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Yasushi Ito Portfolio Page

2018-03-11 東日本大震災の頃(2016年3月執筆)

震災から5年経った2016年3月。
当時の日記を元に、当時のことを振り返りたくなった。
先にブログやFacebookにも投稿したものを再構成。

 

 

2011年3月11日(金)

08:00頃 葛飾区の当時の自室で起床
09:15頃 京成立石駅からいつもの決まった電車で人形町まで
10:00  中央区日本橋本町の会社で勤務開始
当時勤めていたところを辞めるところだったので、引き続きのためのマニュアルなどを作成。

14:45頃 自分の引き継ぎ(候補)と思われる方が面接に見えたので打ち合わせスペースにご案内。
バタバタと歩いているとそこの社長が「揺れてるの分かる?」と声をかけられたので、
どんなものかなと思っていたところで、カタカタとした揺れから急に大きな揺れに変わる。

窓の外を見ると、向かいの建設中のビルの屋上にあった大きな水槽のようなものが波打っていた。
その手前には首都高速1号線が走っているのだが、そっちは特に揺れているようには見えなかった。

揺れている間は自分の作業スペースの本棚なんかを抑えてやり過ごす。
長い揺れだったけど、オフィスは書類が入ったダンボールが落ちて、
ホワイトボードが落ちてマグネットが割れた程度。もちろん人的被害も無し。

ひとまずmixiボイスで「とりあえず生きてます」と投稿したような気がする
(ボイスは一定数の投稿で消えてしまうので推測だけど)。
ネットを見ると各地の震度が出ていたが、まだ大災害であるという感覚が乏しく、
茨城沖を震源とする揺れも続いたので、もしかして関東が中心なのかな、なんてことさえ思っていた。

当時働いていたビルは築40年くらいの7階建てだったけど、
同じような条件の隣のビルからはガラス窓が落下して、
下の人は間一髪という話も聞こえてきた。
しばらくは落下物の片付けをしてから、それまでやっていた作業に戻った。
他の部署は東北の安全確認などで大忙しの様子。

19:00頃 退勤時間になったが電車が動き始める様子もなく。
食品を扱う会社にいたので、ホットドッグなんかを貰って平らげていたが、
電車も動く様子がないのでとりあえず動くまで歩くことにした。
会社から自宅まで10kmほどなのでそのまま歩いて帰ってもいいかなと思っていた。

20:00頃 会社を出ると昭和通は大渋滞で、歩道も沢山の人が歩いている。
例えるならマラソンの市民ランナーのように大勢の人が一定の速度でずっと同じ方向に進んでいる。

日本橋から馬喰町を経て両国橋まで。隅田川のテラスは冠水したような跡があった。
津波のようなものがあったんだろうか。
川沿いに走る首都高速は閉鎖されている。
川を渡ると人はぐっと少なくなった印象。
道路は依然として大渋滞だったけど。
隅田川に近い所を吾妻橋まで歩く。
また人通りが増えてくる。
それにしても沿道のコンビニや飲食店はどこも混んでいて、ほとんど商品が残っていなかった。
品切れのため閉店している店も。
そういえば部屋に買い置きもあまり無かったので(なにせ引き払う直前だった)、
明日からどうしようかななんてことも思い始めるが、とにかくは歩き続ける。

押上から京島のあたりを歩く。
地震があってこの辺りの戦前に建てられた家屋たちは無事かなということも思っていたのだが、
ほとんど被害のようなものは見受けられず。
曳舟で京成線に差し掛かると、遮断機は下りていないのに、踏切の警報音がずっと鳴り響いていて、
係員が安全確認をしていた。
八広の幹線道路もやっぱり渋滞していたが、この時代に「t.A.T.u」を爆音でかけているヤン車がいて、
この非常時に思わぬ化石を見つけてなんとも言えない気分になっていた。
荒川を木根川橋で渡る。
ここは通常なら夜は殆ど人もいなくて、治安上の懸念もあるエリアなのだが、
この日に限っては大変な交通量。

四つ木を抜けてようやく東立石の自宅へ。
10kmほどの道のりを時折写真を撮りながら3時間かけて歩いたことになる。
部屋に入ると本棚が倒れているかなと覚悟していたけど、
シンクのフチに置いていた調味料の瓶がいくつか倒れたくらいで、特に被害はなし。
そういえば東北の友人に安否確認のメールをしていたが返事はなし。

そして帰ってテレビをつけたところで、ようやく被害の大きさを理解することになる。
被害の状況が次々と入ってくるし、街中が炎に包まれた気仙沼市の様子が映されていて、
何が何だか分からない。

この日はすっかり疲れてしまったし、頭が混乱してきたので、さっさと休むことに。
とにかくモノが無い部屋だったけど、一応着替えと水くらいは枕元に用意して、
ラジオを聴きながら何かあったら逃げられるようにしておく。

時折余震で目が覚める。
震源は宮城県沖や福島県沖、それから中越地方でも地震があったという。
そして今でも気になっているのだけど、一度だけ東京湾の中心を震源とするドスンという揺れもあった。
ついでに首都直下地震かということも頭をよぎって、ちょっとしたパニック状態だった。

 

 

2011年3月12日(土)

時間は忘れてしまったけど、起きてからはずっとテレビを見ていた。
「◯◯人死亡・◯◯人行方不明」といった感じで、各地の被害状況が次々と伝えられるが、
「陸前高田市は壊滅状態」という今まで聞いたことのない表現に触れて本当に恐ろしい気分になった。

今まで聞いたことのなといえば福島第一原発に関する「炉心溶融」というフレーズ。
ちょうど震災の数日前にチェルノブイリ原発事故についてWikipediaの記事を読んでいたせいもあるかもしれないが、
この辺りからほとんど自分の中での現実感が失われていった。
あとは「計画停電」や「シーベルト」などといったフレーズも、この時初めて聞いた。

正午前くらいに携帯電話が復旧。数多くの安否確認メールがようやく届く。
もちろん東京は何ともなかったのだけど、ひとつずつ返信。福島県の友人の無事も確認された。

この日の東京は春の陽気だったが、当然どこにも出かけられず。
これが無かったらいつものようにどこかの街を撮っていたことだろう。
もちろん叶わなかったが、この次の週末にはレンタカーを借りて、
かつて暮らした那須高原や福島のいわきに行こうと計画していた。

テレビばかり見ていても仕方ないので、引っ越しの準備を進める。
本来なら3月下旬に引き払うつもりだったが、もっと早めたほうがいいのかもしれないと考えていた。

そして15:30頃。

福島第一原発の原子炉が爆発する場面を見た時は、思わず「は!?」と声を上げてしまった。
これで日本も終わってしまうんだろうなという所まで考えていた。
スタジオにいた「専門家」(後に仕事でお目にかかる機会があった)によれば、
これは爆発弁という装置を用いた制御された現象といっていたが、なんだか疑わしく思った。
今にして思えば「ベント」のことを説明したかったんだろうが、
1号機の爆発に関して言えばベントがきっかけとなった水素爆発だった模様。

夕方になって立石に買物に出かける。
イトーヨーカドーに行くと、飲料水やレトルト食品など非常用の食料になりそうなものはことごとく売り切れていた。
次の入荷も未定だという。
それから何故か4リットルの焼酎も売り切れていたのだが、
今にして思うと、ペットボトルとして必要だと考えられていたのかもしれない。

生鮮品はまだ残っていたので、寄せ鍋ができる材料を適当に見繕う。
鍋なら2日くらいは何とかできるので。
あとはインスタントラーメンとエビスビールが何故か1つずつ余っていたので購入。
家にはほとんど残っていなかったが、米が買えなかったので、どうしようかなという事を考えていた。

部屋に戻ってからは、節電が呼びかけられていたので電灯とエアコンを切ってパソコンだけつけて過ごす。
テレビはもう見たくなかったので、ラジオを聞いていた。
翌13日にはサイマル放送の「radiko」が震災を受けて全国で全放送局が聴けるように設定が変更された。

この日も何度かの地震。小さな揺れでも未だに地震に遭うと心が穏やかではないので、
ちょっとしたトラウマになってしまったのだろう。

 

 

2011年3月13日(日)

この日もほとんど自宅にて荷造りなど。
天気はこの日もとても良かった。
テレビも少し見ていたが、殆どはラジオとネットで情報収集。
インターネットで義援金を送ったりもしていた。

ラジオでは適切な情報や、被災者への声掛け、
それから人々を勇気づけるような楽曲がかかっていた。
色々な局を変えながら聞いていたが、
例えば高橋優の「福笑い」や「アンパンマンマーチ」などは何度もかかっていた。
となりのトトロでお馴染みの「さんぽ」を聴いていると、どういうわけか涙が流れてきて、
被災地(あるいはそれ以外の状況でも)の子どもたちはどれだけ不安なんだろうとか、
それでも自分はとにかく元気に歩いていかないとな、なんてことを、真っ暗な部屋で考えていた。

窓の外もいつもよりずっと暗い街並み。
結局実施されることはなかったが計画停電のスケジュールが発表され、
明日は無事に会社に行けるだろうかということを考えていた。

 

 

2011年3月14日(月)

9:00頃に京成立石駅へ。既に改札前は長蛇の列。
総武快速線も運休していたのでさらに混雑に拍車をかけたようだ。

会社に遅れると連絡をして、1時間ほど並んでようやく改札内に。
しばらく押上方面の電車を待っていたが、来る電車がことごとく混雑していてとても乗れる感じではなかったので、
逆方面の青砥方面に行ってみることに。
こちらはあまり混んでいなかった。

青砥についた時点で出社時間の10:00に。
上野行きの電車がやってきたので急いで乗り込む。
ホームでは駅員が「上野行き最終電車です!」と叫んでいる。
このあと11:00から停電のため運休が決まっていたためだ。

車内は以外にも空いていていつもの通勤ラッシュのレベル。
特急だったので順調に駅を飛ばして終点の上野まで。
上野から三越前までは銀座線。
こちらもむしろ空いているといっていいレベルだった。
とはいえ、朝からもうクタクタだった。

結局11:00前くらいに出社。社内は最低限の照明だけで暗い。
金曜日に作っていたマニュアルを印刷したところだが、
引き継ぎをする人も当然ながら決まっていない。どうしようかなと思っていたところだったが、
14:00頃になって、すぐ帰宅してしばらく自宅待機するように、ということになった。
結果的にこの日が最後の出勤日。

少し街を見ながら用事を済ませたいと思い、日本橋本町から神田・秋葉原方面へ。
いつもより人通りが少ない。
会社で聞いた話によると、銀座中央通も殆ど人が歩いていなかったという。

そういえば電池で聴けるラジオも懐中電灯も無いので、
秋葉原の電気店を何店か覗いてみたが、ことごとく在庫は払底していた。
やはりこういう時の備えは通常時にしないと駄目なんだなとつくづく思った。

銀座線末広町駅から地下鉄に乗って浅草まで。
浅草からは都営浅草線で押上まで。この時点で16:00前。
京成線の運転再開は17:00からということで、ホームでしばらく待っていることにした。
最初はあまり人がいなくてそんなものかと思っていたが、
やがて改札前で抑止されていた人たちが流れ込んできて、すっかり埋まってしまった。

結局、運転前に試運転列車を運行させるということになって、運転再開は更に30分ほど遅延。
やっと乗ることのできた電車は恐ろしいほどの混雑ぶりで、保護棒に押し付けられた肋骨が折れるじゃないかと思った。
こんな事なら押上から歩いて帰ったほうがずっと早かった。

いつものように立石駅前のイトーヨーカドーに寄る。
何を買ったか覚えていないが、店には殆ど何も残っていなかったことは覚えている。
夜もどう過ごしていたか覚えていないが、相変わらず節電で真っ暗だったし、
インターネットを少し見て、さっさと寝てしまったのだろう。

 

 

2011年3月15日(火)

この日はずっと部屋にいた。前日には福島第一原発の1号機に続いて3号器も水素爆発したという。
都内にも放射線物質が拡散していて、同じ葛飾区内にある金町浄水場では放射性セシウムが検出されたという。
普段から飲み水は水道水だったので、何となく煮沸消毒のようなこともしてみたが、
すぐに意味のない行為だと思った。
その有効性も勿論だが、今更被爆したって仕方のないことだなとも思っていた。
部屋からはガソリンスタンドが見える。
朝からかなりの台数が並んでいる。本当に必要なものはどれだけあったのだろう。

この震災でお蔵入りになってしまったという九州新幹線のCMのことを知る。

震災が無ければ恐らくトップニュースだったんだろう、ということも思いながら、
また涙が流れてきてしまった(今でも涙ぐんでしまうのだけど)。
何でもないと思っていたが、誰も話す人もいなかったし、
実は精神的にだいぶ参っていたのかもしれない。

 

 

2011年3月16日(水)

10:00すぎくらいに部屋を出る。札幌に戻ってからでも良かったのだろうけど、
両国にある本所警察署で運転免許の更新を行うことにした。
両国ならさして遠くないし、混雑しているかもしれない電車に乗るのも嫌なので、
歩いて行ってみることにした。

東立石の自宅から、いつものように東四つ木を抜けて荒川まで。
川を渡って、八広・平井・亀戸などといったところは近くだったのに初めて歩いたところだった。
久しぶりに外に出たので忘れていたが、花粉症の症状に苦しむ。
この時は放射性物質よりもスギ花粉の方が個人的にはよっぽど問題だった。

ゆっくり撮り歩いてしまったのか、午後の講習に遅れそうになったので亀戸から電車に乗る。
駅の構内は真っ暗で、運行状況を知らせるLEDだけが光っている。
電力需給の変化なのでダイヤはあってないようなものになっていた。
両国で降りて、すぐ近くの本所警察署で運転免許更新手続と講習を受ける。
大きな地震があった場合は講習は中止になるという話があった。

講習中に何の予兆もなく激しい頭痛と吐き気に襲われる。
終わったら周辺を撮り歩こうとも思っていたが、当然そうも行かず、
這うようにして両国駅に戻る。
いつの間にか空は曇っていて、強い風が吹いている。
徐行運転をする総武線で新小岩まで。
まるで海のように高い波を立てている荒川は初めて見た。
バスかタクシーか忘れたが、15:30くらいに何とか家まで辿り着いて布団に倒れ込む。
これまでも今でも時折出る症状なのだが、激しい頭痛と吐き気、悪寒に苛まれることがある。
こういう時は寝るしかないのだが、この時は翌朝まで実に17時間も寝ていた。
ここ数日、夜中も余震で起きることがあったせいからか、
その他の精神的ストレスによるものなのか、この時は特に酷かった。

 

 

2011年3月17日(木)

昨日の夕方から一度か二度起きただけで、ずっと寝ていたためか少し頭痛は残ったものの殆ど回復。
精神的にもだいぶすっきりした気がする。
しかし、外は依然として強風が吹き荒れていて、風のせいなんだろうが、
窓ガラスが少しでも揺れると、
また余震かと身構えてしまう。

今回の震災について天皇陛下からお言葉があったと聞いたので動画サイトを覗いてみる。
こうして陛下から国民にメッセージがあるのは昭和20年の「玉音放送」以来だということで、
改めて事態の重大さを感じた。

この日はまず葛飾区役所に出掛けて転出届その他の手続きを。
年度末だからかそこそこに混んでいたが、やはり庁舎内も節電で暗い。
手続きを終えてスーパーマーケットへ。いつもなら立石駅前のイトーヨーカドーだが、
この日は初めて区役所前のサミットに行ってみた。
すでに流通も一部が復旧していて、店にはパンや水などが並ぶようになり、
生鮮食品や生麺のようなものは十分過ぎるくらいある。
それでも米やインスタント食品のようなものは何も残っておらず、だいぶ買い占めが進んでいるという印象だった。
ハッシュドビーフの材料などを買う。
確かに次はいつ入荷があるか分からないし、家族がいたり色々な事情はあるだろうけど、
もはや集団パニックといってもいい状態で、
これで本当に復興ができるのかなと思っていたが、
5年経ってその危惧はある程度あたってしまっているようにも思う。
自宅近くのガソリンスタンドも相変わらず長蛇の列。

その後、奥土橋近くにあるホームセンターなどで買物をして、曲がりくねった中川に沿って帰る。
川沿いに今まで知らなかった小さな祠を発見したり、
防災頭巾を被って集団下校してる小学生に出くわしたりすると、
なんだか戦時中の永井荷風になったような気分になる。

この頃は永井荷風の全集を買ってあれこれ読んでいたが、
一番興味深かったのはその1917年から1959年の日記である「断腸亭日乗」で
(そもそも全集を買ったのも日乗の全部を読むためであったが)、
戦中戦後の物資が不足していた時代は、買い物袋をぶら下げて、
色々な街を歩いていたという記述が見られる。
その時期ではなかったかもしれないが、この奥土橋や中川沿いを歩いていたこともあったようだ。
思えば東京にいたこの1年半も、銀座・浅草・向島・荒川・市川などと、荷風の足跡を辿る旅でもあった。
行動や思想的な面でも影響は非常に大きく、また読み返したくなってきた。

さて、部屋に戻ると強い西日が射している。
しばらく暖房も入れていなかったので久々に暖かいと思った。
太陽が沈んでしまえば、再び東京の冬の寒さに襲われる。
体感的には北海道よりもずっと寒い。

しかし、被災地では避難所の気温は屋外より下がることもあったという。
こうした話を聞くと、これを受けたかどうかは分からないけど、
2011年4月からCMで流れていたザ・クロマニヨンズの「ナンバーワン野郎!」という曲の
「外よりも寒い部屋 立ち上がる 立ち上がる」という歌詞を思い出す。

 

 

 

2011年3月18日(金)

震災から1週間。
この辺になると記録も記憶も曖昧だが、引き続き荷造りをしたり、
避難している友人知人に電化製品などを発送していたように思う。

夕方には荒川河川敷に出る。
とにかく絶望的なニュースが続く中、東京スカイツリーが634mに達したという話を聞いて、
どうしても見に行きたくなった。
その時はスカイツリーこそ再生する日本の希望の象徴という思いがあったのだと思う。

河川敷のいつものビュースポットに。
2009年11月に東京に来た時は足元が立ち上がったくらいだったが、
時折訪れる度に順調に伸びていくにつれ、それなりの思い入れもあったのだが、
結局現在に至るまでスカイツリー自体には登ったことはなし。
この日も日没までスカイツリーと荒川を撮り続けた。
太陽とは反比例して久しぶりに気持ちが上向いてきたような気がした。

夜になってからは後輩に立石駅前まで来てもらって、
引っ越しに伴って不要となる食品や生活用品などを引き取ってもらう。
立石駅近くの焼き鳥屋「おらんだ亭」に初めて行って、この1週間の色々なことを話し合う。
彼の会社は原発に関わる業務もあったので、それはそれは大変だったようだ。
酒を飲むのも久しぶりだったが、なんだか救われた気がした。
店にいる間、何度か白熱灯が点滅して、ついに停電かとも思ったが、無関係だった模様。
一応金曜日ということもあって、お客もそれなりにはいたけど、
飲み屋天国ともされる立石のいつもの活況からはまだ遠かった。
結局、泥酔といっていいレベルまで飲んでいた。

 

 

2011年3月19日(土)

この日は前日の二日酔いであまり使い物にならなかったように思う。
部屋から見えるガソリンスタンドはこの日も長蛇の列だった。

震災がなければその前日の18日に退社して、
それから10日くらいは、色々と出かけようかと思っていた。
まずはかつて暮らしていた那須塩原やいわきを巡って、
あとの残りは東京で撮っていなかった街を何箇所か。
家の近くでは荒川沿い小松川や船堀のあたり、
それから今まで手薄だった板橋区や中野区、世田谷区といった西の方。
最後はいつものように向島から北千住にかけてや、浅草・銀座などを予定していた。

一昨年(2014年)の1月に再び東京を訪れる機会はあったが、心残りは今なお多い。
やっぱりその街に住まないと、自分はやはり上手く撮り歩くことができないし、
その当時はあまり街に出るという気分になれなかったが、それは仕方ないことかもしれない。

今ではあの頃よりずっと気分がフラットというか、
醒めた見方しかできなくなってしまったが、
それは写真にとっていい事なのだろうか。

 

 

2011年3月20日(日)

この日で荷造りは殆ど完了。
部屋から見えるガソリンスタンドはついに休業になっていた。
元々日曜定休だったのかもしれないが。

夕方近くは立石・四つ木あたりを散歩。
家のすぐ近くなのに今まで通ってこなかった道ばかりを選ぶと、
全く違う町にも見えてくる。
近所ももっと丁寧に歩いておけばよかったかもしれない。

時折訪れていたインドカレー屋で立石最後の夕食。
カレーとナンとタンドリーチキンとサラダのセットのようなもの。
インドだかネパールのあっさりとしたビールといっしょに。
テレビでは宮城県で屋根の上に乗って命拾いするも、
数日間漂流したという高校生の話が紹介されていた。

家に帰ろうかというところで、友人から連絡があり最後に上野で会うことに。
京成線を乗り継いで、やはり何度か訪れた上野駅構内にあるアイリッシュパブへ。
以前から上野の駅や町には一種の暗さのようなものを感じていたのだが、
その日は節電で町は本当に暗かった。

 

 

2011年3月21日(月)春分の日

震災から10日。
終日の雨で冬のように寒い。
この日東京を後にする。

午前中に荷物を取りに来てもらう。
札幌に届くまで10日前後はかかるという。

昼食がてら新小岩に出て、それから錦糸町や押上方面を撮り歩く。
最後に見上げたスカイツリーは雲の中。
思えば雨の中撮り歩くというのは少なかった。

16:00頃に立石に戻って管理会社に部屋を引き渡す。
いつものように部屋を出て、いつものように京成立石駅から電車に乗ったが、
ふと思い立って浅草で降りる。
浅草寺の仲見世を歩いてみたが、やはりこのような状況ではあまり人が歩いていない。

続いて訪れた銀座に至っては、ほとんどのネオン看板類が消されており、
今まで見たことのない異様な雰囲気だった。
商店なども一応営業はしていたのだが、人通りは少なく、
雨の18:00頃だとしてもとにかく暗くて、街全体が寂しい。
もしかして戦争中の銀座もこんな感じだったんだろうか。

もちろんそんな寂しさや非常時の物珍しさのようなものはあったのだが、
東京を離れるにあたっての感慨は思ったよりは少ないと感じていた。
すぐに何かの機会で戻ってくるだろうとも思っていたが、
特に用事らしきものもなく結局4年もかかってしまった。

新橋から羽田空港行きの電車に乗る。
やはり祝日にしては空港に向かう人も少ないようだ。
物思いに耽る間もなく、地上を出てすぐ品川を過ぎた辺りでガクッと寝入ってしまい、気付けば羽田空港。

20:05発のスカイマーク729便。
当時の航空券予約メールを調べてみると、28日発・25日発・そして21日発と出発日がめまぐるしく変わっている。
何か事情があったはずだが、こういう重要なことに限って全く覚えていない。

とにかく、まずは「札幌行き」と書かれたバスに乗って駐機場まで向かい、
やはり飛行機に乗り込んだらすぐに寝てしまって新千歳空港までもあっという間。
空港には父に迎えに来てもらって、そこから車で札幌に向かったのだが、
帰ってきたという意識もまた希薄だった。

これを書いているときに思い出したが、震災が無ければ上野から北斗星でゆっくりと帰ろうと思っていた。
今にして思うと、それなりに後ろ髪引かれるものがあったのかもしれない。

 

そんなわけで札幌に戻ってきて今日で丸5年。
振り返るにはちょうどいい機会だったのかもしれない。