この日から一人で行動。
これまでの観光モードはある程度陰を潜めて、
ある意味でいつもと変わらぬ街歩きを続けることになる。
目にする景色は今まで全く見た事のないものばかりだったが。
これまでの観光モードはある程度陰を潜めて、
ある意味でいつもと変わらぬ街歩きを続けることになる。
目にする景色は今まで全く見た事のないものばかりだったが。
昨日も若干くたびれたのと、いいだけ泡盛を飲んでいたので、
この日は少し遅く10時半頃に那覇を出発。
また沖縄道を北上して、終点の一つ前、宜野座インターチェンジで降りて、国道329号を北上する。
国道沿いにこれまでのやや寂れた街の景色とはあまりにかけ離れている、
巨大なビルがそびえている。
門には「沖縄工業高等専門学校」とある。
後で調べると2004年に県北部の振興のために開校したものだという。
言うまでもなく、基地とも関係してくる問題でもあるのだろう。
そんな高専の駐車場を借りて訪れたのは、学校の下に広がっている名護市辺野古の街だ。
「辺野古」…テレビや新聞などを通して、全国民が聞いたことのある地名である。
そのほとんど全部が米軍普天間飛行場移設問題に関わるものだと思う。
私もそのイメージしかなかったのだが、今回「アップルタウン」という町があることを聞きつけ、
歩き回り、そのイメージはまた違う方向に向かうことになった。
この先も沖縄にとって「基地問題」は避けて通れないものであるが、今回の旅で自分の中の複雑さは更に深まった。
そのため、深くは立ち入らないことにしようと思ったが、街歩きにもどうしてもつきまとってくるのであった。
「アップルタウン」というと、近年できたニュータウンか、iPhoneでも売ってそうな感じがするが、
その歴史は1957年と古く、その謂れは以下の看板に詳しい。
つまりこの町は地元民と米軍のアップル大佐によって作られた米軍相手の歓楽街であるのだが、
今ではその繁栄も遠い昔に過ぎ去ったような寂れた街並が続いている。
「アップルタウン」は坂道も多いが、15分くらいもあれば歩き回れるような町である。
しかし、そのブロック毎には風化しかかっているような飲み屋やレストランが並んでいて、1時間以上たっぷり歩き回ることになった。
最後の繁栄はベトナム戦争の頃だったというから、40年ほど前に時計が止まってしまった町である。
もし、新基地が辺野古にやってくるとして、それが変わるのか変わらないのか全く分からない。
とにかく「兵どもが夢の跡」とでも呼びたくなるような、風化したコンクリートの壁が並んでいるだけである。
丘の上にある「アップルタウン」から降りて、辺野古の浜辺に向かう。
近くの公民館で祭りのようなことをやっているのか、道が車で埋め尽くされている。
先ほどの「アップルタウン」ではほとんど人の姿を見かけなかったが、こちらにいたのだろうか。
先ほどの「アップルタウン」ではほとんど人の姿を見かけなかったが、こちらにいたのだろうか。
この辺野古の海にもエメラルドグリーンが広がっている。漁港の堤防の先には祠と拝所がある。
大変美しい場所だが、この先が新基地の埋め立て予定地となっている。
米軍であれ、民間空港であれこの海を埋め立てていいはずは無いと思うが、話はそう単純なものでもない。
米軍であれ、民間空港であれこの海を埋め立てていいはずは無いと思うが、話はそう単純なものでもない。
反対派の掲げる、多くの建設反対の横断幕が建設予定地のフェンスに巻き付けられ、風に吹かれていた。
車を南下させて、次は金武(きん)町に向かう。
ここも米軍基地(キャンプ・ハンセン)の門前町で、是非見ておくべき街並であると聞いていた。
まずは町役場に車を停めて、近くの「うしなー社交街」などを撮る。
ちなみに「うしなー」とは闘牛場のことらしい。
ちなみに「うしなー」とは闘牛場のことらしい。
次にキャンプ・ハンセン正面ゲート近くにある公共駐車場に停めて、「金武新開地」を歩く。
ここは先ほどの辺野古とは違って、現役の歓楽街で更にアメリカナイズされたような感じである
(ただし建物自体はやはり40年以上前のものである)。
ここは先ほどの辺野古とは違って、現役の歓楽街で更にアメリカナイズされたような感じである
(ただし建物自体はやはり40年以上前のものである)。
タコスやピザなどの商品はドルでも表示されていて、外国を歩いているようだ。いつか訪れた福生の街並のようである。
この金武新開地の店で発祥とされているものに「タコライス」がある。
タコスの具であるひき肉やレタスなどが米飯に乗ったものである。
アメリカと沖縄が混じり合う「チャンプルー文化」の象徴のひとつかもしれない。
タコスの具であるひき肉やレタスなどが米飯に乗ったものである。
アメリカと沖縄が混じり合う「チャンプルー文化」の象徴のひとつかもしれない。
発祥とされる「キングタコス」でタコスとタコライスをテイクアウトで買い求めたが、抱いていたイメージと違って大変な量である。
車の中でタコスだけ食べて、タコライスは帰ってから夕食にしたが、濃厚な味付けもあって翌日まで胸焼けが残った。
夕暮れが近づく海沿いを走りながら、那覇へと戻る。
こちらの日照は北海道より30分くらいずれているので、日が長くなったような感じがする。
こちらの日照は北海道より30分くらいずれているので、日が長くなったような感じがする。
金武湾に沈む夕陽があまりに美しかったので、パーキングエリアに車を停めて海岸に出る。
海岸には米軍の家族が石などを拾って遊んでいた。
沖縄と米国のモザイク模様を街角からも感じた一日だった。
この日のカット数410。
6日目
ここまで連日の運転で疲れてしまったので、この日は再び那覇の街を歩く事にした。
那覇も見ていないところがまだ沢山あるのだ。
部屋から国場川沿いに出て、初日に訪れた明治橋を越えて、那覇港旅客ターミナルへと向かう。
土産物屋や大きな待合室などがあるが、現在では奄美諸島と鹿児島へ向かう便があるだけで、閑散としている。
そこから北上して、「西」や「辻」と呼ばれる街を歩く。
特に後者は性風俗店が密集しているエリアで、まだ午前の早い時間ではあったが、客引きの姿が少し見える。
時間によっては撮り歩くのも大変かもしれない。
特に後者は性風俗店が密集しているエリアで、まだ午前の早い時間ではあったが、客引きの姿が少し見える。
時間によっては撮り歩くのも大変かもしれない。
更に北へ行くと、護国寺と波上宮という本土のような寺社仏閣を見かける。
とはいえ、本殿の屋根は沖縄風の屋根瓦ではあるのだが。
とはいえ、本殿の屋根は沖縄風の屋根瓦ではあるのだが。
波上宮は伊弉諾尊などが祀られていて、その由縁を調べると琉球古来の信仰と本土の日本神道が融合されたもののようだ。
こちらの正月のスタイルなどはよく分からないが、初詣の日は大変混雑するらしい。
こちらの正月のスタイルなどはよく分からないが、初詣の日は大変混雑するらしい。
神社の裏には終戦直前に撃沈された民間船「対馬丸」に関する記念碑や各種の慰霊碑、それからビーチがある。
目の前の景色はバイパスの橋脚に塞がれているが、那覇市民の遊び場になっているようだ。
目の前の景色はバイパスの橋脚に塞がれているが、那覇市民の遊び場になっているようだ。
看板を見ると、遊泳できるのは4月から10月まで。
7、8月の限られた日数しか泳ぐ事のできない国から来た人間にはとても信じられないものだ。
7、8月の限られた日数しか泳ぐ事のできない国から来た人間にはとても信じられないものだ。
若狭の町を抜け、「泊埠頭旅客ターミナル」へとたどり着く。
ここからは座間味島・渡嘉敷島・久米島など離島へと達するフェリーがいくつか出ている。
ここからは座間味島・渡嘉敷島・久米島など離島へと達するフェリーがいくつか出ている。
この日も気温は20℃くらいまで上がっていて、なかなか暑い。
前島・牧志と歩き周る。
モノレール牧志駅のあたりには中華料理店が集まっていて、ちょっとした中華街のようでもある。
もっとも沖縄文化自体、その歴史的背景から中国の文化を受けている部分も大きいのだが。
モノレール牧志駅のあたりには中華料理店が集まっていて、ちょっとした中華街のようでもある。
もっとも沖縄文化自体、その歴史的背景から中国の文化を受けている部分も大きいのだが。
近くを歩いていると、見事な石門を見かける。
崇元寺(そうげんじ)という14世紀に建てられた寺院だが、大戦の戦火に遭い、
石門が残っているだけである。境内だった場所にはこちらも見事なガジュマルの樹が根を下ろしている。
崇元寺(そうげんじ)という14世紀に建てられた寺院だが、大戦の戦火に遭い、
石門が残っているだけである。境内だった場所にはこちらも見事なガジュマルの樹が根を下ろしている。
しかし、コンクリート建築とともに、このガジュマルも早くも見慣れたものになってしまった。
モノレールの安里駅まで達する。
日中でも浦添市方面まで続く安里バイパスは平日の午前ではあるが大変渋滞している。
そうでなくても、那覇市内の大体のバイパスはどこも同じような感じである。
バイパスの上を走るモノレールはいつも空いているが、それでも自動車からモノレールにシフトするという動きは進まないようである。
バイパスの上を走るモノレールはいつも空いているが、それでも自動車からモノレールにシフトするという動きは進まないようである。
現況では那覇の中心部のみを、それも市民の動線から微妙に外れたところを走っているので、
周辺市町村まで広域化している通勤圏においては、まだまだ使いやすいものとは言えない。
周辺市町村まで広域化している通勤圏においては、まだまだ使いやすいものとは言えない。
同じようなことは北海道、札幌でも言えるのだが、
今後、路線が拡充するか、パークアンドライド、路線バスとの接続の改善があれば、
この交通問題も解決に向かうかもしれない。
既に数年来、このような取り組みは行われてはいるのだが。
今後、路線が拡充するか、パークアンドライド、路線バスとの接続の改善があれば、
この交通問題も解決に向かうかもしれない。
既に数年来、このような取り組みは行われてはいるのだが。
さて、そんな現代的な景観を呈するバイパスとモノレールとは対照的に、
駅のすぐそばには、これまでの沖縄の時間の流れをずっと守っているような「社交街」と「マチグァー」の風景がある。
駅のすぐそばには、これまでの沖縄の時間の流れをずっと守っているような「社交街」と「マチグァー」の風景がある。
最初に歩いたのは「栄町社交街」、このような今となっては不安感を煽るロゴマークがそれぞれの店に貼られている。
おそらく放射線管理区域とかではないだろう。
おそらく放射線管理区域とかではないだろう。
こちらの注意書きには「折半営業の禁止」とあるが、つまり何らかの怪しげな商売が行われていたということであろう。
社交街にはそのための「旅館」がいくつかある。
社交街にはそのための「旅館」がいくつかある。
社交街に隣り合うように「栄町市場」がある。
こちらも実に沖縄らしい雰囲気のある市場であるが、
牧志の市場などと比べると完全に地元の人々のためのものという感じがある。
もっともモノレールができてからは、自分のように足をのばす観光客もいるのだろうが。
こちらも実に沖縄らしい雰囲気のある市場であるが、
牧志の市場などと比べると完全に地元の人々のためのものという感じがある。
もっともモノレールができてからは、自分のように足をのばす観光客もいるのだろうが。
那覇市の中心部には大型のスーパーマーケット、ともすればコンビニエンスストアも少ない。
その他に、こうした独特の流通でしか買えないであろう食材などが、
沖縄の人々に根付いていて、いまだに「マチグァー」が各地に息づいている所以なんだろうと思う。
沖縄の人々に根付いていて、いまだに「マチグァー」が各地に息づいている所以なんだろうと思う。
その後は、牧志、桜坂や壺屋、国際通りなど初日に訪れた所を再び歩きながら、土産物などを買う。
初日と同じく、ここまでずっと飲まず喰わずで歩き回っているわけだが、まだまだいくらでも歩けそうな感じがする。
初日と同じく、ここまでずっと飲まず喰わずで歩き回っているわけだが、まだまだいくらでも歩けそうな感じがする。
誰かといる間は3食しっかりとって、普段しない間食までするのに、随分な落差であるが、
おそらくほとんど口を開かないためであろう。一日中ずっと会話をしていれば、かなりのエネルギーを使うものだ。
おそらくほとんど口を開かないためであろう。一日中ずっと会話をしていれば、かなりのエネルギーを使うものだ。
最後に、実に特徴的な建築である那覇市役所新庁舎を訪れ、路線バスのマップをもらう。
相当な路線を持つ沖縄県では重要なものだろうと思う。
相当な路線を持つ沖縄県では重要なものだろうと思う。
那覇の街中を一通り歩き回って、部屋に戻ったがまだまだ明るい。
経度の関係で北海道よりも夕暮れが30分ほど遅い。
他にも済ませたい用事があったので、車を出して空港方面へ。
5時くらい糸満市方面へ帰宅の時間で渋滞が伸びつつある。
場合にもよるだろうが、やはり自動車で空港に行くのは時間が読めなくて危ないかもしれない。
場合にもよるだろうが、やはり自動車で空港に行くのは時間が読めなくて危ないかもしれない。
到着したのは豊見城市にある瀬長島。
那覇空港の滑走路の延長線上にあって、次々と離陸する航空機を本当に間近に見る事が出来る。
また、本島最西端でもあり、夕陽の名所としても知られているらしい。
この時も多くの人々が島に集まりつつあった。
この時も多くの人々が島に集まりつつあった。
地元の家族連れの姿も多くある。
多くは三世代の5、6人くらいでビーチに点々と軽い食事などをしている。
多くは三世代の5、6人くらいでビーチに点々と軽い食事などをしている。
沈み行く夕陽や、それに照らされる黄金色の海も相まって、とても美しく、とても幸福な光景に見える。
時期的にはちょっと早いらしいが、ちょっとした「ビーチパーリー」というものだろうか。
その語源は言うまでもなく「Beach Party」で、アメリカより流入した文化であろう。
彼らも沖縄の人も家族で行動する事を大切にしているのであろうということを感じた。
その語源は言うまでもなく「Beach Party」で、アメリカより流入した文化であろう。
彼らも沖縄の人も家族で行動する事を大切にしているのであろうということを感じた。
思う存分夕陽を堪能してから、すっかり渋滞してしまったバイパス道路を通って那覇市中心部に向かう。
昼食というかすっかり夕食の時間だが、ふと思い出して「A&W」に車を入れる。
この「A&W」は国内では沖縄地区でのみ展開しているファストフード店で、その歴史はマクドナルドよりも古い。
この「A&W」は国内では沖縄地区でのみ展開しているファストフード店で、その歴史はマクドナルドよりも古い。
メニューはベーシックなハンバーガーなどであるが、普通のポテトフライとは明らかに別物の「カーリーフライ」や、
やはり非常に個性的なテイストの清涼飲料水「ルートビア」が面白い。
やはり非常に個性的なテイストの清涼飲料水「ルートビア」が面白い。
そんな「A&W」と適当なつまみで飲んでこの日は終わり。
この日のカット数485。
7日目
この日は再び車を出して郵便局に寄ってから北へ向かう。
何はともあれ、1週間借りておいてよかった。
何はともあれ、1週間借りておいてよかった。
相変わらず混雑気味のバイパスを進んで、最初に訪れたのは浦添市嘉数にある「嘉数高台公園」である。
ここの展望台からは米軍普天間飛行場が一望できる。
よくテレビに映し出されるアングルで、すっかり見慣れたものになってしまったものだが、
本当に間近に基地と市街地を望む事が出来る。
ここの展望台からは米軍普天間飛行場が一望できる。
よくテレビに映し出されるアングルで、すっかり見慣れたものになってしまったものだが、
本当に間近に基地と市街地を望む事が出来る。
基地には「オスプレイ」が数機並んでいる。
このオスプレイも言うまでもなく昨今問題になっているものである。
普天間飛行場移設もこの数年の政治混乱で進展が見られない。
沖縄の人々が安心できるのはずっと先になってしまいそうだが、
単純に「基地が無くなればいい」とか「基地が無くなると経済が成り立たない」という判断できない瞬間が、この日は何度もあった。
このオスプレイも言うまでもなく昨今問題になっているものである。
普天間飛行場移設もこの数年の政治混乱で進展が見られない。
沖縄の人々が安心できるのはずっと先になってしまいそうだが、
単純に「基地が無くなればいい」とか「基地が無くなると経済が成り立たない」という判断できない瞬間が、この日は何度もあった。
この嘉数の高台は同時に沖縄戦最大の激戦地でもあった。
公園内には銃撃を受けた壁や、壕(いわゆるガマ)、トーチカなどが残されている。
ちょうど、自衛官の人々が慰霊と陣地の研修のために訪れていた。
公園内には銃撃を受けた壁や、壕(いわゆるガマ)、トーチカなどが残されている。
ちょうど、自衛官の人々が慰霊と陣地の研修のために訪れていた。
結局、戦跡を見るのはここだけになってしまったが、沖縄を見る上ではどうしても避けられない風景であるようにも思う。
再び車を走らせて国道58号に出る。
町を抜けて、嘉手納基地の脇はフェンスが何キロもずっと続くだけなので、
快適に車を走らせることができる。
基地の存在さえ意識しなければ、ロードサイドには本土にある量販店が並んでいるので、
一瞬どの県を走っているのか分からなくなる。
町を抜けて、嘉手納基地の脇はフェンスが何キロもずっと続くだけなので、
快適に車を走らせることができる。
基地の存在さえ意識しなければ、ロードサイドには本土にある量販店が並んでいるので、
一瞬どの県を走っているのか分からなくなる。
嘉手納町の中心地に達する。
ここは「嘉手納ロータリー」という日本最大のロータリーがあったというが、
現在では再開発されて、通常の交差点となり、小綺麗な建物が並んでいる。
ここは「嘉手納ロータリー」という日本最大のロータリーがあったというが、
現在では再開発されて、通常の交差点となり、小綺麗な建物が並んでいる。
ロータリーの現在の様子は車から眺めるだけにして、次の町へ向かう。
嘉手納基地をぐるっと囲むように走って着いたのは、沖縄県第二の都市「沖縄市」である。
「沖縄市」とはいうが、沖縄県の中に県庁所在地でもないのに「沖縄市」とはしっくりこないものである。
地元の人にとっては、沖縄市発足から40年以上たっても違和感は強いらしく、
旧市名である「コザ」の方が通りが良い。よって、以降は「コザ」の地名を使用する。
旧市名である「コザ」の方が通りが良い。よって、以降は「コザ」の地名を使用する。
車を停めたのは、コザ旧市街地の中心にある「コリンザ」の駐車場である。
ここは市街地活性化のために作られたショッピングモールだというが、
見事に大失敗したようで、公で運営しているような特産品を扱う店の他には、
キーテナントとして仕方なくハローワークが入っているという有様である。
ここは市街地活性化のために作られたショッピングモールだというが、
見事に大失敗したようで、公で運営しているような特産品を扱う店の他には、
キーテナントとして仕方なくハローワークが入っているという有様である。
その他は店の跡地、エスカレーターは一部故障したまま打ち捨てられていた。
「コリンザ」から「パークアベニュー通り」に出る。
ここは、コザの特徴である米軍基地城下町のメインの商店街だったようだが、
多くの店はシャッターを下ろしていて閑散としていた。
ここは、コザの特徴である米軍基地城下町のメインの商店街だったようだが、
多くの店はシャッターを下ろしていて閑散としていた。
それでも、米兵向けに英語でメニューの書かれたレストランや入れ墨の店、
これはむしろ日本人向けであろうかワッペンを扱う店がある。
これはむしろ日本人向けであろうかワッペンを扱う店がある。
その脇にはいくつかのアーケード商店街がある。
なかなか小綺麗ではあるが、こちらもほとんど店が開いていない。
なかなか小綺麗ではあるが、こちらもほとんど店が開いていない。
その中に空きテナントを利用したであろう「ヒストリート」という市の資料展示室があり、
いずれも米軍との関わりと記帳とするコザの歴史や文化の解説、史料や日用品などが並べられていた。
また展示されている写真の多くは、報道写真家の石川文洋氏のものであった。
いずれも米軍との関わりと記帳とするコザの歴史や文化の解説、史料や日用品などが並べられていた。
また展示されている写真の多くは、報道写真家の石川文洋氏のものであった。
米軍向けの歓楽街の発展やその象徴である許可証の「Aサイン」、
反米闘争のひとつである「コザ暴動」「毒ガス問題」など、
じっくり見るには少し時間が足りなかったので、図説と昔のコザの街並で作ったポストカードを購入した。
反米闘争のひとつである「コザ暴動」「毒ガス問題」など、
じっくり見るには少し時間が足りなかったので、図説と昔のコザの街並で作ったポストカードを購入した。
再び静かな商店街を抜けて、「ゲート通り」に出る。
ここはコザの現在のメインストリートという感じでいくらかの活気がある。
アメリカ風の店構えはもはや沖縄ではベーシックなものであるが、
電線が地中化されていて、パーキングメーターが並んでいる様子はいかにもアメリカという感じがする。
ここはコザの現在のメインストリートという感じでいくらかの活気がある。
アメリカ風の店構えはもはや沖縄ではベーシックなものであるが、
電線が地中化されていて、パーキングメーターが並んでいる様子はいかにもアメリカという感じがする。
まぁ、アメリカに行った事は無いのだが。
ゲート通りを渡って、「上地」という町に入ると、こちらは日本人向けらしい「社交街」が続いている。
端から端まで5,600メートルくらいあって、これまで見た中で一番の規模かもしれない。
端から端まで5,600メートルくらいあって、これまで見た中で一番の規模かもしれない。
「中の町社交街」というそうだ。
そんな社交街の街角に経っていた中年男性に「さっきから色々撮っているようだけど…」と声を掛けられる。
面倒な事案か、と思われたがそうではなく、
「古い建物がどんどん無くなっているから、今のうちに撮ってまとめておくといい」という言葉をもらった。
珍しい事案である。
「古い建物がどんどん無くなっているから、今のうちに撮ってまとめておくといい」という言葉をもらった。
珍しい事案である。
北海道からの旅行者であるという旨を伝えて、しばらく立ち話。
しばらく本土に出ていたが、コザの生まれであるということで昔の様子などを聞く事が出来た。
こちらも初めて訪れた沖縄の文化や街並・建物に関する印象などを述べて、旅の総括をするような格好になった。
しばらく本土に出ていたが、コザの生まれであるということで昔の様子などを聞く事が出来た。
こちらも初めて訪れた沖縄の文化や街並・建物に関する印象などを述べて、旅の総括をするような格好になった。
この街にもまた来たいと思った。
また中の町社交街や、「ゴヤ市場」などを経てコリンザへ戻る。
次に向かったのは、そこから数キロのところにある「プラザハウス」である。
一見なんの変哲もないショッピングモールだが、
ここは1954年に開業した日本(当時は米国統治下であったが)で最初のものだという。
確かにアメリカのホームドラマに出てきそうな独特の雰囲気がある。
ここは1954年に開業した日本(当時は米国統治下であったが)で最初のものだという。
確かにアメリカのホームドラマに出てきそうな独特の雰囲気がある。
またしても「A&W」でやっぱり遅い昼食にして、プラザのベンチでしばらく休憩。
テラスのようなところだが大変暖かい。
他に人がほとんどいないということもあって、大変落ち着く。
子どもの頃から、こういったショッピングモールに慣れ親しんできたということもあるかもしれないが。
テラスのようなところだが大変暖かい。
他に人がほとんどいないということもあって、大変落ち着く。
子どもの頃から、こういったショッピングモールに慣れ親しんできたということもあるかもしれないが。
こういう「郊外文化」は北海道とも共通している部分だと思う。
西日に当たりながら那覇へと戻る。
ちょうど帰宅ラッシュの時間で結局那覇市中心部まで2時間ほどかかった。
旭橋駅近くのレンタカー会社に返したのが、ぴったり返却時間だった。
ちょうど帰宅ラッシュの時間で結局那覇市中心部まで2時間ほどかかった。
旭橋駅近くのレンタカー会社に返したのが、ぴったり返却時間だった。
沢山の自動車やバイクが走り抜ける国道58号を歩きながら、再び那覇バスターミナルへと向かう。
最後は本当に名残惜しいものだ。
そんなに沢山の街を訪れたわけではないが、那覇や沖縄ほど名残惜しいと思ったことはない。
予定していて行けなかった場所もたくさんあったためでもあるが。
そんなに沢山の街を訪れたわけではないが、那覇や沖縄ほど名残惜しいと思ったことはない。
予定していて行けなかった場所もたくさんあったためでもあるが。
日が暮れるころのバスターミナル、国道、それから最初に訪れた明治橋をカメラにおさめて部屋へ戻った。
空にはどんより雲が広がってきた。
空にはどんより雲が広がってきた。
この日のカット数436。
8日目
続いて出発の朝。
続いて出発の朝。
那覇を経つ日は雨であった。なかなか蒸し暑い。
天気が良かったら、最後にもう一回りしたかったところであるが。
簡単に部屋を掃除してからチェックアウト。
荷物と傘までさして、あまり満足には撮れなかったが、それでもマンションから壷川駅、それから空港などで少しだけ撮影。
正午過ぎに搭乗して、沖縄を後にした。
正月に誘われて、それから色々下調べ、大した事前知識もないままに、沖縄に飛び込んだが、
自分の写真の幅も広がったような気もして大変いい旅になった。
自分の写真の幅も広がったような気もして大変いい旅になった。
決まった予定は無いが、また訪れたいと今は思っている。
帰りも関西国際空港で乗換。
今度はターミナル内を撮り歩く。
もし日程に余裕が取れれば、一日くらい関西を見るというのもいいかもしれない。
なにせ、道内の地方都市に行くよりも安く行けるようになってしまったのだから。
今度はターミナル内を撮り歩く。
もし日程に余裕が取れれば、一日くらい関西を見るというのもいいかもしれない。
なにせ、道内の地方都市に行くよりも安く行けるようになってしまったのだから。
夕刻、関空を離陸して新千歳に向かう。
降り立った時の寒さを覚悟していたが、思ったほどでもない。
空港連絡バスに乗って外の寒暖計を見ると、わずかにプラスを指している。
これを暖かいと感じてしまうので、やはり1週間くらいでは身体が向こうに馴染むということはないのだろう。
これを暖かいと感じてしまうので、やはり1週間くらいでは身体が向こうに馴染むということはないのだろう。
飛行機を降りてから、空港連絡バス、それから家までの路線バス、いずれも接続が良かったのであっという間に自宅へと着く。
朝は蒸し暑い熱帯の街を歩いていたのに、夜は雪の上を歩いている。
朝は蒸し暑い熱帯の街を歩いていたのに、夜は雪の上を歩いている。
何とも不思議な感覚だが、これが日本列島の多様性なのだろう。
何と面白いことか。
この日のカット数103。
計2,749枚の写真のセレクト、レタッチ、プリントはもうしばらくかかりそうである。