結構あったりする。
データさえあればどこでもある程度の作業や、他人に見せたりできるのもいい。
あとは、プリンタを使った出力ができれば完璧なのだが、予算その他諸々の事情でしばらくは実現できそうもない。
そういうわけで、最初はなんだかんだ言っていたが、今では結構デジタルカメラを楽しんでいる。

 

(09.07.18)
もし自分の記録を後世を残したいとすれば、こつこつマメにプリントとして残すしかないのだろう。
現在のインクジェット用紙も200年くらいは持つらしい(その時にならなければ分からないけど…)。
ちゃんと管理されていれば、それなりに後世に伝えることも可能なのだろう。
あとは、今のデジタルデータが遠い未来にどのような扱い方をされているのかといった問題です。
案外あっさりと大昔のデータにもアクセスできるようになってたりして?
でもまぁ、こうして見てみると、やっぱり銀塩モノクロはいいなぁと思ってしまう。
今のところデジタルでのモノクロはどうもしっくりこない。

とにかく、100年以上前の札幌の姿を、我々は現在写真でみることができるように (これは世界史的にも非常に重要な事だと思います)、
何らかの形でこの20世紀末から21世紀前半の世界の姿を残すことができればと思います。

 

(11.05.26)
久しぶりにじっくり他人の写真を見たような気がする。
気になる点はたくさんあっていちいち細かく指摘したつもりだけど、
結局のところ「いい写真」って何だろう、という思いになる。

「好きな写真」というのはあって、そのパターンもだいたい把握しているつもりである。
好きなジャンルのものでなくても、心を打つものとそうでないものがあるのは不思議である。
その結果「好きな写真」のパターンが増えるというのもよくある話。

結局のところ「いい写真」というのは、被写体や作品づくりに対する真摯な心がけなのかという気がする。
何か思うことがあってシャッターを押して、その中から人に見せたいと思うものを選ぶということには、
何らかの思いが強いものでないと絶対に目を引かない。
そういう意味では自分が取り組んでいる写真は、「強い思い」のようなものが希薄でさっそく前言と矛盾してしまうのだが、
ここ10年同じようなことを飽きもせず続ける謎のこだわりには、それなりに意味があるのかなという気はしている。

もっとも自分にとって面白ければそれでいいという乱暴なことも考えてしまうが、
それでは「究極の客観性」という写真の大切な機能を殺してしまうかもしれない。
でも、強い自己愛みたいなものもパワーがあって、目を引いてしまうというのもまた真理かもしれない。
結局一番気になってしまうのは街の風景でもあるし。
ポートレートなんかも好きなのだが、 哀しいかな自分にはやっぱり見る目がない。

さて、それ以前の話に、テクニカルな面などで丁寧さを心がけないものは論外だと思う。
完璧きれいに見せるというのは実に難しくて、自分でもまったく出来てはいないのだけど、
以上でうだうだ言っておいて僕が気にしたいのは、 写真の内容や精神云々よりも印画紙の選び方やプリントの品質、額装の方法だったりする。
やっぱり自分の大切な写真は、最高にかっこよくして見せようとしないともったいない。
かつて自分もプリントにはかなりこだわったつもりだが(その割にはゴミとかキズを指摘されるのもしばしばでしたが…)、
それと同じくらい展示方法をどうしようとか、キャプションのフォントをどうしようとか、
マットフレームや額縁は何を使おうとかを、 考えるのも同じくらい重要視していたし、
また楽しかった(もっともこれを心がけたのはある程度年数が経ってからだが)。

こういう変なこだわりの強い人間に限って、どうしようもなく不器用だったりするので、
その点私も大変苦労したのだが、 文明の利器(PCなど)や優秀な既製品でもある程度カバーできる。
また、他人に任せられるものについては押し付けてしまえばいいのである。
逆にプリントはとことんこだわるべきだし、いくらかのロスプリントも覚悟しないといけない。
とにかくこうした努力の形跡が見られないものは、鼻から見る気がしないし、評価しようもないものである。
長々とどうでもいい事を書いてしまったが、とにかく写真を撮って見せることへの楽しみが無いと、
その行為は無意味なものになってしまう。